性癖探訪

雨。今年は冷夏という人もいる。こんばんは、アンゴラ村長です。

会社の業績がばちくそやばいので社内のムードが世紀末のそれであるが、毎度会社の愚痴を書いていてもゲンナリするので全然関係ないトピックをとりあげよう。

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これは今日タイムラインに流れてきたツイートである。週プレ、即ち週刊プレイボーイは数多の水着グラビアを掲載、発信してきた世の男性の味方でありグラビアアイドルたちが通る関門のひとつである。この週プレが今回打ち出したのはAIグラビア。AIによって生成された、完璧な容姿とプロポーションを持った架空の存在である。既に"写真集"も発売されており、グラビア界の新しい存在になるか否か、といったところだ。というか、既にアダルトコンテンツにおいてAIイラストはかなり広まっており、数多のそれがネットに落ちている。容姿を好きに調整でき、シチュエーション等のNGもない。撮影のスケジュールも許可取りも不要で極めてコスパ良く生産できるわけだが、この週プレのコンテンツに対しては、どちらかというと否定的な意見が多いようだ。かくいう俺もAIイラストは、その完成度の高さには驚くものの、それに見惚れるとか、収集しようとかは思わない。二つ理由があるが、ひとつは明確で、もう一つは極めて曖昧なのだ。

明瞭な理由としては、AIイラストが、いわゆる"不気味の谷"に到達しており、ツルッとした肌や、やけに張り付いた衣服、確かに美人だがアノニマスな表情などが違和感を惹起する。不明瞭な理由としては、AIだとわかるとなんか冷めるからだ。なんでか、と言われると非常に難しいのだが、イラストの違和感からAIだとわかると、急激に興味がなくなってしまう。細部を見る前のサムネイルでは「オッ、かわい子ちゃんの写真か!?」と鼻息あらく画像をタップしているにも関わらず、だ。現段階では、単に「AIイラストには生気がないんだよナー!」とか「どうしても不自然さがあるからネー!」とか言えるが、もし技術の発展により、俺たちが「生っぽさ」だと思っている要素を画面上で表現できるようになったら?新しいグラドルか!?と俺が完全に勘違いした後に、実はAIだった、としてもやっぱり興醒めするのだろうか?恐らくすると思う。というのも、俺は豊胸手術による巨乳もまた、そうとわかった途端に見たくなくなるからだ。スケベビデオを見るときには、その女優が豊胸かどうかを細心の注意を払って確認し、不穏な挙動を見せた場合は視聴を中止している。だがそれも結局、「そう見える不自然さ」によって気付くのだとしたら、大事なのは事実ではなく見え方にあるとも言える。俺は、こうした、「そうであること」と「そう見えること」の間を行き来することは、他者と生きる世界において極めて複雑かつ重要な思索だと考えており、時々立ち止まっては自身に問いかける必要があると思っている。おっと話が逸れたが、仮に、人工であるということ自体がNGなのだとするとそれは何故なのか、実は俺自身もよくわからない。アニメキャラならそれはそれで愛でられるのに、生身の人間に寄せてくるとウッとなってしまう。生身の人間の代替物として消費しようとしているからかもしれない。AIイラストはAIイラストなりの良さを個別に見出し、独立したエンターテイメントとして楽しむのが良いのかもしれない。俺たちの探究はまだ始まったばかりだ。

TWICEのコンサートにいった!

晴れ。少し暑いかも。昨日くらい暑くてもいい。梅雨嫌いなので。こんばんは、キム・ダヒョンです。この記事はコンサートに行った感想記事であるが、俺はネットにウケるキャッチーでインスタントなレビューは書けないため、最初から最後まで全て、好きだけ尺を使って書く。それが当ブログの持ち味と信じて。

昨日はTWICEのワールドツアー『Ready to be』の日本公演に参加してきた。調布の味の素スタジアムで行われた、TWICE初となるスタジアムライブである。彼女たちと同様、この俺にとっても初のスタジアムだったが、新鮮な景色がたくさんだった。到着すると、開場はまだなのに人、人、人。物販を買ってから行くあてもなく待っているようだ。おまけに路頭では、買いすぎた物販を定価で転売している人々もいた。法的にどうなのかは知らないが、手慣れた風だったのでよくある光景なのだろう、ランダム要素のあるトレカ(死語)などの余剰分を捌いているようだった。

会場に入ると、まずその広大さに驚く。初めてスタジアムというものに入ったが、これが人間の作った建物だということに恐怖すら覚える広さだ。さらに驚くのは、ステージに設置された巨大なスクリーン。写真NGなのでここに掲載はできないが、ただの四角いスクリーンではなく曲線を用いた有機的なデザインになっており、そこにメンバーの巨大映像が映し出されている。俺は下層スタンドと呼ばれるエリアでの鑑賞で、ステージのほとんど真横に近いところだった。スタジアムなので当然椅子に座っているが、ライブが始まると(というかその兆候が感じられた瞬間に)観客たちは総立ちになった。え?立つの?座ろうよ、と思ったものの余りの熱気に俺も立つ。

1曲目"set me free"が始まる。せりあがりにTWICEの9人が横並びに立つ。黒いボンテージスーツのような衣装。舞台装置と角度の兼ね合いで俺はその9人を直接は見られなかったのだが、スクリーンに映された9人は威厳たっぷりである。せりあがりを降りてステージへ歩いてくると割れんばかりの歓声。曲の決めポイントに合わせてみんなが叫ぶ。2曲目"I can't stop me"が終わり、MC、3〜6曲目までを立て続けにパフォーマンスした。その後、ナヨン、ジヒョ、ジョンヨン、チェヨンの4人がMC、「自分たちはTWICEのビジュアル担当チーム」と言っていた。日本人メンバーがいないなか、日本語でのMC、ありがたくて涙が出る。

観客にウェーブさせたり、しばらくMCした後に、各メンバーのソロステージ。最初はダヒョン(好き)。得意のピアノを弾きながらの歌唱。きれいだ。好き。キスして。次いでツウィはハンサムな衣装とダンス、3番手のサナは真っ赤なシャツをはだけて、びっくりするくらいセクシーなパフォーマンスでドキドキした。4番手はモモ、歌唱ではなくダンスのみのパフォーマンスだがダンシングモシーンの本領発揮であった。5番手のミナもまたキャラに合わず?セクシーなダンスを取り入れたアグレッシブなパフォーマンスだった。

ソロステージの前半が終わると、バンドメンバーが登場、しばらくセッションの後、"feel special"のイントロを演奏が始まると観客のボルテージがまた上がる。この、生バンドを取り入れたステージは今ツアーが初の試みだとジヒョが言っていた。1番のAメロBメロをまるまるバンド演奏した後、白くファンシーな衣装にチェンジした9人が登場、サビから一気に歌い出す。同時に火薬がドン!、粋な演出である。さらに中盤では、演奏を止めて、サビをジヒョがアカペラで歌い上げ、ラストの大サビへ繋がる非常に熱いアレンジもあり非常にエモーショナルなステージとなった。そこから、"cry for me"→"fancy"→"the feels"とリード曲が続き、中盤のヤマとなる。

"the feels"が終わると、先ほどソロステージをした、ダヒョン、ツウィ、モモ、サナ、ミナがMC。各ステージの振り返りをしていた。その後、残りのメンバーのソロステージへ。オリジナル曲を弾き語るチェヨン、圧巻のボーカルパフォーマンスのジヒョ、自身のキャラクターを存分に生かしたジョンヨンのパフォーマンスに続いて、ナヨンの"POP"。実は俺が今回のライブで楽しみにしていたのがこれ。めちゃくちゃ聴いてたし、ナヨンの魅力を再確認するきっかけだった。この"POP"もバンドアレンジになっており、途中にダンスブレイクも足されて満足度アップ、ソロステージで唯一、銀テープの特効が使われていた。

ナヨンのソロステージでしばし幕間、9人横並びのスタンドマイクでの"queen of hearts"。衣装はデニムにラインストーンが散りばめられたものに変わっている。さらに往年の名曲たちのメドレーへと続く。そして"alcohol free"→"dance the night away"→"talk that talk"で本編が終わる。特にラストの"talk that talk"は今ツアーでは歌終わりにダンスブレイクがプラスされており、そこで花火もあがったりして大変よかった。

その後はメンバーの衣装チェンジやゴンドラ準備の間、観客席カメラを用いて客いじり的な時間があり、ゴンドラに乗っての"hare hare"→"happy happy"→"candy pop"。ステージ上で"when we were kids"→"crazy stupid love"。その後、このツアー恒例のルーレットでのラスト曲。日本公演ラストは"strawberry moon"と"BDZ"で幕を閉じた。

 

ふう、ここまでライブの流れを書き出しながら改めて思ったが、凄まじいボリュームである。ソロステージを含んでいるとはいえ、トータルで31曲。3時間に及ぶステージである。平沢進のライブに行くと20曲くらいで、後半はふうふう言いながらやってるので、彼女たちがあまりにエネルギッシュで驚いた。双眼鏡持参で臨んだが、これは本当に大正解で、彼女たちの表情をよく見ることができた。本当にみんな頭が小さくて痩せてる。痩せてるといってもガリガリではなく筋肉質でしっかりしており、女性らしいしなやかさも感じさせる、"可愛さの全部"みたいな存在だ。その存在がコンサートをするために、凄まじい数の人員が動員されている。短期バイト的なスタッフ、おそらく派遣できてるスタッフ、警備会社、運営会社、鉄道、警察に至るまでがTWICEのために動員されている。100人や200人ではきかない人数だろう。最後のMCはナヨンがたっぷりと話してくれて、「スタッフの皆さんにも感謝です」と述べていた。この、スタッフへの感謝の辞というのはMCの定番だが、なるほどこれだけの人数が動いてたらそう言うわな、とつくづく思った。つくづく思ったが、少しして思い直した。感謝をするのはTWICEではなくむしろスタッフ達なのかもしれない。彼女たちが来るというだけで数百人単位の雇用が生まれる。街は潤い、人も潤い、jypも潤う。おそらく昨日のコンサートは何某かの媒体で売り出され、また誰かを潤すだろう。まったく感謝されるべきはTWICEである。彼女たちが稼いだ金が多くの人々に分配されているのだ。

彼女たちのステージを見ながら、俺は彼女たちの人生を考えていた。あまりに遠い存在を見ると、その軌跡を辿りたくならないだろうか?俺はなる。皇室スペシャルとかめちゃ見るし。彼女たちが彼女たちであるだけでファンは金を払う。この存在になるまで、体型維持やトレーニング、ファンへの対応や諸々の撮影など、どれだけの努力を重ねただろう。それで何を得ただろう。膨大な富と世界的な名誉。そして何を失ってきたのだろう。モモはいつだったか、「親密な友達ってメンバーくらいしかいないかもしれない」と話していた。食べる物も行く場所も全てが注目される存在、そうなるために捨ててきた多くのことに思いを馳せたりした。何も知らないけどね。意外とそんなものはないのかもしれないけど、まあ二郎とかは食べることはないだろう。そしてなにより、彼女たちはいつまでTWICEでいられるのだろう。俺の愛するダヒョンはまだ24歳だ。24歳!弊社でよちよち仕事をしているピヨピヨ若手社員でさえ26,7歳であるのに、それよりさらに若い。そんな年齢で世界各国のファンにサービスをし、数万人の前でパフォーマンスをする。ファッションショーに出席してセレブリティたちと交流し、暇があればSNSを更新する。コンサート終わりにダヒョンからバブル(公式LINEみたいなもの)が飛んできたが、日本のコンサートそのものには触れず、「韓国に戻ってきました!」と自撮りをあげていた。なぜか?TWICEのファンは世界中にいる。バブルとは、"わたし(アーティスト)とあなた(ファン)の空間"だから、「日本の皆さんありがとう!」なんて発信は許されないのだ。俺なら正気でいられない。自分が何者なのかわからなくなったりするんじゃないだろうか。そもそも俺が24歳のときは、ネットの訳分からんクソ女に突っかかって毎日歯軋りをしていた。もし、ここから10年経ってもまだ彼女は34歳。その時TWICEはどうなっている?その時彼女はいまと同じように輝き続けられるのだろうか?そうあって欲しいと思うが、わからない。アイドルのエンターテイメントとは、つくづくポルノだと思った。人が、人前で歌ったり踊ったりする。観客は、それが気に入っている間は熱狂する。「人柄がいい」だの「関係性が尊い」だの言ってみるが、興味が薄れた途端、あっという間に離れていき、ビタ一文、金を払うことはない。だからアイドルは、関心を引き留めるためあの手この手で魅了しようとする。ダンスや歌唱のレベルは様々だが、結局のところアイドル活動とは"可愛い"というポルノに収斂していくものならば、TWICEたちの活動もまた、若さに担保された儚い花火かもしれない。まあ、彼女たちは既に、残りの人生を支えるに足る財をなしているだろうし、いまの名声があればこの先に出来ないことなどほとんどなかろうから、俺が何を心配するでもないのだが。

ついでに言うと、終始笑顔でファンに手を振り、日本語を話し、一生懸命パフォーマンスをする姿に、プロの労働の美しさをみた。俺もTWICEも、これを読んでいるあなたも同じ労働者である。人にできないことをして、その対価で生きている。そういう意味で、コンサートとは紛うかたなき労働であり、なにも彼女たちの趣味で俺たちに微笑みかけてくれているわけではない。それでも、あれだけの人数を熱狂させ、実生活では何の役にも立たないグッズ(これは神への供物である)を買わせ、経済を高速回転させる。尊敬に値するビッグビジネスウーマンたちであり、コンサート終わりには、現実への忌避感よりも労働へのモチベーションが上がったくらいだ。

さて、今後TWICEのコンサートに参加できる機会もあるかわからないので長々と一から十まで書いたが、本当に滅多にない経験で、かなりの疲労を代償にしたが、それに足るほどの世界的なパフォーマンスを見ることができたことを感謝したいと思う。アンニョン。

ありのままではいられない

雨のち晴。雨勘弁してください。こんばんは、小西真奈美です。

最近の弊社社長は、社員に「エネルギー」がないことを心配されている。仕事は一生懸命やっているようだが、なんとなく活力がないというか、外向的エナジーが不足していることを懸念しているようだ。まあ、要するに元気がないってことだろう。社員に元気がないのは確かだ。先日、とある取引先へ訪問したのだが、社員がみんな若く、我々に溌剌と挨拶をしてくれる。動きもシャッキリしてて爽やかだ。翻って弊社を見ると、みんな肩をすくめ、下を向いて重苦しそうに歩いている。社員同士がすれ違っても「おざーす」「おっかれーす」ぐらいのものである。こんな状態では前向きな仕事なんかできるはずもない。これは、前回の記事でも書いたが、要するにモチベーションの問題で、社員が会社に対して自発的・主体的に参画していないからこうなる。こういった現状に対して上層部は、「落ち込んでても数字が良くなるわけじゃない。前を向いてやらないとうまく行くこともいかなくなるぞ」「そうだ、目標を立ててそれに向かえば前向きになるだろう」と鼓舞するだけである。果たして、弊社人事部は、採用段階から消極的で悲観的な人間ばかりを厳選して入社させているのだろうか?否、みんな最初はそれなりのモチベーションを持ったいたはずだ。それが一様に内に閉じこもって仕事をするようになるならば、組織そのものに問題があると考えるべきだが、上層部は単に現場が拗ねてるだけだと思っているようだ。全く弊社のお偉方は自省の心がなく、さぞ生きていて楽しいだろうと感じるが、俺から見ると社員のモチベーションが低いのは明らかに上層部に問題があり、社員誰もが、上層部の気に入るような建前をつくり、その裏で数字を残す泥臭い企画を積み上げていくのが最適解だと見出すようになる。ついでに言うと、多分だが、いまの弊社の社員は、社長が現役プレイヤーだった時代(=社員に「エネルギー」があった時代」)に比べて相当真面目かつ精緻に仕事をしていると思う。当時よりも数値管理の方法自体が正確になっているし、より広範な数値を扱えるようになっている。現況、確かに小売の業績は不振の傾向にあるが、それをきちんと受け止め、対策しないとならないと考えているからこそ肩も落としたくなるのだ。ところが上層部は未だに昭和のノリで、98点を取っても2点のロスを責めるようなマネジメントをしているし、最終的には上層部が気にいるかどうかで全てが決まるため、社員が自発性を発揮するのはエネルギーの無駄になる。さらに、ここには書けないような情けない社内コミュニケーション、カルチャーが蔓延しており、誰も明るく仕事をしようという雰囲気にはない。

弊社は業界内では給与水準が高い方(アパレル業界は小売もメーカーも基本的に薄給で、弊社が高い方とはいえ、他業種に勤めている同年代とは大きな給与差がある。事実、俺の弟は5歳年下で、上場企業に就職したが、すでに俺と年収が変わらないと言う)であり、転職するのも面倒という人材がしがみつくことで人員が揃っているような感じであり、あと50万年収が低ければ誰も残っていないだろう。社員のモチベーションが低いというのは割と由々しき問題だと思うのだが、いまいち弊社には危機感がない。叩いてやらせればいいと思っているからだろうか。

他方で、逆の視点から言えば「現場がちゃんとやってりゃあ俺たちもヤイノヤイノ言わなくて済むんだよ」という気持ちもあると思う。これは管理職になると本当に強く思うことで、部下を抱えると、頼むからちゃんとやってくれ、俺に注意させないでくれと日々祈るばかりだ。自分も散々上から言われてきたから、それがどれだけ嫌かはわかっている。それでもうまくいっていないことをそのままにはできないから言わなければならない。全部自分ができたらどんなに楽だろう、自分があと3人いればどんなにいいだろう、管理職はいつもそんなことを思っている(たぶん)。

さて、ここにきて想定上、双方の言い分がある状態で不和が起こっている。管理職は「現場がちゃんとしていれば言わなくて済むのに」と思っており、現場(俺)は「上がまともなら俺らもちゃんとやるよ」と思っている。俺はこの会社に入ってから色々と怒られたが、ひとつだけ心に留めている指摘がある。当時もやはり、所属する課の業績が悪く、その対応でムギュウとなっていた時だった。業務的にかなり厳しい対応が必要だったのだが、当時の上司にこう言われた。

「自然にしていてうまくいっていないこと、"いつも通り"やっててダメな場合、それを是正するためには必ずどこかにストレスがかかる。それは君自身にかもしれないし、君じゃない誰かにかもしれない。だがそのストレスなしに状況が好転することはないから、それはやるしかない」

当たり前といえば当たり前なのだが、俺は本当にストレスを受けることが嫌いで、誰もが苦しまない形でなんとか好転させられないものかといつも考えていたから、これ以降少しはストレスを承知で前へ進めるようになった気がする。さて、現在の弊社では、現場の活力がないという"不都合"が起こっているのだが、打破するためには現場が発奮して元気にやるか、マネジメントを変える必要がある。どちらが変わるべきだろうか。もったいつけたが、結局、上が変われば?と思っている。この"不都合"を問題にしているのは現場ではないからだ。問題だと思っている側が変えるのが筋だろう。いい加減にしろ。

若手以上、中堅未満のわたしvs社長

晴れ。もう半袖です。こんばんは、山之内すずです。

今日、弊社社長と話していた。

「お前ら日経とか読んでんのか」

「読んでないですね、、へへ、、」

「だよなぁ。なーんかうちの社員て、仕事はちゃんとやってんだろうけど、世の中のか社会のこととかに疎いんだよなあ」

「はあ」

「狭ーい世界で仕事してないか?世の中いろんなことが起こってるし、それらは無関係じゃないんだぞ」

「ですねえ」

「もっとさあ、広い世界を知ってもらってさ。色んなことを知って色んな仕事ができるようになってくれよ。大谷翔平なんか世界を股にかけてるじゃないか。君より歳下だろう」

「ですね、体脂肪率ぐらいしか勝てないですね」

「いろいろさあ、ニュースとか読みなよ!おつかれさん!」

「さまでーす」

社長氏が言うこともわからんでもない。実際のところ、俺は32歳にして驚くほど社会情勢や経済動向、政治などに興味がなく、いまなにが日本で問題になってるか?と聞かれたら「う〜〜〜ん、少子高齢化!w」とヘラヘラ答えちゃうくらい知識がない。世界に視野を向けてるのか?と言われれば当然向けてはいないのであり、専らその日の晩御飯と週末の予定だけを考えて生きている。そんな社員ばかりでは、新しいアイデアも生まれない。こうべを垂れて、上から降ってくる仕事に黙々と取り組むだけ。イノベーションもなにもあったものではないし、会社が現状よりも高いところへ、大きな規模へ向かうこともままならないだろう。それに、いくら弊社がヘボヘボコーポレーションとはいえ、国際・国内的な経済や文化の揺れ動きには無関係ではいられず、いつかはその波は我が会社とその顧客達へ到達する。その時に迅速にアクションをとるためには、当然、遠くで起こりまだここに来ていない波のことを知っておかなければならない。社長の危惧もごもっともである。

ごもっともであるが、だからといって改善する気には1ミリもならない。だいたい、日経を毎日きちんと読んでいるらしい弊社上層部から出てくる意見と言えば、「何が起こるかわからない激動の時代になっている!」「価値観の変容が起こっている!」みたいなふんわりとした危機感だけで、じゃあ具体的にどうするかは日経を読んでいない現場に丸投げされているのが現状だ。日経とニュースに教えてもらった大局的な視点をもって、"価値"を売ろう!消費者はただ安いだけのものは欲しくない!なんてカッコつけているかと思えば、安さだけがウリみたいな競合他社の動きに右往左往しちゃって、ちっとも軸がない。確かに弊社社員はみんな社会情勢に関心がなさそうで、比較的職人気質な人間が多い。結局のところ、会社が社員をそういう人材にしてしまってるんだと思う。全社員が毎日出社後30分は日経を読むことにしたとしても、「狭い世界で仕事をしている」ように見える社長氏の危惧はなくならないだろう。なぜならこれは知識量の問題ではなくひとえにモチベーションの問題で、本部で重要な仕事をしている社員の多くは、入社してからこれまでのどこかで自身のモチベーションを折られてきた人な気もする。社長氏は「いつまでもおんなじことばっかやるんか?うちの会社だけでも色んな部署、仕事があるんだぜ」とおっしゃるが、その割に弊社は人事があまり動かず、一つの部署に10年前後いることも少なくない。業務改善案、効率化案を募る割に、こっちが案を出せば「でも今のやり方にも理由があるから」と現状追認を前提して話が進められる。数字を安定させるための品揃えを構築すれば「見栄えが良くない」と文句を言われ、見栄えを意識して数字を落とす(これは小売あるあるなのだ)と「数字を出せ」と詰められる。日々の業務についていえば、"ルールをつくり、それを徹底する"的な思考が会社を支配しており、一度できたルールが振り返られたり、逸脱を許されたりすることはあまりない。また業務の多くは1〜2人の社員に集約されており、事業拡大や既存事業の新たな試みについても人員補充はなく、雪だるま式に業務は増えていく。そうすると、一つの業務にさける意識の量が減るため、仕事のクオリティは落ちていく。おまけに圧倒的なワンマン体制のため、社長ないし常務取締役あたりの指示が社内の法であり神の福音として扱われるきらいがある。そうすると社員はだんだん、自分で考えるのが嫌になってくるし、上のご機嫌を伺いつつ、妥当な着地点を探るようになる。そうして出来上がるのが現在のソルジャー軍団であり、間違ってもクリエイターやイノベイターは育ってこない。実際、前へ踏み出す気質の人間は早めに会社を辞めていった。こういう社風が、日経を読んだら、ダイヤモンドを読んだら変わるのだろうか?

冒頭の会話を、いちおう上司に報告したら(うんうん、俺も社長と同じ意見だな)みたいな顔で頷いててキモかった。

あれから僕たちは

晴れ。中途半端な気温。暑いなら暑くなれ。こんばんは、中条あやみです。

「職場に尊敬できる人を見つけなさい、見つからないならその会社はやめなさい」これは、俺が就活をしていたときに伯母から言われた言葉である。伯母は、閉鎖的な秋田の田舎からひとり上京して美大を卒業し、広告代理店に就職。独立して自分で会社をつくり、その後20数年、東京を身一つでサバイブしてきた人である。そんな伯母が、同じくひとり上京してきた俺にくれたのがその言葉なのだが、32歳になり、新卒で入社して10年近く勤めてきて、改めて思い出す時間が増えた。最近、弊社は重鎮たちの退職が相次ぎ、若返りが進んでいる。進んではいるものの、新たに上層部に就いたのは弊社の社風を強く体現する人々で、年齢が若くなっただけで会社自体の刷新やリフレッシュが図られる見込みがない。中間管理職の人たちも、上から落ちてくる指示の理不尽さや都合のいい考えに頭を抱えながらも、自分に言い訳をしてなんとか腹落ちをさせているように見える。その人たちが今度は上に立ち、「自分たちもそうされてきたから」と新たな世代にむちゃくちゃ言い始めるのだろうと思うとうんざりしてくる。伯母さん、俺、尊敬できる人見つけられねーかもしんねぇ。でも、去年、この伯母さんに会社やめてーんだけどって相談したら「業績が傾くのでもなく、他に強くやりたいことがあるのでもないのならしがみついたほうがいいよ」というめちゃくちゃ現実的な回答が返ってきたので今はしがみついている。

ところで、そもそもひとを尊敬するという感覚は昔から薄いかもしれない。他人に対して妬み嫉み、憎しみや加虐心を抱くことは数多あれど、腹にイチモツなく"素敵な人だな"と思えるようになったのはここ数年な気がする。何故かというと、最も賢く優秀な人間とは何を隠そうこの私であり、この世で価値があるのは私が考え、納得したものだけであるという"真理"がこの胸にあるからである。この"真理"は、世界に光が生まれたその時から光と共に降り注ぎ、天と地が生まれればその間を貫いて存在し、生命の営みを常に見届けきたものであるからして、これに背くものは何者であろうと許されない。神の裁きがくだるのである。俺の怒りはこの天命ゆえものであり、嫉妬の炎は神との誓いとの葛藤によるものだったのだ。だが俺も社会に出て、俗世に触れる中で、少しずつ"信仰"を失っていき、この私以外の存在を、他なる"真理"の台頭を許容するようになってきたのだ。それでも、尊敬というには程遠い、評価とか好意とか、それくらいの感覚である。だから、何か自分じゃないものに指針を見出そうとか、会社や職場を自己実現の場にするとか、そういう姿勢と相性がよくないかもしれない。自分がしたいことをして生きていく方が向いている。自分がしたいこととは・・・・→腹いっぱい飯を食って寝る。

  終

制作・著作

 NHK

 

ねむいねむいねずみ

曇り。寒い!やめてくれ!こんばんは、ホン・ウンチェです。

仕事が多い。仕事の内容については、不要なのにやってるという感じはあまりないのだが、それを捌く人員が少ない。他社ならそれ用の人員がいるであろうところをすべて1人の人間(俺)が賄っており、意識を割くべき他の業務の時間が削られている趣だ。会社としては、劇的な業績が伸びているわけではないのに経費を割けないというところだろうが、会社が投資をしないくせに事業拡大ばかりして、現場にはイノベーションを求めるのは非常に薄寒く感じるところである。成果物や業績について競合と比べているが、比べるならば予算設定も同じしないとフェアではない。競合よりも無茶な予算設定をしてるくせに競合がやってるようにやれなんて都合のいいことを言うなという感じである。このままでは、タスクに対してきちんと人員を配置している競合には絶対に勝てないし、社員のモチベーションも下がるばかり、仕事のクオリティも上がらないだろう。時勢の変化に対して、旧態然としたシステムにつぎはぎをするように対応していては当然歪みがでるし、それが効率化を妨げる。やめるという決断も、やめない代わりに金をかけるという決断もせず、現場に押し込めて見ないふりをしているのでは。

はあ、暗い話になってしまった。そのうちディズニーの新しいパレードについて書こうと思う。

サステナを・・・さすってな!

晴れ。あんまり暖かくない。それはそれで困る。こんばんは、イム・ナヨンです。

先日、ガイアの夜明けアダストリアが特集されていた。アダストリアといえばグローバルワークローリーズファームなどを展開する日本有数のアパレル企業だが、今回の特集の目玉はフォーエバー21の日本再上陸についてだった。フォーエバーでは2009年に日本上陸し、ファストファッションブームの旗振り役として市場を賑わせたが10年ほどで撤退。今回、アダストリアと手を組み、フォーエバー21のライセンスをもって、アダストリアが日本向けに商品開発をするというローカライズをしての再展開となる。

番組では、欧米向けの強いデザイン性やカラー、安価と引き換えに不安のある生地・縫製のクオリティといったかつてのイメージを脱却するべく、日本のトレンドに合わせたカラーやデザインを取り入れたり新たな生地を求めて地方は遠征する様子などが取り上げられていた。中でも特に強調されていたのはサステナビリティについての取り組みだった。日本では年間50万トンを超える衣料が廃棄されており、近年では環境保護や資源保護の観点から低減がのぞまれている。アダストリアでは、自社の在庫品を洋服から繊維に戻し、それを使ってまた新たな製品を作るなどの取り組みで、2020年には、企業としての焼却処分がゼロになったと話していた。フォーエバー21プロジェクトの責任者のなった何某とかいう御仁も、その製品がいかにサステナブルであるかを強調していた。洋服におけるサステナビリティーとは、製品にリサイクル原料が使われていることや、製品が着た後にリサイクルできることの他に、長く着られることもその要素になる。長く着られれば廃棄せずに済むし、他のものを買わなくて済む(それはどうかな)。サステナブルであることが商品の価値になるという強い信念を感じた。

ところで、消費者というのはサステナビリティに対して金を払おうという感覚はあるのだろうか。メーカー周りをしていると、最近ではこうしたサステナを意識した商品提案が多い。だいたいそういう商品は、クオリティ自体はそこまでな割にやけに高い。話を聞くと、リサイクルポリエステルを使っているだの、端材を集めて作ってるだの、染色の際に洗いのいらないものを使っている(デニムの染料などは環境負荷が高く生産時の汚染が問題視されている)だのと、説法を聞かされる。「なんで使い古しの原料を使ってるのに高くなるんだよ!」ときくと、「あのねえ、勘違いされてませんか?サステナブルは金がかかるんですよ」と返される。リサイクル原料を作るための行程自体がコストに反映されるためだ。はっきりいって、新品の原料を使って、廃棄上等で莫大な数を作ったほうが全然安くなる(だかられまでアパレル業界はそのような生産をしてきた)。即ち、アダストリアは心の底から地球環境を想うあまり、わざわざ高いものを作っていることになるし、消費者はアダストリアの服を買う時には、少なからずそうした信念に金を払っていることになる。俺のような卑しい感性の人間からすれば、サステナビリティとは企業がイキるためにわざわざやる非効率か、良いものが安く作れなくなったことの言い訳に過ぎない。消費者が求めているものは「安くて良いもの」である。その服が何から作られてるかなんて消費者の人生には1ミリも関係のない話で、消費者に転嫁するコストではなく企業が自分の身を削ってやればいい話であるが、結果的にそれは最終売価に上積みされ、我々消費者が企業の取り組みを支えることになる。しかし、俺ははたと思い直す。アダストリアとは環境保護に熱を上げているアンポンタンではなく、日本トップクラスのアパレル企業である。そこにビジネス視点はゼロなのだろうか。即ち、"サステナビリティを謳えば商品が売れる"こともあるのかしら、と考え直した。天下のアダストリアがそこまで入れ込むのだし。

それよりも俺は、アダストリアの商品開発風景を見て、その熱心さや時間のかけ方、データの活用法などにすっかり関心してしまった。俺もこんな風に仕事したい。いまの会社では他の業務が煩雑すぎて、商品作りとか投入スケジュールに割けるコストが、時間的にも精神的にもあまりに限られている。売上と関係ないような仕事や、他の企業なら別部署がやるべきような仕事に時間を取られ、本当に気合を入れないといけない仕事はおざなりに済ましてしまう。会社がコストをかけることなく、現場の偶発的なイノベーションを祈り続けている。それではいつまで経っても、弊社は一流企業には勝てないな・・・という感慨を抱いて番組を見ていた吉宗である。