よそはよそ

晴れ?くもり?雨の予報が怖くて1週間ほど洗濯ができていない。こんばんは、イムナヨンです。誕生日おめでとうナヨノニ。好きだよ。

 

コロナ禍の収束について考えている。相変わらず、感染者数の報告がメディアでは流され、諸々の行事は自粛傾向、マスクも継続ということで退屈な暮らしが続いている。はっきり言ってうんざりだし、早くみんなとワイワイまた仲良く過ごしたい。それに、感染者数がめちゃくちゃ増えていた時でも、初めての緊急事態宣言時の世紀末感を思えば、ほとんどいつも通りと言っていいくらいみんな出かけたりしていたようにも思う。先日帰省した際の新幹線もかなり混んでいたし、街中の飲み屋も盛況な様子である。ノーマスクの人も随分見かけるようになった。確かにコロナは感染力が強く、重症化した場合は命に関わるのは事実だし、まったく収束などできていないのだが、結局のところ、社会がどう受容するかは科学的根拠とは必ずしも一致しない部分があるなあと感じる。一応マスクしたり、建前としての自粛はするけど、割となあなあになってきてるような。かといって「欧米ではもうマスクしてないしコロナなんて過去の話!」という言説を鵜呑みにして、だから日本もそうしよう!とするのはさすがに、辿ってきた状況も同じではないし、国民性も違うだろうから、強度の弱い主張に聞こえる。

国民性といえば、マスクの習慣は日本人の気質に合っているような感じがする。日本人はマスク好きだとなんかで見たような気がする(ふんわり)。そんなに具合悪くなくてもマスクしたがるし、マスクをすることにあまり抵抗がない文化が強いのかもしれない。実際、マスクをしていることの大きな不利益はないし、外すデメリットが社会的に大きめな現況では、期待値の高さからいってマスク着用は穏当な着地といえるだろう。ちなみに俺も高校生の時にずっとマスクをつけていた時期がある(かっこいいと思っていた)。

コロナ禍の対応、自粛自粛の傾向はたいへん窮屈だし、いつまでやらせんねん、こんなにマスクしてんのに結局感染者数増えてるやんけ!という気持ちはあるのだが、かといってマスクを外そう運動には全く乗る気にならないのは前述の通りである。最近は週末に渋谷に行くと、ハチ公前広場でノーマスク運動呼びかけをしていたりする。俺が耳にした主張はだいたい二つで、「マスクをすると顔が見えない、人と人との交流が阻害される!」「政府の言うことを聞くだけの愚民になってはいけない、自分で考えてきめよう」みたいな感じだった。ツイッターを見てても、ノーマスク派はだいたいこんな感じのことを言っているように感じる。マスク程度で人と人との交流が阻害されるなら盲目の人間はどうなるのかとかお前は言語が使えないのかとか疑問はあるが、まぁ最初の主張はわからんでもない。そんなにコストかけて主張することか?どうせ飯食う時は外すやんけ、と思うけど。キモいのは後者の方で、マスクをするという要請を受け入れさせることで、政府の言うことを聞いて都合の悪い政治も通しやすくする人民へ教育させるのだみたいな謎の陰謀論がささやかれるわけだが、かなり病的に感じるし、マスクをしないことで揉めるのを厭わない体力が羨ましい。この手の反ワクチンとかノーマスク、反体制みたいなのをこじらせた大人は、"愚かな大衆"と"目醒めた自身"を区別し、前者を「羊」とか呼んだりしているのだが、結局のところ、その"目醒めた"という感覚に耽溺し、反権力の姿勢を取ることで優越に浸る感覚とか、大衆(例えばマスクをする人たち)は自分で考えてないという構図に安易に落とし込むところとか、かなり幼稚なものの見方をしている。この、"目醒めた"という感覚はかなりやっかいで、自分は真実を見つけたという気になってしまう。そのアハ体験的な感覚の虜になり、その感覚を支えるための根拠を探し始めてしまう。

自分で考えて何かを決めるということ自体は、結構なことだと思う。ワクチン打たないでもマスクしないでも、好きに決断したらいい。その権利が我々にはあるし、その自由も保証されている。ただノーマスク派の気に入らないところは、自分が決めたことのくせにその尻拭いは社会にさせようとするところだ。社会の愚かな多数派と反対向きのことをしたいのなら、社会に迎えてもらえないのは当たり前であり、それは多様性ではなく責任の問題だろう。自分の決断の結果を自分で受け入れられないくせに、安易に「自分の頭で考えよう!」などというべきではない。あまりにも甘ちゃんだ。

ただ、哀れにも思うこともある。俺は、ノーマスクとか反ワクチンというのは、その人の人生に大きな欠損があり、それを埋めるためにのめり込むものだと考えているため、きっと何か辛いことがあったに違いないと思うからだ。そんなものを救いにしないとならないくらいの辛いことが。俺のフォロワーや知り合いに、そんな人生を歩む人間がいませんように。