夏きた。うれしい。こんばんは、井上和です。
映画感想記事。当ブログではネタバレには配慮していないため、回避したい人は読まないほうがよい。
『近畿地方のある場所について』に続き、背筋原作小説の映画化。齢30を過ぎてようやくホラー映画が観られるようになって、俄かにブームのような感じ。『近畿地方』は白石晃士監督だが、本作はホラーの巨匠清水崇監督。
原作未読のまま観たけれど、面白かった。原作を読んでいた人は、結構大きな改変があることで賛否があるようだった。『近畿地方』でもそうだが、背筋氏は映画化にあたり大胆な改変を積極的にしているような気がする。あるいは、原作の裏当てをしているような雰囲気さえある。話題の映画を劇場でみると、有識者の感想をタイムリーに読めて楽しい。本作については「怖くない」という意見が目立ったように思う。確かに、映像として怖かった、というよりは、物語の構造に意識がいくような感じで、漠然とした恐怖よりも考察で余韻が満たされる。杏とはなんだったのか?なぜみんなが独白しているのか?など・・・劇中では、「呪いは初めからあるのではなく、人の想いや言葉が生み出す」というような考え方が出てくる。今作の怪異は"呪いの木"と呼ばれる大樹なのだが、「初めはただの大きい木だったものに、人々が勝手に祈るようになった。そのうち悪いことを祈る人が現れ、いずれ呪いの木と呼ばれるようになった。木自体が呪いを持っているのではなく、人々が呪いを与えてしまったのではないか」と推測されるシーンがある。言霊というのか、言葉が世界と繋がる力みたいなものを改めて考えさせられた作品だった。
結果、登場人物たちは呪いの木に引き寄せられてみんなで首を括るのだが、正直これはよくわからなかった。杏はおそらく呪いの木の化身だろう。そして呪いの木は、人の悪意に反応し、杏を用いて自分の元におびき寄せ、生命を吸い取る怪異なのだと解釈した。木に祈れば願いが叶うと思っているのは人間だけで、初めからそんな力は木にはなかったんじゃないかと思う。というのも、主人公がかけた呪いが間違えて杏にぶつかってしまったため、杏が発狂してしまった、ということになっているが、杏は結局は木の化身だったのだし、全員同じように死んだので、今作において木は誰の願いも叶えていない。木の目的は人間の命を取り込むこと(取り込んだ命がセミになっている?)で、発狂した杏が「食べられる!」と興奮している様に対し、主人公たちは「なにに食べられるんだ?」と受動態として解釈したが、本当は「(主人公たちの命を)食べることができる」という意味だったのだろうとラストで示唆される。そして、木に魅入られた人間たち(誰かへの悪意を持っている)に、自分の存在を拡散させることで次なる獲物を誘い込む。今作の軸となる"独白"はそのために行われた。でも結局、何が彼らを首吊りに追いやったのかはよくわからなかった。メインの3人組はまだわかるが、先発の2人組、特にヤンキーの方は誰にも悪意を向けていないし、杏に取り込まれてもいないので・・・(『近畿』においても首吊りがキーになっており、怪異に取り込まれると自殺したくなるのだが、その辺の機序は不明になっている。背筋氏は首吊りや自殺なにか思い入れがあるのだろうか。あるいはなにか、自殺にメタ的な意味を込めているのだろうか?)。まあ、人を呪わば穴二つというし、この世ならざるものに手を出すとそちらに引きずりこまれるよ、ぐらいのことでうっすらぼんやり繋げておくくらいがいいようにも思うし、モヤっと感を恐怖に変換するのもひとつのホラーという感じもある。
言霊の話に戻る。口は災いの元というが、ここで言われる口の役割は言葉の物理的な発信源だ。今作のタイトルにもある口も同様の意図だろう。言葉が呪いを、あるいは祝福を作っていくという思想に共感する。人生の意味、世界の意味などを考え出す人はよくいるが、世界は、一面的には、物理現象が連続しているに過ぎず、意味などという形而上学的なものはそこに在りようもない。しかし我々の社会においては、ただの鉱物は貨幣として流通し、黒鉛の線は文字として機能し、特定の振動を言葉として認識する。意味はそこに在るのではなく、我々が与えるものである。しかし、我々が生み出したはずなのに、いつの間にか我々が意味に囚われ、さらに意味を堆積させ、増強させてしまう。そういう、言葉と意味と実存を巡る関係の中に、悪意の糸が絡まることで、現世から脱落してしまうほどの力場が発生してしまう、みたいなことが語られていると勝手に解釈して腹落ちしている。
ともかく、映画全体は90分くらいですぐ終わるし、そんなに怖い描写もなく、ストーリー上のどんでん返しもあってなかなか、ホラー初心者としても楽しめた作品でした。
