わたしを覚えているだれか

晴れ。朝夕は涼しくなってきました。こんばんは、iveウォニョンです。

四半期に一度くらいで東京ビッグサイトに行く。ギフトショーという合同展示会?みたいなイベントがあり、洋服、雑貨、健康器具、自治体、工場など、種類の企業・団体がブースを出して商品を紹介しており、新たな商機を狙う催しだ。訪れるのは俺のような小売の人間だけでなく、問屋やメーカーなどこれもまた多岐にわたる。今日はそんなギフトショーに行ってきた。仕事ではあるが、ぜんぜん関係ない世界の企業も見られるのでけっこう楽しい。ちなみに仕事につながる収穫はほとんどない。10回いって1回あるかないかくらい。だが、なにか、労働のモチベーションも上がる気がする。自分の企業ってしょーもないな、誰も知らんしな、俺が頑張っても誰のためにもならねーなみたいな気分になることはよくあるが、多くの人が労働にひたむきなこの場になると、ああみんな頑張ってるなあ、俺も踏ん張ろう〜と思う。 出展している企業の中には既に取引している企業や、以前に取引していた顔見知りの企業などもあり、そういうブースで井戸端会議をする。これが楽しい。滅多に会えないかつ本腰の商談ではないテンションで話す。戦友のような気分である。

ところで、この、あまり会わない取引先と会って話すと楽しいの件は、俺の情けなさが現れているかもしれない。俺は子供の頃に、昔通ってた保育園とかにいきなり突撃して、懐かしがってもらうというヤバい試みをしたことがある。自分が通っていた当時の先生などおらず、呆気なく追い返されたのだが、この、「自分の存在を喜びをもって受け入れてもらいたい」というのは俺の中でけっこう強めの衝動になるときがあり、はた迷惑なので駆逐するべき感情だと思っている。他にどんなことをしたかといえば、例えば洋服屋さんですごく話が盛り上がって買い物をした店員さんをまた尋ねて、僕のこと覚えてますか!と聞いてみたり、懐かしいメンツがいる飲み会は遅めに登場してみたりする。これはもう単純に、自分を受容してほしい、即ち普段は受け入れられていないと感じていることの反動であり、絶対に克服しなければならない。自分が他人に受容されていると感じることは生きていく上でめちゃくちゃ大事だと思っていて、これが足りないと、ホストとかキャバ嬢とかに貢いでみたり、逆に誰かを攻撃したりしてバランスをとろうとするんじゃないかと思っている。で、俺はこの情動が強めなので、ギフトショーに行く時は、自分を知っている誰かを尋ねて歩いて行くのである。だめじゃん(だめでもない)。

ジーパンの変遷を書いているだけの記事

雨のち曇り。すごい雨。こんばんは、菜乃花です。

俺は服が好きだ。服が好きだが、めっちゃオシャレというわけではないしかなり太っている。ジーンズが好きでよく履くが、最近は太りすぎて展開しているサイズがなかったりする。振り返るといろんなデニムを履いてきたが、なかなかゴールは見えない。今日は買ってきた服をただ懐古するだけの記事。

初めて買ったちゃんとしたジーンズは、リーバイスの517だった気がする。シンガポールで買った、真っ黒の517。横糸も縦糸も黒く染められていて、いま流行りのグレーに色落ちするブラックデニムとは違うやつだ。小学6年生くらいだったとおもう。中学に進んでそれがきつくなってくると、リーバイスの503、同じのリーバイスのよくわからないブラックデニム、高校になると古着のめっちゃ色落ちした501と変遷していった。特にこのめっちゃ色落ちした501は気に入ってよくはいた。当時は古着ミックススタイルが流行ってて、原宿の美容師がみんなアイスブルーでボロボロのジーパンを着ていた。実はチープマンデーの黒スキニーも買ったことがあるが、もともと足が太いので着用感に耐えられずほとんど履かなかった。大学に進むと、色落ちのない、いわゆる生デニムに憧れて、A.P.C.を買うことになる。太い方がかっこいいと思っていたので、いまは廃番になってしまったレスキューというモデルを履いていた。大学4年間はほとんどこれを履いていた気がする。靴はもっぱらスニーカーで、アディダスのキャンパス2とコンバースをよく履いていた。社会人になると、リゾルトと出会う。これがけっこう大きい転換点だった。それまでは(サイズが自由に選べる体だったこともあり)あまりサイズ感みたいなものを気にしてなかった。リゾルトと、さらには徳島の名店ボーイズマーケットを知ったことで、今まで着たことのないサイズ感に足を踏み入れる。余計なゆとりはないが、タイトすぎないシルエット。アイビーテイストみたいなものを強く意識し始めるのもこの辺りから。それでリゾルトを履き始め、パラブーツなんかを合わせ始める。並行してアナトミカのことも知り、ユーロテイストなんかも生意気に意識し始める。これが数年続くが、少しずつ太りはじめ、リゾルトが前提するボディバランスから遠くなってくる。だんだん「きつい思いをして服を着たくないな、、、」という気分が強くなり、ボーイズマーケット的、あるいはtake ivy的なきっちりフィットから少しゆとりを求めるようになり、workersというブランドと出会う。workersはデザイナー自身がむっちりしているせいか、大きいサイズも豊富に展開しており、デニムも柔らかめで履きやすい。そこから、アメリカのおっさんになりたいという思いを抱えていまに至る。クラシックスタイルを信条としてはいるが、実はモードなスタイルを横目でみている。ダイワピアとか、テアトラとか、サロモンとか、いいなあ。でもどうだろなあ、みたいな。ワンコーデ分だけでいいから買ってみようかな。カウラムも買ったしな。

『インサイド・ヘッド2』

晴れ。あつい、、、ふうふう、、、こんばんは、ハズカシです。

インサイド・ヘッド2を観た。良かったので感想を書きます。基本的に当ブログはネタバレには配慮せずに書くため、気になる人はこのページを閉じてほしい。

1作目のインサイド・ヘッドは3回くらいみた。すごい刺さったという感じはなかったけど、キャラクターがすごく可愛くて、コミカルな表現も好きだった。前作は、幼いライリーの感情たちを擬人化、成長にあわせて複雑化していく過程を描いた。2ではライリーがさらに成長し、新たな感情たちの芽生えと、それまでの感情たちがどのように折り合っていくのかが描かれる。

先に気になったところから書く。前作を見た時も思ったのだが、感情と、ライリーの行動や"意識"みたいなものの順序や支配関係がよくわからない。例えば、"1"の冒頭、ライリーが部屋を走り回って遊んでいる時に、掃除機のコードに引っかからないようにビビリが機械(脳?)を操作すると、彼女は走るのをやめてコードをそっと避ける。感情たちが彼女の行動に先立っているように見えるのだが、記憶の忘却や思春期の到来など、感情たちにも把握できないかつ逆らえないルールのようなものがあるようだ。また、ライリーが行き詰まった時に閃く"アイデア"は、感情たちが自発的に開発するものではなく偶然見つけるものなようだった。つまり感情たちではない何かがアイデアをつくっている?さらに言えば機械をどの感情が操作するか(=ライリーがどのような感情を発露させるか)は、感情たち自身が決めているように見えるが、2の終盤では機械のほうから感情を呼び込む描写があった。どっちが主導?あと、前作でも今作でも、感情たちはライリーの精神世界の中でいろいろと奮闘するのだが、"感情が精神世界の中を動き回ること"自体が、なにかの比喩表現になっているのか?と思いながら見ているとなんだかよくわからなくなってくる。 ライリーの意識と、感情たちの意識のレイヤーがどうなってるのかが難しいのかもしれない。たとえば、感情たちはライリーが幸せになるために奮闘するが、つまり幸せになることは感情たちとは別の場所で起こることになる。それってなに?"ライリー自身"はどこにいるのか?シアワセという感情がいればすべて解決では?みたいな考えが浮かんできて、このインサイド・ヘッドという作品世界のルールがよくわからないまま映画が終わっていく感じがあった。

良かったところだが、もうとにかくキャラクターたちが可愛い。出てくるすべてのキャラクターが愛おしい。感情たちもそうだし、ライリーの両親、友達、新たな環境で出会う人たちもみんな概ね善人で、憎まれ役みたいな人がいない。これは俺としてはストレスがなくてよかった。その代わりに、新たな感情としてやってきたシンパイがヴィランを担うが、このシンパイがとにかく良い。声優が多部未華子だとみて驚いた。めちゃくちゃいい。多部未華子の演技がシンパイを絶妙なバランスにしていると感じた。ちょっとクセがあって嫌味な喋り方をするようだけど、その奥に清廉さを感じるから、苛立ちは湧いてこず、憎めない。映画終盤、シンパイは自分一人ではライリーを救いきれず、ヨロコビに道を譲る。彼女もまたライリーの幸せを願うだけなのだという健気さに涙する。これが、シンパイはやなやつだな、と思って見たらずいぶんと後味が違ったと思う。もちろんシンパイだけでなく、花澤香菜演じるイイナーや坂本真綾演じるダリーなど、錚々たる声優陣の演技がフレッシュだし、インサイドヘッド特有のモチモチ、ムニムニとしたキャラクターたちの質感も愛らしい。「キャラが可愛くて演技がいい」というだけで何やってるのかイマイチわからなくてもずっと観ていられる良さがある。

善なるヨロコビと悪なるシンパイという二項対立に落とし込まないところも良かった。思えば前作も、ライリーの幸せに直接的に作用するヨロコビと、相反する作用をもたらすカナシミを、最終的には調和させるという着地が良さだった。今作もそうした弁証法的な着地を見るわけだが、新たな軸として、パーソナリティやアイデンティティといった社会と自己との相克めいたものが取り込まれているのも共感を呼ぶ。ポジティブな面もネガティブな面も(全ての感情も)含めてトータルで自分自身で、それを抱きしめて生きていこうというメッセージも、最近のディズニーらしいが非常に穏当で良い。また喜怒哀楽といったシンプルかつ刹那的な感情を排し、心配や羨望、羞恥といった社会的な感情が前面に出てくるというのは、前段で書いた「感情たちが精神世界を右往左往する意味」が、前作よりも付与された気がして良かった。さらに、社会性の獲得に伴う新たな感情が引き起こしたトラブルに対して、刹那的・原初的な感情がむしろ救済になるというのは生きやすさの指針としてきらめく解決策だし、心配という、生活の中でかなり大きい役割のある感情に対して、"特別な椅子"を用意し、リラックスしてもらうという解決策もtake it easyな感じで良った。とにかく、人間讃歌的なムードを感じる作品で感動的だった。もうほとんどネタバレして言うのもなんだが、見てみてください。

お盆に現れるボンバーマン→オボンバー

晴れ。なんかさ、暑さ、和らぎつつない?こんばんは、桜井日奈子です、写真集よろしくお願いします。

お盆、いいなあ。人によっては9連休とか。9連休もしたら社会復帰できる気がしない。10代の頃は1ヶ月くらい休んでたのにね。社会復帰できる気がしないとはいえ、してみたい、9連休。俺は新卒から小売業にいるので、最大でも5連休くらいしかしたことがない。会社を変えればできるなあ、9連休、いいなあ。したいなあ。お盆といえば帰省だが、俺は生家が既になく、両親も引っ越したので、生まれ育った土地に帰る理由がない。おもえば、伯父や伯母、従兄弟たちともずいぶん会ってない。10年くらい会ってないと思う。元気かな。去年結婚したときに、みんなにひととおり電話はして、元気であることは確認したんだけど、顔を見たわけじゃないし。会社の同僚に、従兄弟って会ってる?って聞いたら、人生で2回くらいしか会ってないと言われて驚いた。遠くに住んでるわけじゃないが会ってないらしい。こういうのって家庭ごとの関わり方がある。俺には姪(兄の娘)がいるが、離れたところに住んでいるから、滅多に会わない。俺は伯父や伯母たちとよく会ってきた幼少期だったから、ナチュラルに誰もがそんなもんだと思ってきたが、たぶん彼女は俺の存在をほとんど認識することなく生きていくし、俺も姪の成長を見届けることなく生きていく。彼女の母方の親族は近くにいるっていうか確か一緒に住んでたはずだから、そちらさんがメインの親戚づきあいになるわけだ。伯父や伯母というのは、学校のような仕組みの外にいながら、家族の外にもいる不思議な存在で、人見知りの俺はやや苦手だったが、大人になってくるとそれなりの愛着も湧いてくる。そういう存在に自分がなるのかと思っていたが、意外とそうはならなそうで残念だ。残念半分、姪に対するポジションを決めかねてモジモジしちゃう自分もいたので、そうした役割を負わずにすむなあという安堵もある。幼児とか犬とか猫とかの小さくて可愛くて手間のかかるいきもの(←怒られそうな書き方)、好きなんだけど、関わり方がわからなくて距離をとりがち。マユリカのラジオを聴いていたら、友達の子供に好かれたすぎる中谷がめちゃくちゃきもかったけど、気持ちはわからんでもない。俺も、特に責任を負ってない子供に好かれたい。責任がないからこそ距離を取るみたいなところもあるが。でも自分を振り返っても、いうほど親戚に甘えたりとかしなかったしな。親が一番。どんなお盆をお過ごしですかみなさん。

ネット仏陀、見知らぬ他人を憎むこと。

晴れ。シャワーを浴びても自分が汗臭くていやになる。こんばんは、榎原依那です。

俺は割と、芸能人の不倫とか、政治家の汚職とか、どこぞの市長の暴言とか、見知らぬツイッタラーの非礼とかに腹を立てるタイプで、毎日なんだかイライラしている。イライラの素がSNSから運ばれてくることに気付いてからそれらに距離をとるようにしており、最近はずいぶんとマシになった。こういうことを理解できない的な言動はよくみる。「よく、自分に関係ないことで怒れるなあ、暇なのかなあ」的なアレ、カッコつけてるよな。こんなことで心を動かされない自分はイケてると思ってそう。そんないい子ぶったうらなり君のスカした姿勢とは裏腹に、ネットには見知らぬ誰かに実存を傾けたがる人が多いと思う。というか、そういう感性があるからSNSを一生懸命やれるんだろうなというぼんやりとした直感がある。不祥事があるとみんなで一斉に叩きに行ったり、擁護したり、何かを言わずにはおれなかったり。 しかし、冷静になると不思議である。自分に全く関係なく、影響を及ぼせる立場にもない事象に対して、何某はクズだとか誰それが可哀想だとか言い始める。意味がない。なにも。悪いことこそあれ、いいことは何もない。それによって自分の心が豊かになることはない。10年やってきた俺が言うんだから間違いない。さらに不思議なことに、ああよかったな、という気持ちはあまり湧き上がらない。怒り、憎しみ、嫉妬といった感情ばかりが増幅されがち。どうして我々は、SNSをみては怒ってしまうのだろうか。

先に言うと、俺は結論を見つけてこの記事を書いているのではない。この問題はかなり長いこと考えたつもりだが、自分の感情のスピードが早すぎてその機序を追えていない。お湯に触ると熱いと感じる、それくらいの速度で怒りが沸いてくるから、情報を見る→怒ると間の停車駅を確認できないでいる。

ただ、まず言えるのは、全く関係ない他人の話を、完全に自分のことに置き換えて考えていると思う。見知らぬ誰かの気持ちになって、とかではなく、自分の話として受け止めているフシがある。自他の境界が危ういのだろうか。でもそれは少し違う気がする。なぜなら、何か炎上している人、犯罪を犯した人自身を憎むというより、自分の人生で関わった誰かに対する憎しみを再燃させているケがあるからだ。見知らぬ他人が起こした問題について、自分の人生であった同様のことを思い出し、そのことに対して怒り直す、そんな風に心が動いている気がする。まさに昨日今日では、フワちゃんがやす子に対する暴言を誤爆かましてどえらいことになっているが、仮にこの件に怒りを燃やしたとしよう。表向きはフワちゃんに対して怒るというアクションをとるのだが、実際は、中学生の頃に俺に悪口を言ってきた女子生徒の高橋とか、保育園の頃に暴君だった小西とか、そういう奴らへの恨みを晴らしているような気がする。そうすると、見知らぬ他人への怒りは、自他の境界がおかしいとか共感性が異常とかではなく、未消化の恨みが堆積していることが理由になる。もしかしたら、マジで「世の中を良くしたい」みたいなモチベで苦言を呈する人もいるのかもしれないが、少なくとも俺はそれではない(というか、「世の中のため」とか「あなたのため」とか言って文句を言うのは完全にペテンだと思っている。最悪なのでやめてほしい。そんな殊勝な精神を持っているやつがわざわざ文句を言いにくるわけがない)。見知らぬ他人自身に怒っているわけではないとはいえ、パーソナルな怒りを他人に肩代わりさせるのはそれはそれでヤバい感じはするのでやっぱりやめた方がいいと思う。あと、なんだろ、電車とか街中で変な人がいるとすごくストレスがたまる。これもまた、自分に関係ないものを自分の世界にいれてしまう性分からきている。自分に直接害はなくても、酔客とか、挙動不審な御仁とか、気になる。ストレス。車両変えたい。黄色い線より前に立ってる中年とかそのまま突き落としたくなる。だからなるべくスマホを見て、音楽を聴いて、世界を遮断しておかないと、いろんなものが気になってしまう。この"気になってしまう"がどうしてなのか、という話なのだが。"べき"の思考が強すぎるのかもしれない。人とはこうあるべき、電車ではこう過ごすべき、みたいな。そうしたこだわりを内面化すると、それに反するものを放っておけなくなってしまう。"べき"で構築されている自分にとってはアイデンティティクライシスともいえる問題なのかもしれない。

あと、これは非常に大事だと思うのだが、怒られるべき事由を抱えた人間を正論や"真っ当な倫理観“みたいなものでぶん殴るのは、非常に楽しい。楽しい!と感じていることをどれだけの人が自覚しているかわからないが、俺ははっきりと快楽を感じるときがある、し、楽しいからこそ、どんなインターネットでも見知らぬ他人に怒る世界が形成されるんじゃないか。自分では何もツイートせず、クソリプばかり飛ばしているアカウントって結構あるけど、あれは、言いっ放しの快楽に取り憑かれた末路で、やめろと言われてやめられるレベルではないところにいると思っている。それくらい、他人を叩く快楽は強い。興味がない人もいるだろうが、ハマる人は抜け出せない、強烈な中毒性がある。ただ、それもまた、救われない自分を慰めるためだから、やはりまずは自分を救うところから始めないと、いつのまにか満たされることのない渇きに襲われるんじゃないか。

この、「他人を叩きたい人は哀れ」的な言説は、叩かれてる側がよく切ってくるカードで、哀れな連中に言われてるだけだから気にすることはない的な効果を発揮するのだが、別に叩かれている内容自体は間違ってない場合があるのでそれはそれで多用は禁物だ。だが、一面的には正しいと思う。長々と書いてきたが、やっぱり変だ、見知らぬ他人にキレるのって。マジで世直ししないと思っており、ネット/現実関係なくよくないと思ったものに是正を求めている正義マンだった場合は筋が通るのだが、そもそもそんなやつって割とキツいし。俺が見知らぬ他人への怒りから遠ざかるようになったのは、もうそういうのに疲れたから、というよりも、その燃料となる、世界や自己に対する不満みたいなものがなくなったからだと思う。自分のことはあらかた救えたから、誰かに向かって恨みを晴らさなくてもよくなった。成仏したわけだ。ネット仏陀です。見知らぬ誰かへ怒れる全ての人、いまいちど、怒りと向き合おう。どうしてあなたは怒らなければならないのか。本当は何に怒っているのかを。南無阿弥陀仏

ドライヘッドスパ体験記〜ふれあい〜

晴れ。暑くて倒れそう。今朝の出勤時、グロッキーになって駅員に車椅子に乗せられてる人を2人も見た。お水を飲んでくださいね。こんばんは、平井ももです。

先週末、初めてドライヘッドスパにいった。お店はかの有名な悟空のきもちだ。ドライヘッドスパ=悟空のきもちではないのだけど、俺は知見がないのでほとんどその図式になっている。悟空のきもちは、お店が話題になり始めたくらいから知ってて、ずっと行ってみたかった。ゴッドハンドのなんとかさんが可愛いとか、「絶対寝ないんで!」と豪語するYouTuberがまんまと寝てしまうとか、しょっちゅう見てた。俺はそういう、他人が気持ちよくなっている映像が好き。だが、悟空のきもちはその予約ハードルの高さから行かずにいた(この、予約が取りにくいこと自体が人気を高めている気もする)。何度か行くと他に1人連れて行けるという制度があるらしく、誰かがそのチケットをゲットするのを待っていたのだが、なんか普通に予約とれたので、チケットを待たずにひとり向かったのである。東京には原宿と銀座に店舗があるが、今回は原宿の予約が取れた。俺が動画でずっと見てたのも原宿なので嬉しい。

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これが入り口。原宿の裏路地、かつてフリークスストアがあり、いまはアソビシステムの事務所になっている建物の隣ぐらいにある細いビルだ。こんな小さいビルに!?と驚いたが、恐る恐る入ってみる。するとどでかい脳みそが迎えてくれる。

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この脳みその前にいくつか椅子があり、そこで受付待ちの方々が4〜5人いた。受付ではお姉さんたちが個室の空き状況と案内の順番を打ち合わせている。忙しそうである。エステティシャンらしい被りのブラウスに、エスニックな雰囲気があるワイドパンツがコスチュームのようだ。手持ち無沙汰でカオナシのように指遊びをしながら突っ立っていると、お姉さんが声をかけてくれる。名前と予約時間を伝え、椅子で待つように促される。脳みその真向かいにレジがあるのだが、その上にスクリーンがあり、謎の映像が流れている。悟空のきもちのコンセプトは眠りと脳に関する研究を基にしており、それはハイタワー三世みたいな名前の外国人がアマゾンで謎の壁画を見つけたところからスタートしているそうだ。マジかよ。資料映像のようなものが流れた後、黒いスーツに身を包んだ、ジェイソン・ステイサムみたいなおじちゃんが「さあ眠りの世界へ!」みたいなことを言っている(吹き替えで)。

そんな映像を1周半くらい見ていたら、最初に声をかけてくれたのとは別のお姉さんがやってきて、予約内容の確認をしてくれた。初めての利用であることを伝えると、このお店がどういうコンセプトでやっているのかを説明してくれた。曰く、悟空のきもちは気持ちよく眠りに落ちることで癒しを提供するのを目的にしており、コリをとるとか肩があがるようになるとかそういうことは目指していないとのこと。なるほどです。椅子に座りリュックを抱きしめながらしおらしく話を聞いているが、実は爆裂な便意を我慢しており、一刻も早くトイレに行く必要があった。話終わって、施術の前に先会計とのこと。しかしその前にトイレ貸してくれ!と頼んで駆け込み、それなりの難産を経てレジに戻る。キャッシュレスオンリーというのはいまらしい対応。ある程度の情報を乗り越えないと辿り着けないお店だし困る人はあまりいなそう。会計を終えると、お姉さんと一緒にエレベーターに乗る。原宿店は1階が待合室とレジ、2階と3階が施術ルームになっている。エレベーターの中で、お姉さんに気になったことを聞いてみた。

「あの、あそこで流れてた、壁画がどうのみたいなのって、なんですかね、、、どういうふうに見たらいいかっていうか、、、」

「あれは〜〜、、、作り話というか、、、」

「なるほどです!僕そういうの好きなので大丈夫です!」

そういうのというのはディズニーのアトラクション的なバックグラウンドストーリーのことを指しているが伝わったかはわからない。アトラクションなのだ、ここは。完全に理解した。エレベーターを降りる。

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わかりにくいが、普通のサロンらしい白ベースの廊下の向こうにスペースマウンテンの乗り場みたいな空間が広がっている。時間がかかれた壁に覆われたかまくらみたいなのが個室で、7つくらいあったような気がする。このスペースマウンテンの手前で靴を脱ぎ、裸足もしくは靴下で乗り場(?)を歩く。個室に入り、椅子に座るように促される。いい匂いがする。強くはないが、ずっといい匂いが漂っている。ここからお姉さんは小声で話す。他のルームにはぐっすりと眠っているお客さんたちがいるからだ。「こちらに足をのせてください、、、コソコソ、、、ブランケットは胸だけにかけますか、足まで覆いますかコソコソ、、、」施術の準備が終わると、頭を押す強さを確認する。

「強さどうですか、、、コソコソ、、、、」

「それくらいでいいです、、、コソコソ」

そのうちに施術が始まり、頭皮をウニーーーっと引き上げたり、首の後ろを押したりする。確かにツボ押しではない。あーそこそこ!という感じも少ない。とにかく押されている。では気持ち良くないかというと、気持ちいい。これが研究の成果、、、!もちろん、人の手で人の体を触り、再現性のある結果を生むのだから科学的な機序があるのだろうが、筋肉がほぐされて血行が良くなって体が軽く感じる!という身体的な作用よりも、もっと精神的な作用があるように感じた。セラピストさんたちの柔和な対応、受付で流れるバックグラウンドストーリー、スペースマウンテン、、、そういった数々の舞台装置が、最後の施術を高みへ押し上げているような。いや、誰でもできることをやっているというつもりはない。この施術はスタンダードコースで65分。1時間の間、他人の頭を揉み続けるのは簡単ではない。だが最初の説明にあったように、そもそもコリをほぐすことを目的とはしていない施術なのだ。

俺は、他人に体を触ってもらうことそれ自体の意味みたいなものを考えた。傷に絆創膏を貼ったりして処置をするのを『手当てをする』というが、歴史を遡ると、本当に手を当てることを治療とする考えがあった。人類は手を器用に使うことで脳が発達し、今日の繁栄を築いたとも言われる(迂闊な言説)。かめはめ波も手から出すし、キリスト教でも手をかざすことは重要な意味を持つ。とにかく手はスピリチュアルな装置で、手を触れることそれ自体が精神へ作用する、と思っている。小難しく書いたが、例えば手を握られると安心したり、相手によっては不快だったりするという機能の話をしている。コリをほぐすという目的があると、触るという手段自体は評価されなくなる。知らないおっさんだろうと、目的を達成するためには触れてもいいことになる。だが悟空のきもちの場合は、触れること自体が目的化しているような気がする。筋膜をほぐすとかなんとか言っているが、セラピーの型をとって、"触れること"の癒しを提供しているんじゃないか、そう感じました。とか言いながら、めちゃくちゃ論理的に的確に科学的にマッサージしてたらウケるね。ちなみにちゃんと寝ましたわたし。「いやーこれでは寝なくない?」と思ってたけど、段々と自身の輪郭がぼやけていく。からだが液体となって世界に溶け出すようなまどろみがやってきて、気付くと施術終了を告げられた。帰りのエレベーターは1人で降りる。寝ぼけ眼で待合室に通され、お姉さんがまた来てくれて、アンケートを書いてさようなら。また行きます。

goldfinger

晴れ。にわか雨降るかもという噂もあむたが降らず。こんばんは、吉岡里帆です。

「昔は○○だったが今は△△だ」という考えが頭に浮かんだときは、これを慎重に検討する必要がある。根拠となるデータはあるのか、自分の感性の変化、思い出の美化をしていないか、一見違うように見えるだけで本質的には同じではないか、など。その慎重な検討を経て尚言うが、昔はこんなに暑くなかった。気象庁のサイトを見ると、7月の平均気温はここ3年くらいは28度。この数値は過去にも観測されており、確かに高い水準だが、「今は昔より暑い」と言い切るほどでは無い気がする。もっと長いスパン、100年とかそういう単位でみていくと確かに気温は上昇しているらしいが、いち個人の観測からは逸脱する。それでも尚、暑い!上京してから、「暑くて倒れるかもしれない」という考えが頭をよぎったのは去年が初めてだ。それまでは、まあ暑いけどね、、、?ぐらいだった。そもそも俺が小・中学生の頃は学校にクーラーはなかった。窓を開けて対応していたと思う。それでやっていけてたのだ。今は無理だろう。クーラーはいらない!なんて学校が言おうものなら一撃で炎上だ。俺は日に2㍑は水を飲むからか熱中症になったことはない。暑さでふらついたこともないが、それでも「ダメかも」と思う瞬間があるくらい暑い。

だから、昔より今のほうが暑いと思います!!!!我が家のエアコン、1ヶ月くらいつけっぱなしになってます。向こう2ヶ月くらいは休めないと思います。だめそうなら教えてください。ではまた