正論の先こそ

晴れのち雨。昨日あったかかったらから薄着したら寒かった。こんばんは、堀未央奈です。

25歳くらいまで、この世のことは原理的な問題だけが重要で、その先のグラデーションや現実的な程度問題はあまり重要じゃないと思っていた。たとえば「究極的には他人の気持ちなんかわからないから、人を思いやるとかいう営みはエゴに過ぎない」とか、あとは、うーんなんだろ、しょっちゅう思ってたはずなのにいざ列挙しようとすると思いつかないよね。まあとにかく、極論と原理主義的な言説を振り回し、それを真理だと思って威張っていた。でもなんか、それはちょっと違うなって思い始めてきた。社会に揉まれた結果なのだけど、極論とか正論ってあまり意味がないなって考えるようになってきた。意味がないっていうのは、役に立たないってことで、現実的な問題に対して何の助けにもならないって思う場面が増えた。仕事に限らず、世界のあらゆる場面において、良い選択とはより多くの人が幸せになる選択のことで、それは正しさが指標になるとは限らない。現実的な判断をしなくてよかった身分の時は、真理とか論理的整合性みたいな美しいものだけを追いかけていられたけど、社会とは色んな濃さのグレーで満たされているから、白か黒かだけで判断するとクラッシュすることがわかってきた。

ネットを見てると、割といい歳っぽいのに程度問題を無視して、構造の話だけに囚われて悦に入ってる人とかいるけど、あれはまじで良くなくて、パッと見の正しさとか"べき論"の先で何を考えるかがずっと重要だなあって思うようになってきた。冒頭の例で言えば、「究極的には他人の気持ちはわからない」からといって、じゃあ他人とは常に交通不能な状態になっており、"関係"とは幻想に過ぎないというのか?原理的にそうだとしても、現実的には誰もが誰かを愛したり憎んだりしているわけで、その実生活のレイヤーから外れて何かを論じてもその時に気持ちよくなるだけで自分の進む道は示されない。だから、多くの人は、原理的にはわからないかもしれないけど、そうした可能性を探り合って生きていくことで社会を運営している。だから、もう全然出遅れているのだ、正論なんて。みんなとっくに知った上で社会をやっている。思い返せば、高校くらいではもうみんなそういうフェーズだった気がする。俺だけがそのずっと後ろにいて、反対方向を向いていたから、「みんなが自分の後ろにいる」と思っていたなあと振り返る。思春期と青年期は、散々、白な黒かのことだけを考え続けてきたから、ここから10年くらいは、なるべく実生活のレイヤーを大事にしたいなあと思って生きている。

わあ、すごいぼんやりした記事!疲れてるくせに抽象的なことを書こうとするから。