マスクとわたしとすずと

晴れ?寒さも今日までみたい。こんばんは、ユ・ジョンヨンです。

 

3/13より、マスクの着用を個人の判断に委ねるという政府見解がある。マスクの着用については一度記事を書いている( https://poppo.hatenadiary.jp/entry/2022/09/22/213140 )が、3/13についての政府の見解はひとつの契機になるだろう。弊社では、「その時々の状況によるが、基本的には個人判断としたい」とのことだ。さて、俺個人はというと、まあしばらくはマスクつけるだろうな、たぶん。花粉症だし。そうしてしばらくした外しても怒られなさそうになったら外そうかな。でも、政府がいい加減にマスクしなくていいよ、と言い出したのはいいことだと思う。感染対策に本当に効果があるのかどうかも検証できるだろうし、外したかった人にはようやく大義名分になるだろう。

この大義名分というやつは非常に大事で、なんでも言い訳があるのは大事だ。マスクの着用については、感染対策という建前ながら、その効用以上にコミュニケーションとしての機能が大きかったとおもう。これはマスク推奨派も反対派もある程度認めるところではないかと思うし、まさにこの点において賛否が分かれていたのではないか、という気がする。前述の記事でも書いたが、マスクがコミュニケーションとしての機能を持つ、即ち世間の風潮ないし政府の方針と同調するという意思表示となるならば、マスクをしないこと自体がこれに反対するコミュニケーションになる。ところがマスクには、当然ながら感染対策の効用も考えられているから、自身の信条表明を他人への感染に優先させるのか、というカウンターがとられてきた。この点について反対派は極めて劣勢であり、どうしたって上記のような(自分の信条を感染に優先させる)姿勢だととられざるを得ない。どうしたってマスクをした方がいいからだ。俺個人の経験でいえば、残念ながら会食によってコロナにはかかってしまったものの、マスクを始めてから一度も風邪を引いていない。それでも、政府がもういいよ、といえば外しようもあるだろう。社会的合意がそれを支えるからだ。日本はずっと、マスクについてはかなり強く我々に要請してきた。元々マスクにあまり抵抗のない国民性だし、手っ取り早かったのかもしれないが、あらゆる場面でマスクを要請されてきた手前、レストランやらの施設としても、政府の判断がないとやめようがなかっただろう。3/13以降、すぐにマスク非着用に社会的な合意が得られるかは疑問だが、ひとまず次のフェーズに進めるわけだ。

こうなってくると、一部の"目醒めた"人々お得意の「政府の犬め、自分で考えられないのか」的なカウンターが飛んできそうだが、我々は誰も疫学の専門家ではなく、素人が「自分で考えたこと」ほど怖いものはないのだから、お上に責任転嫁するのが何よりの処世術である。それに、前回の記事にも書いてあるが、俺個人はそもそもマスクを外したい!という意志には反対しない。好きにしたらいいと思っている。ただ、何度もいうようにマスクが既にコミュニケーションの機能を持っている以上、馴染まないコミュニケーションを行う者たちとの間に軋轢が発生する。「自分で考えて判断する」とはそれによって発生する結果に責任を負うことであり、自分でケツを拭けない者がすることではない。だから世の多くの人たちは、自分では拭けないケツをお上に拭かせるべく、とりあえず言う通りにしておくのが最善と判断しているわけだ。それを理解できないのか、言う通りにするのに我慢ならないのか、どうしても「自分で考えて判断」したい人たちがいるようだが、そもそもマスクを着けている人々も「自分で考えて判断」した結果そうしているわけだし、なぜ自分たちだけが脳みそを持っているという偏狭な考えになるのか疑問である。

もっとも、これらの日和見主義的な姿勢そのものへの批判はあり得るだろう。突き詰めると、自分以外の誰も自分の人生の責任は取らないのに、なぜ他人(政府)がケツを拭いてくれると思っているのか?と。なるほど、そう考えるなら好きにしてほしい。俺はそれを止めない。俺はただでさえ軋轢を生みがちな人間性からして、なるべく軋轢のない人生を生きたいと思っているし、周囲と同調することの温かさやスムースさが好きなのでそこにいるのである。これも俺が「自分で考えて判断」したことだ。