お前のせいではないがお前がやらないといけないこと

晴れ。先日の嵐で、せっかく満開になった桜がもう散ってしまった。こんばんは、桑島海空です。

今週はセンセーショナルなパーソンがタイムラインを駆け抜けた。お笑い芸人ラニーノーズのファンの男の子で、推しがいる人間が抱える様々な葛藤と、ラニーノーズ本人たちも巻き込んだ推し活の珍道中(というにはややヘビーだが)が3つくらいに分かれてnoteに書かれている。ただ、今日の日記ではこの件の本筋については触れない。このブログは徹頭徹尾、俺個人についての語りを重視するからだ。顛末が気になる人は各々ググって欲しい。「ラニーノーズ note」とかでツイッター検索したら出てくると思う。俺が注目したいのは、彼の感情が最も吐露されている記事の中にある以下の部分だ。

f:id:oqqoq_poppo:20240409204914j:image

どうやら彼が抱える問題は、推しを応援するファンとしての在り方だけではなく、他人一般との関係性にもあるようだ。画像のくだりは、本筋を全て語り終わってなお吐き出しきれない自分のモヤモヤを語っている、枝葉の部分なのだが、ここが俺にひどく刺さった。まさに俺自身が彼の年齢の頃、どころかさらに進んだ年齢でも囚われていた場所であり、だいぶ抜け出した今もなお頭を掠める思考だからだ。彼のnoteを読めばわかるが、ちょっと独善的な思考が見てとれる。おそらく彼自身としては、他人のことや社会の倫理を踏まえた思考になっているつもりなのだが、人と関わらなさすぎて適切な視野がとれなくなっているように感じる。だから、いまの彼がどんなに考えても独善の視野から脱することができない。きっとかなりの人数からそれを指摘されたのだろう。そうした批判に耐えかねた画像の文章かと思う。しかも本人は「これから自分が頑張ろうというつもりで書いた」のだから始末が悪い。

さて、彼の言葉を借りるならば、これは誰に責任があるのか。俺は幼少期から人見知りで、共感性が低く、人間関係が下手だった。人の気持ちがわからないから、その代わりに"正しさ"を求めた。思春期でいくつかのトラブルを経て、認知が歪み、余計に人と関わらなくなっていった。その後、なんとかリハビリをして今に至るが、それでも人並みになったとは言い難い社会性である。そんな自分の半生を振り返っても、彼と同じ言葉をひとりごつことがある。これは誰が悪いんだ?と。他人とうまくやれなかった個々の事例について、この言い方が悪かった、こういう思考が悪かった、と反省することはできよう。多かれ少なかれ、誰もがそうした試行錯誤の中で社会をやっていくのだろうが、それにしても俺は多くないか?それにしても未熟すぎないか?一人の世界から抜け出せなさすぎでは?そうなってしまったのは・・・・それもまた自業自得なのか?たとえば、走るのが遅い、記憶力が悪い、字が汚い、マルチタスクができないetc...で苦労する人たちもたくさんいるかと思うが、これらは所与の差として受容されている感があるし、努力のハウツーもそれなりに示されている。なにより、それらによって孤立したりすることはあまりない。社会性が低いことについては、所与の差がありそうなことは認識されている気はするが、受容はされていない。普通に遠ざけられる。孤立する。それによりさらに悪化する。

こう書いてみると、「誰しも人よりうまくできないことの一つや二つあるが、各人が必要に応じて努力を重ねて乗り越えるしかない」という、極めて凡庸な着地が見えてくるし、実際この記事の着地はそこへ向かうのだが、それでも、社会ができないことは、走るのが遅いこととは同じではないと思う。ランナーとして生きる場合、走るのが遅いのは致命的だが、何せ多くの人間はランナーとしては生きていかないし、できない選択肢は選ばないことができる。ところが社会をやる(他人に共感する・自他の境界を意識する・お互いの"正しさ"をすり合わせるなど)ことからは逃れられない。人間が社会的な動物であるというのは、2000年以上前から言われていることだ。たとえ、自分一人でコンテンツをつくり、それを発信することで稼ごうと思ったとしても社会からは逃れられないだろう。人の世は社会ゲーであり、社会がうまいやつが幸せになることになっている。社会が下手だと寂しさや悲しさと暮らしていく必要があるのだが、しかし、その寂しさや悲しさは・・・本当に・・・・わたしの"せい"なのだろうか・・・・冒頭の彼は、推しとのトラブルの顛末について「誰も悪くない」と結論づけていた。その後に幾分か訂正されたようではあるが、彼の言葉を大げさに解釈するならば、「誰も悪くない」のは種々のトラブルについてではなく、それを起こしてしまった彼の精神についてだろう。彼が"そう"なってしまった発端は彼のせいではない。だから、彼だけが社会をやれるように努力しないといけないのは、アンフェアな苦労といえる。努力しなくてもできる人もいるからだ。俺は24,5くらいまで女性と付き合ったことがなかったが、それはずっと自分が不細工だからだと思っていた。そりゃ、自分が朗らかで人当たりのいい人物だとは思っていなかったが、自分よりずっとやばいやつでも恋愛はしてるわけだからあまり問題ではないのだろう、と。でもたぶん、その等閑視していた人格、精神の問題がずっと大きかったと思う。なにせ友達がいなかったもんで、他人の恋愛やは"気付くとそうなっているもの"としか認識できず、その機序が理解できなかった。「俺にはかなり難しく思えることなのに、世の中の人たちは普通にやってるな・・・」とずっと思っていた。こうなったのは自分が努力しなかったせいなのだろうか。他の人はやはり同じだけ努力していたのか・・・?と。

既に登場した凡庸な着地へと向かおう。アンフェアだろうとなんだろうと、自分以外では助けられないから、自分でやるしかない。ああなんてありふれた結論。こんなことを言う大人にはなりたくなかった。俺がかつて同じことを言われた時、「知ったような口をきくなよこっちの苦労も知らないで」とブチギレていた。他人との理不尽な差を抱えて他人から避けられるしんどさ分かるのかよあんたに!と。その怒りも甘えとか未熟で片付けられるのも我慢ならなかった。しんどさの量が同じじゃないと思っていたからだ。実際同じじゃないと思う。「普通にしてたら、まあ彼女とかできるでしょ」と大学時代に同期が話しているのを、(こちとら普通にしてたら人に避けられるが?)と思いながら聞いていた。俺は友達が少ないことはあまり苦じゃなかったので恋愛の話に終始しているが、社会をやれない人間の具象は様々かと思う。なにしろ、普通にしていたらなんかうまくやれないな、受け入れてもらえないな、嫌われていくな、というのはしんどい。しかもそれが、まるっきり自分自身に非がある問題があるとしてやってくる。理不尽だ。どうしたらよいか。相手を変えにかかるという手もある。かつて差別されてきた、例えば女性とか障害者とか、そういう集団は、種々社会運動を通して社会を相手を変えることで自分たちの望むありようを模索しているし、未だ不十分といえ、歴史的には多くを手に入れてきた。社会性ないみんなで徒党を組んでデモをしてみるか、無理だろうなあ社会性ないし。だいいち、他人とうまくやれない、なんて他のマイノリティに比べてチンケな悩みすぎて社会が取り合うに値しない。そうするとやっぱり自分が努力するしかない。腹を括るんだ。腹を括るとはどういうことか?理不尽を理不尽のまま受け止めるということだ。確かに君が人より努力しなければいけないのは理不尽かもしれない。だがそれをしないなら孤独を受け入れるしかない。どちらかを選ぶしかない。その選択を受け止めることだ。泣きながらやるしかないんだ。だけど、やってみるといいこともあるから、社会、やっていこう。

はあ、なんだかずいぶんと脂っこい記事になってしまった。自分の思考がハイカロリーすぎて3日に分けて書いた。この記事は冒頭の彼だけでなく、同じ理不尽を掲げた多くの人に向けているつもりだ。腹を括るしかないんだ。きっと君たちは、人生を諦めるだけの胆力もないだろう。いつか自分が輝く場所にいける、自分をそのまま受け入れてくれる人が空から落ちてくると思っている。だがそんな日はこない。永劫に。みんなそんなに暇じゃないし、そもそも俺たちにそんな魅力はないからだ。だから社会をやろう。人と話し、傷つけたり傷つけられたりしよう。するとだんだん、明るいと思っていた部屋が存外暗かったことにも気づくだろう。余計なお世話だろうが、失った時間は取り返せないし、それは呪いとなって追いかけてくるものなので。