プチフォッカ爆食い欲

降らないかと思ったらギリギリ雨。残念。こんばんは、皆口裕子です。

円安が止まらない。1ドル130円前後ということは、今まで100円で買ってたはずのドルが130円になるということなのだ(トートロジー)が、あわせて原油高、綿価格の高騰、小麦価格の高騰、諸外国の工賃の高騰と、ものづくりに関わるありとあらゆるコストが上昇している。俺が改めて言うまでもなく、物価はどんどん上がっており、食料も洋服も建物も何でもかんでも値上げである。理由はいまあげたとおり。たとえば為替の100円が130円になった時、500円の原価は650円になる(為替がそのまま綺麗に原価に跳ね返るわけではない。仮定として読んでくれ)。その場合、店頭の売価もそのまま150円アップすればいいということではない。仮にこの商品が1000円のTシャツだとしよう。元の原価が500円だった場合、利益額は500円、利益率は50%になる。この原価が150円上がって、店頭売価を同じだけアップしたとしよう。すると、1150円で売って原価が650円。利益額は元のまま500円だが、利益率は43.5%くらいになる。計算すれば当たり前にわかることではあるが、原価が上がった分、そのまま売価を上げただけでは利益率は下がる、即ち"より儲けられなくなる"のである。原価が500円→650円に上がった場合、同じだけの儲けを出すためには1300円まで値上げしなければならない。たった30円、為替が上がるだけで、Tシャツ一枚が300円も上がる。本来はここに、さらにあらゆるコストが乗っかってくるので、「ちょっと儲けは削れるけど値上げしません!」みたいな企業側の根性論では耐えられないフェーズになっているのだ。これからもあらゆるものが値上がりしていく。それに引き換え給与が上がる見通しはなく、ますます生活は苦しくなるだろう。

ところで、ネットで見ていると、「安い商品は誰かを踏みつけて成り立っている。適正な価格をきちんと払おう。」みたいな論を時々見る。そうなれば我々小売業としては本当にありがたいことだ。事実、安いものは誰かを踏みつけている。これは間違いない。小売の儲け、メーカーの儲け、物流会社の儲け、中国の工場の儲けetc....それでも、無傷なままでは商売できるほど世の中甘くないのでみんな少しずつ傷つきながらなんとかお客さんに商品を届けているのがサービス業の実情だろう。それはよくない、きちんとお金を払おうという理念は素晴らしいと思う。が、俺はそんなこと無理だろうと思っている。ケンタッキーが値上げした、ディズニーが有料ファストパスを導入した、そうすればやっぱりみんな、やめてくれそれは困ると言い出したではないか。お菓子や弁当の内容量を減らして金額を維持する企業努力についても、口を揃えて「そんなことをするなら値上げしてくれ」というが、本当に値上げしても買うか?いいや、買わないね。買わない。値上げというのは本当にインパクトがある。「欲しいものには適正な価格を払おう」というが、「値上げしても買う」とは言っていないだろう。小売業は売らなければ死んでしまうが、消費者はそれを買わなくても生きていける。別の選択肢がある。買わない自由がある。そうした力関係の中で、こちら側が買うハードルを上げることの意味を本当にわかっているのか?値上げになるとして、どれくらいの値上げになるのか想像できているのか?

まぁ、別に、消費者に文句を言いたいわけではない。高いものは売れない。安ければ売れる。当たり前のことだ。その価格が適正かどうかは商品の成り立ちではなく消費者のフィーリングで決まる。ただ、これからも値上げは止まらないのは間違いないし、生活は苦しくなる。そのなかで我々サービス業にとって、値上げをするというのは簡単な決断ではないのだということを頭の片隅にでも置いておいて欲しいという、まあ、ささやかな愚痴みたいなものである。

ところで、安くて嬉しいといえばサイゼリヤである。先日、大勢でサイゼリヤに行く機会があり大変楽しかった。俺は壁を背にして店内を広く見られる席に座っていたのだが、俺たちが飲み食いしている最中、通路を挟んで反対側にカップルが座った。ギャル感強めの女の子とちょっとイケてない(誰が言うてんねん)男の子だったが、テーブル席だったのに、向かい合わせに座らず、隣同士に座った。卓を挟んだ向こう側は空席のままで。非常に仲睦まじく話していたので気になってみていたのだが、料理が1皿か2皿運ばれてきたくらいで、チューしていた。サイゼリヤで!ちゅー!すごい!俺は感動した。サイゼリヤでするちゅーはオリーブオイルの香りだろうか。お酒も入っていない昼間である。そんなに若そうにも見えなかったが、二人の愛はエスカルゴよりも熱い。サイゼでちゅー、いいです。

シン・まさみ

雨のち晴れ。半袖半ズボンでもういける。こんばんは、早見あかりです。

 

この週末は映画を2本みた。ドクターストレンジ2とシンウルトラマン。それぞれの感想を書いていきたい。ネタバレなしのきわめてライトな感想になるが、極度に気にする人は、また次回の、映画と無関係な更新を待っていてほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、ドクターストレンジ マルチバースオブマッドネスだが、MCUの中でも異色のホラーテイスト、重要そうなキャラもバシバシと死んでいく容赦のない展開、それを引き起こすあまりにも強いヴィランが特徴といえそうだ。数多のスーパーヒーローが束になっても敵わないめちゃくちゃ強いヴィランが、あの手この手で執拗に追いかけてくる。邪魔をすれば即刻抹殺、こちらの攻撃は何も効かない。めちゃくちゃこわい!マルチバースも絡んでかなりしっちゃかめっちゃかな展開で頭が混乱するが、おおむね楽しく鑑賞できた。ところで、今作は、前作ドクターストレンジ1はもちろん、ディズニープラスで配信されている、ワンダヴィジョンからも物語が続いており、特にワンダヴィジョンについては、「見ないとわからないところがある」というよりも、物語の根幹を担う部分がワンダヴィジョンに託されているように思えたので、アベンジャーズシリーズしか見てないよー、という人はワンダヴィジョンの視聴はお勧めしたい。ちなみに俺は、wikiであらすじを追いかけて、最終回だけみた(最悪の消費方法だが時間がなかったので仕方ない)。ちなみに、スパイダーマンNWHの内容はほぼ継続されない。あくまでマルチバースという概念だけを引きずっているだけだ。MCUはもはや巨大になりすぎており、そもそもの原作からしてそうであるように、多くの作品が縦横に繋がり、一作品だけを見て全てがわかるという状態ではとっくになくなっている。特に今作は、前作だけでなく、ワンダヴィジョンという一見無関係そうな作品が強く絡んでおり、その点について賛否があるようだった。誰が見にくるとも限らない映画について、有料配信という特殊なコンテンツを前提とするのは正しいのか?的な意見も見られた。個人的には、一本の映画でその全てを説明してほしいというのは鑑賞者側の怠慢だと思うし、特にコミック原作の映画、しかもシリーズものについては、ひとつの作品の外に文脈があるのは当たり前だろうと思っている。そういう意味でいえば、シンウルトラマンについてもそうだろう。

俺はウルトラマンが好きな方だと思う。もちろん、世代的にも、きちんと全話見ました!とか細かい裏設定や逸話を知っているわけでもないが、それでも好きな方だと思う。というのも、これまで生きてきて、他人とウルトラマンのことをまともに話せたことがほとんどないからだ。スペシウム光線とかカラータイマーのことは誰でも知っているが、ウルトラマンはうっかり事故でハヤタ隊員を殺してしまったから地球にいること、最強の敵はゼットンであること、ウルトラの国はM78星雲にあり、そこにはたくさんの戦士がおり、それを束ねるのはゾフィーであることなど、俺の中では桃太郎くらいの常識だと思っていたが、同年代の人間にはほとんど通じない。通じたのは俺より遥かに造詣の深い特撮オタの友人だけだった。ウルトラマンスペシウム光線だが、ウルトラセブンはワイドショット、エースはエメリウム光線、タロウはストリウム光線、80はサクシウム光線。みんな光線の名前が違うが、それもみんなほとんど知らないのだろう。だもんで、俺はウルトラマン好きなんだなと思って生きてきただけに、シンウルトラマンのことは楽しみにしていた。感想としては(多くの人がそう言っているように)、世界で一番ウルトラマンが好きなオタクが、ウルトラマン好きなオタクに向けて作ったウルトラマンという感じがした。『シン』シリーズとして、シンゴジラと比較されることがあるが、シンゴジラゴジラを登場させてしまえばあとは人間との戦いを描けばいいし、そもそもが劇場版の尺の作品が多いシリーズだけに2時間尺でも作りやすいところがあったのに対し、ウルトラマンはそもそも30分尺の番組であり基本的に1話完結だから、どうしても劇場版としては総集編めいた構成にならざるを得ない部分があるだろう。なので、時間の進み方と気持ちの盛り上がりが比例せず、怪獣が出ては倒し、出ては倒しという展開になり、いつの間にかクライマックスみたいなことになっていた。また怒涛のテンポで息つく暇なく物語が進み、シンゴジラで見せたような専門用語早口マシンガンが乱射されるので、何が起こってるの〜〜という感じで取り残される感覚もあるかもしれない。また、ウルトラマン自身やメフィラスとの会話の中でなにか示唆めいたことを言ってはいるが、それを考えさせてくれる時間はない。覚えているのはウルトラマンのヌルヌルとしたCGとラスボスの絶望感、そして長澤まさみである。とにかく長澤まさみ、これにつきる。あんなに何度もアップにされても全く微動だにしない美貌、お肌はツルピカ、おめめキラキラ。『タッチ』の時のような少女のあどけなさも残しつつエリート職員としての息を呑む美しさ。シンゴジラ石原さとみも美しかったが、あの胡散臭さもなく、まさみ自身に対して我々が抱くキャラクター性と相まって驚異的な印象を残していた。ありがとうまさみ、大好きです。あ、で、面白かったか?面白かったです。ウルトラマンと怪獣が戦う、それを愛する気持ちがこの作品を支えている感じだ。

 

昼に渋谷で辛い麻婆豆腐を食べたのでお腹が痛い。でも晩御飯もちゃんとたべます。太っているとはそういうこと。

麺カタメ

曇りのち雨。まさかの寒さ。こんばんは、久松郁実です。

1週間ほど更新が滞った。書きたいなあと思うことはあるのだがそれをアウトプットする体力がない。全く情けない。アウトプットするには何をどう書くかを頭の中で整頓し、その論理に沿って言葉を選んで並べていく。書こうと思う最終的な結論自体は頭の中にあるものの、そこに辿り着くまでの文の構築が、毎日ブログを書いていた15年前に比べて全くできない。言葉を探してもがいてみても、ツギハギのような文章になってしまう。書いては消してを繰り返している。また、おれの性格上、下書きにプールしてあるテーマもネガティブかつ喉越しの悪いものが多く、若さをなくしつつある今、自らの闇に押し潰されかけてしまったりもするのである。なので、精神にあまり負荷がかかりない話題でいったんお茶を濁そうと思う。

 

俺はラーメンが好きだ。(なんて軽い話題!)週に一度はラーメンを食べていると思う。ただ、なんでもいいわけではない。ラーメンの好みは本当に人によって違うからみんなの好きなラーメンが俺のそれではないし中立的な評価はできない。俺が好きなものがうまいラーメンである。具体的に言えば二郎と家系、あとは味噌ラーメンと坦々麺。こんなところだ。味が濃くてドロドロしていて、麺は太い方がいい。坦々麺が細麺か中太かはテイストによるところだが、まぁあまり細くない方が好ましい。細麺は火が通りやすく、にちゃとした食感になるのが趣味ではない。味について言えば、ご飯に合うようなものがいい。俺はラーメンライスをするデブだからだ。二郎は、それだけで満腹になるのでコメに合うかは未体験だが、おにぎりを持ち込む強者もいるのでたぶん合うのだろう。ラーメンライスについて異議を唱える諸姉諸兄もいるだろう。確かに俺も最初は意味がわからなかったが、ご飯に合うラーメンというのがあることがわかったため、好んでご飯をつけることにしている。ご飯に合わないラーメン(即ち俺があまり好きじゃないラーメン)は、いわゆる淡麗系、塩とか醤油の、透き通ったスープ、芳醇な出汁の香りと細麺、低音調理のチャーシューと長めのメンマ、みたいな。二郎や家系と対をなす軸かと思うが、俺はこういうラーメンは確かにご飯に合わない。ラーメンだけで塩分濃度がちょうど良くなっているからだ。家系とか味噌は塩分が濃くてご飯がないと帳尻が合わないと感じる。

ところで、俺がラーメンを食べるようになったのは20歳くらいからだ。実はそもそも俺はラーメンが好きではなく、全然食べなかった。麺のぐにゃりとした食感とか香り、醤油スープの感じがどうも受け付けず、美味しいと感じられなかった。20歳の時、大学の講義終わりで飲み会をしていた。その後、締めにラーメン食べにいくか!というノリになった。大学で友達がほとんどいない俺は飲み会後のラーメンというノリはそれまで無かったし、友達と昼飯を食う的なシチュエーションも無かったので、ついにこの時が来た!と軽い感動さえ覚えたものだ。この機を逃すわけにはいかない。ラーメンは苦手だがここは合わせに行こう!と思いついていった。それで連れていかれたのがラーメン屋、家系の、しかもかなり濃ゆい方のお店だった。「必ずご飯ほしくなるぞ」と言われたのだが、飲み会終わりでお腹も満ちていたし、ラーメンだけを頼んだ。そして配膳、その時点で10年近くぶりに食べるラーメンだった。一口食べて、それまで一度も経験したことない濃厚さに打ち震え、すぐに席を立ってライスの食券を買いに行ったのだ。以降、俺はすっかりラーメンの虜になり、それまでの20年を取り返すように食べまくり、今ではすっかり肥満のおじさんである。

はーーーラーメン食べたい。今夜は豚キムチです。

おやすみってほんとにたのしぃ!

雨。さむい!はやく半ズボン履きたい。こんばんは、生駒里奈です。

さて、世間はGW、今年は特に市井のみなさん気合が入っている。別に毎年GWを定点観測しているわけではないが、こんなに街に人がいるのを見たのは久しぶりな感じがする。読者諸姉諸兄におかれましても、旅行にバーベキューに帰省にと忙しくされているだろう。

ところで、ツイッターとかその他ネットの広告を見てると、「連休がこんなにあってもなにしたらいいか」的な概念?が提起されてたりする。どういう種類の困惑だろうか。俺はやることなんか一つもなくても10連休でも20連休でも過ごしたい。連休を前にしたら「どこにいこう?何を食べよう?どれだけ昼寝をしよう?」そんなふうに悩むことはあるかもしれないが、なにをすればいいかとマイナス向きに悩むことはない。することがなければ何もしなければ良い。これは俺の解釈が穿ちすぎで、本当はみんな別に悩んでるわけではなく心から休みを満喫しているのかもしれない、これもまた、俺が他者、つまり自分とはおよそ理解不能な存在に対する興味から色々と考えてしまうのかもしれない。

大学時代、俺はサークルに入ってなかったが、実は新歓には行ったことがある。というか、あんなに入学前から情報戦が繰り広げられており、既に交友関係が固まっているものだとは思っておらず、何をどうしたらいいかもわからないまま、なんとなくフットサルサークルの新歓合宿に参加したのだ。「新歓きてないのに合宿から参加なんてやるね!」とか言われたけど何がやるね!なのかもわからなかったし、フットサルサークルというのがあんなに陽の国だとは知らなかったのだ。その中で、同じく合宿に参加してたひとりが「休みの日って何してる?」と話しかけてきて「えー、、、寝てることが多いかな、、、」と答えたのだけど(最悪)、それを聞いた彼は「なんか休みの日に何もしてないと損した気分にならない?俺は無理なんだよなー」と言っていたのをすごく覚えている。合宿先に向かうバスの中で、窓の方を見ながらつぶやくようにそう言っていた彼を今でも思い出すのだ。その時俺は、心の底から他者を感じていた。この人は俺と全然違う価値観なんだ、きっと見ている世界が全く違うんだと強烈に印象に残った。どうしても何かをしないと気が済まない人がいるのだ。何度も書いてきたように俺は平穏こそ幸せという考えで、行動した結果それが徒労に帰すことがめちゃくちゃ嫌なのであまり積極的に動くという考えがなかっただけに、当時かなり衝撃を受けたのだった(それくらい他人と関わる機会がなかった)。このGWに入る直前、ツイッターで立て続けに似たようなツイートを見た。そのどちらも、GWだからって無理に何かをする必要はないんだぜという旨のツイートだった。なんだそれ、、、と思ったものの、やはりあの時の彼を思い出す。何もせずにはいられない人を。何かをしたという証が欲しい人たちを。

少し脱線するが、以前、女性ファッション誌に非常に印象的なものがあって、ツイッターでも少し炎上気味に話題になっていた気がする。それは2016年に刊行されたDomani5月号。

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だって「幸せそう」って思われたい!すごいタイトルだ。6年経った今見てもギョッとする。これを見た当時の俺は「そういうファッショントレンドの表現だ」としていたものの、昨今のディズニー自撮り問題や"映え"などのトレンドを見るにつけ、ただのトレンドではない、時代観を示していたようにも思えるのだ。即ち、「そう見えること」と「そうであること」の境目がなくなっていっているのではないか。幸せに見えることが幸せそのものなのではないか。わたしたちは、自分の人生が幸せであったと見返したい。何かを成したのだという証が欲しい、そういう意識が、、、、、、ないか、わからん。ないのかもしれん。そんなこと陽の人は考えたりするのかしらん。昔はこんな風にひとりでぎゅ〜〜〜〜〜っと内省して世界の全てを分かったようでいたけど、色んな人と会い、社会を展開するにつけ、それが独りよがりだったなぁ、みんなアホなように見えるけどちゃんと生きてるんだよなぁと改心したので、こういうふうな決めつけも安易にしないほうがいいなぁと思ったりもする次第なのだ。そもそも俺にはGWなどない!!!何をするか迷うとかそういう問題ではない!仕事だ!したくない!えーん😭😭😭

イカオクラ

雨のち曇りのち晴れ、いいかんじ。こんばんは、茜さやです。

きょうは初めてはま寿司にいった。仕事終わりに近くにあったからだ。俺は寿司が割と好きだが、食べる機会は少ない。ワサビが嫌いだからだ。おっと、そのガリが挟まった汚い口を閉じろ、こう言おうとしているだろう、「ワサビが食べられないのに寿司の美味しさがわかるのか」と。それは君たちの思い上がりで、俺の世界には初めからワサビの美味しさという概念は存在していないし、その世界において寿司の美味しさを感じている。俺が嫌いだと言っているのだから、もはや超克しようのない問いをゴチャゴチャと並べたてるのはやめたまえ。ともかく、俺はワサビが苦手なので寿司を積極的には食べない。ところが最近の回転寿司ときたら、初めからすべてワサビ抜きだというではないか。それを知ったのはここ2〜3年くらいのことだが、以降、ときどき回転寿司屋さんにいって寿司を食べている。俺のメイン活動エリアである川崎には、駅の近くにスシローがあるが、トイストーリーマニアくらい混んでるので、欲求とのタイミングがズレやすく、やはり食べるのはときどき、になるわけだ。

そして冒頭に戻るが、今日は仕事終わりの場所の近くにはま寿司があり、時間帯も早めだったから空いていたので入ってみた。システムはよくわかっていなかったが、スシローで培った実力をもってすれば問題なかろうとたかをくくっていた。入り口には発券機があり、人数と席の希望を入力する。ふんふん、知ってるぞ、スシローもそうだからだ。涼しい顔とでかい腹をアピールしながらチケットを発券する。即座に自分の番号が呼ばれる。よしよし、そしたらスタッフの人が呼びにくるから席に案内してもら、、、、、えない。○○番のお客様ですかー?がない。店内では俺の番号の呼び出しが流れ続けており、それによると、発券機の前まで来いとのことだ。既にいる、たぶん。発券機の前に。さっき俺が操作したこれを発券機と呼ぶのならば・・・。ピンときた。この発券機で追加の操作をするのだ。きっとそう、例えばほら、さっき発行したチケットにQRコードが、、、ない。機械に読み込ませるようなコードは何も記載されていない。発券機を見ると、俺の番号が映し出されている。何かをするのだというのはわかった。0〜9までの番号のボタンが映されている。これを押すのだということもわかった。ためしに呼び出し番号を押してみるが、どうにもならない。止まらないアナウンス、「いらっしゃらなければ、次のお客さまを呼びます」とまで言っているではないか。穏やかな機械音声のくせに容赦がない。うろたえる。小刻みに右往左往する。31歳、体重はもうすぐ90kgに達しようとしているが、なにもできずはま寿司で半泣き。するとレジをしていたおねいさんが「チケットに書かれているパスワードを入力してくださーい!!!!」といらつきながら教えてくれた。ごめんねおねいさん、、、チケットを見ると、"9"と書かれてあった。パスワードというと短くても4桁程度と思っていたが、まさか単品とは思わなんだ。パスワードを入力すると、席番号が書かれたチケットが再度発券され、自ら席へ。はーーーよかった。入店一つでこのざまである。なんだ、隣のおっさんタバコ臭えな、、、

注文はタッチパネルで行う。よしよし、スシローでやったことあるぞ。これは順調。頼んだネタが近づいてくるとパネルからチャイムが鳴って教えてくれるのだが、スシローのように、席ごとに皿の色が決まっているわけではないので、いまここに運ばれてきたヤリイカが俺のヤリイカなのかはかなり怪しい。さらに言うと、この皿が本当にそのネタなのか、パネルの写真と実物は概して差があるものなので、本当に取っていいのか強めの逡巡がある。恐る恐る皿を取りつつ、まぁ俺のじゃなくても会計は俺だしと思いつつ、10皿くらいたべたのかしら。1500円くらいの会計で店を後にした。また一つ新しいことできました。

いま春が来てきみは

雨降ったような?気温は確実に上がっている。こんばんは、めざましテレビお天気キャスター、林佑香です。

フォロワーがまたひとり結婚した。と言っても彼女はもうほとんどツイッターをやっておらず、インスタを主戦場として、キラキラ女子見習いめいたことをして楽しんでいるようだ。もしかしたらツイッターもやっているのかもしれないが、少なくとも俺が知らないアカウントで、俺が知らない彼女を表現していることだろう。とはいえ、別に彼女と特段親密だったわけではない。LINEも知らないし、会ったことは一度しかない。個人的にディープな思いを抱いていたということもお互いになかっただろう。ただ、直接会ったその一回は10年近く前のことで、ネット上でのフォロー関係のスタートから数えたらそれ以上の長さを、うっすらとした知り合いとして過ごしてきた。当時彼女はまだ女子高生で、あどけなさの残る可愛らしい女の子だった。俺はバキバキの童貞大学生で、ネットで毎日のようにクソ女叩きをやっていたのだが、彼女は裏垢でそれに参加して一緒にクソ女の悪口をタイムラインに放出したりしていた。しかも彼女は自分からクソ女を見つけてきては、RTして悪口を流しまくっていて大変愉快なツイッタラーであった。

まあ、でも、別にそれくらいだ。彼女との記憶は。それでもインスタ等を通じてお互いに(本当か?)存在は認識していた。俺がいつの間にかディズニーおじさんになっていたり、彼女が豪華なホテルの食事とか彼氏との写真とかをアップするタイプのアカウントになっていたりして、お互いに進む道が随分離れてしまったなと感じるものの、彼女が元気で楽しく過ごしているようなのは大変けっこうだと思っていた。そして彼女もアラサーに差し掛かり、ずいぶん大人になった。それでも10年前の面影を強く残した美しい彼女に親戚のおじさんのような感嘆を漏らしつつ、ご時世なんか吹き飛ばすような、こんなパーティーらしいパーティーの写真久しぶりにみたってくらいの披露宴の写真を喜ばしく見ていた。しかも彼女のインスタを遡ると、元カレの写真も、さらにその前の彼氏の写真も出てくるのがすごい。それを2000人ものフォロワーに公開している。やはり気合の入り方が違う女の子だなと強く関心した。これからもなりたいあなたでいられるようにと願いながら、時間が運んだお互いの漂流先の遠さに改めて天を仰ぐのだ。もはや俺が彼女の人生に交わる瞬間は永劫に来ないだろう。いや、とっくの昔からそうだったのだろうが、それでも交わった点があること、その数奇さに畏敬と感謝を抱き、また誰かの中に存在できるだろうか、誰かを存在させられるだろうかとぼんやり思ったりして。いまや彼女の中に、少しの残滓も存在させていないであろう俺は、そんな俺なりの家路につく。

 

どんな日記だこれ。言っとくが俺は別に激ヤバストーカーではないので。そういう気質は、、、あるかもしれないけど、、、

あでしゃ(ありがとう・出会いに・感謝)

晴れ。ベランダの水捌けがめちゃくちゃ悪く、雨が降るたびにベランダが池になる。こんばんは、吉岡・・・・・里帆です。

 

今週は業務的にはやや軽く、それまでやっていた若い子の子守りを上司が引き受けたので、俺はスタコラと帰る日々である。ところで、昨日は会社の別の後輩の女の子(26)と同期(31)の三人で会食の機会を得た。この後輩は非常に社交的かつ活動的な若者で、人間性のあまりの違いにまぶしい思いであった。彼女曰く、休みの日は全て友達と遊ぶ予定があるそうだ。一人でいるのは寝る時だけでよくて、それ以外は常に友達と遊びたい。大学でも広い講義室の時は隣に座った人に声かけて友達をつくろうとしていたとのこと。彼女には「ひとりでいるより誰かといた方が楽しい」という素朴かつ強烈な信念があり、それを実行できるだけの交友関係があるということのようだ。「シフト制の友達は毎月休みを送ってくれる」「友達の家に泊まることも、自分の家に泊まることもよくある」とか言っていたし、ただ交友があるだけでなくちゃんと好かれているようでもある。

「ひとりでいるより誰かといた方が楽しい」というのはまぁ基本的にそうだとは思うが、ずっとそうであることは稀だ、というのが俺の考えるところである。他人といることで発生する空間はイレギュラーの連続であり、感情が起伏し、一種の緊張めいた意識が片隅にくすぶっている。これらが他人と過ごすことの楽しさや嬉しさを惹起する一方で、うっすらとした不安、警戒、緊張といった心の"構え"は疲労として少しずつ蓄積され、自分の中にある城壁のようなものが徐々に閉じられていくのを感じる。そうなるともう社会を継続できない。そこに在るのは無愛想で無配慮で、図体だけはでかいイノシシに過ぎず、空間を共にするのに値しない存在になりさがってしまう。他人といることはストレスなのだ。ここで言うストレスというのは極めてニュートラルな意味合いである。たとえば運動、ディズニー、レジャー、風呂、サウナ、全て楽しさや癒しを提供してくれるが、確かにそこにはストレスがある。というよりはストレス自体が楽しさや癒しを持ってやってくると言う方がいいケースもあるだろう。ストレスは必ずしも悪ではない。ストレス(stress)とは応力を意味する。物体に生じている力の大きさと方向を表現する概念であり、その成果(変形や破壊)を意味するものではない。ディズニーがいくら楽しくてもずっとはいられない。入浴は最高の気分にさせてくれるが長風呂は禁物。他人と空間を共にすることも然り、だ。

ただ、これはあくまで、俺のように自己中心的で他人との関係が下手、そのくせ繊細で不安定なメンタルという社会に向かないタイプにとってそうだ、ということであり、後輩女史にとっては、他人といることにかかるコストというのは非常に微細なものなのだろう。しかして、そこから得られるポジティブな結果は恐らく俺以上に得られるからして、こんなにコスパの良い営みは他にはないというわけだ。俺と彼女を分けているものはなにか?生まれ持った性格というのは簡単だが、そういうのは運命論に過ぎないのであまり好きではない。仮に性格であるとしても、具体的に"それ"を名指したいという欲求がある。いやはや、こういう、ひっかかった部分から前に進めないのも、何度もやってきた31年だなあ。