二礼二拍手一礼八十五スパチャ

晴れ。暑くなってもらわないと困る。こんばんは、時東ぁみです。

昨日はお気に入りのVtuberができたという話をした。そこで改めて感じたのだが、Vtuberというのは本当に凄まじい人気だ。お笑い芸人たちがこぞってYouTubeを始めても20〜30万人程度、名のある料理人でも30万人前後だというのに、Vtuberたちはあっという間に100万人レベルの登録者数を集める。さらにスパチャの量も凄まじい。昨日書いたサロメ嬢の雑談配信では秒間数千円〜数万円のスパチャが投げられ、1時間の放送で100万円近い売り上げを達成したのではないか(なんとなくの目測である)。Vtuberの収益のうち、どれくらいをスパチャに頼っているのかはわからない。俺はYouTube課金勢なので、広告がついているのかどうかもわからないし、Vtuberのお金周りの仕組みもあまりわかっていないが、人気配信者となれば、スパチャの額もバカにならない規模になるだろうとおもっている。スパチャというのはすごい行為だ。スパチャを払わなくてもVtuberが提供するコンテンツは十全に堪能できるのだから、完全に払わなくてもいい金を払っているように見える。中には、メンバーシップ登録者に向けて追加コンテンツを配信する者もいるが、おまけ程度のものだろう。昨日紹介したようにスパチャを投げれば読み上げてくれるのでそれが嬉しいという人もいるだろうが、数百円ならまだしも数千円、数万円ものスパチャを投げる心理はそれだけでは説明しきれまい。ひとつには、コンテンツに対する謝礼、大道芸人に対価を渡すような、お気持ち、おひねりとしてのスパチャがあるだろう(ただし、これはかなりええかっこしいな解釈だと思っている)。もうひとつには、エゴイスティックなラブレター(言うまでもなくラブレターとはエゴイスティックなものだが)としてのスパチャがあるだろう。より大きな金額を渡すことで、より相手に喜んでもらえる、もちろんその喜びは渡した自分へ向けられるから、相手の意識の占有率があがることで優越を得る。万が一にもわたしを認知してくれたら、わたしを好きだと言ってくれたら!という祈りのような、投げ銭というよりはお賽銭のような側面もあるかもしれない。さらにはこんなふうにも考えている。つまり、スパチャで投げる金は当然、自分が働いて手にする金である。あるいは未来の自分が何かを得るための原資である。そういう意味を持つはずの金銭を、より多く渡すことで、相手の収益ひいては相手の生活な与える影響度は大きくなる。生臭い言い方をするが、金を投げることは、否応なく相手の人生に自分の人生を流れ込ませる行為だ。通貨というのはコミュニケーションである。言葉や情動をショートカットして人と人を繋がせる。スパチャを通じて、コメントのラリーを超えたコミュニケーションを実現することができる。

と、ここまで書いたが、これらスパチャの持つ効用は、はっきり言ってそれを投げる側の都合の良い解釈、過大・誇大・拡大的な妄想、ほとんど神に対する儚く脆い祈り、霧に向かってボールを投げるような徒労である。貰う側にしたら、個別のスパチャなんて有象無象のなかのひとつ、濁流の中に落とした一粒の小石、毎日の排泄物の1gに過ぎないので、そんな実存を賭けて投じられても迷惑という話だ。さらに儚いのは、そんなことはお互いに分かりきっているということだ。スパチャ投げる側は、所詮この金をもっても相手の意識を占有することなど叶わないとうっすら諦めながらも愛と一緒に金を投げるし、貰う側も、簡単に憎悪にひっくり返りかねない危うい愛を孕んだ金をニッコリ笑顔で受け取る。これもまた、虚構と現実の揺らぎが起こっているのかもしれない。ファンタジーを信じていると、時々、飲み込んだはずの現実が胃から戻ってきそうになる。その吐き気に耐えては、再び夢の世界に陶酔する。うっかり現実を吐き出してしまうとその後処理はなかなか大変なのである。なんでスパチャ投げる側のグロめな感情をそんなに日記に書き込むのか?俺がそっち側の人間だからである。俺は現実でも好きな人間にスパチャ(物理)を投げがちで、そのことで前述のような歪んだエモを発生させたり、強烈な憎悪を醸成したりするのである。よくないと思う。よくないと思うが、愛とはその発展段階においてどうしてもそういうフェーズを通らなければならないような気もするのである。下を向いて生きるのが好きな民にとっては。