懐かしがられたい病

晴れ。寒さやわらいだような。もうすこし寒さ続いても良い。こんばんは、長澤まさみです。

今日は、俺の奇妙な欲望について書こうと思う。俺は他人に懐かしがられるのが好きだ。「久しぶり!」「太ったな!」という笑顔のファーストコンタクトが好きだ。「当時お前はこんなことしてたよな」と思い出を話し合うのが好きだ。そんなことが嫌いな人はいないだろうが、時々そういう衝動を抑えられなくなる時がある。

小学生の時(そんな幼い頃からなのだ)、通っていた保育園を唐突に訪問したことがある。かつて世話をしてくれた保母さんたちが温かく迎えてくれると思ったからだ。大きくなって!と褒めてくれて、さあ、おやつを食べながら話をしようと言ってくれると思ったからだ。当たり前だが現実はそうではなく、既に当時の保母さんは園にはほとんどいなかったし、見知らぬ小学生が突然やってきても何もすることはなく、怪訝そうな顔をして狼狽こちらの様子を伺うのみだった。「この園に通ってたんです」と俺は元気に言った気がする。「ああ、、そうなの、、、、」と返答をもらい、とりあえず帰ってくれみたいなことをやんわりと言われて帰ったような思い出がある。中学の時は、小学校の時に通っていた地元のサッカークラブチームの練習に急に顔を出してみたりした。当時のコーチたちは残っていたので、おう!久しぶりじゃねーか!と迎えてくれたが、その挨拶の後に特に話はしてもらえなかった。高校を卒業し、大学へ進む際には、小学校で4年間担任してくれた先生の家に合格の報告をしに行った。これは俺の独断行ではなく、親の「お前が挨拶したい人がいるなら協力する」という声かけから実施されたことだ。これまた突然行ったので先生はエプロン姿で大変驚いており、もちろん褒めてくれたが、それはあの頃の先生としてというよりも、いち社会人としてのコミュニケーションという色合いが強かったように思う。大学の時は定期的に高校の同級生に遊んでもらって昔話をした(他に友達はいなかった)。社会人になると、自社製品の割引券を配るという建前で大学のゼミに顔を出して、後輩に驚かれたりもした。

なぜそんなことをしたのか、懐かしがられたい欲望が抑えられなくなったからだ。そのチャンスだと思ったからだ。他人が懐かしいと思って俺を見る時、そこにあるのは暖かな好意だ(と信じていた)。かつて毎日顔を合わせていた二人が再会するときの驚きや感慨は、記憶が醸成された香気である。継続的に関係していた頃の記憶が、時間と共に様々なエネルギーを蓄え、再会を機にその蓋が開かれると、高い濃度のふわっとエネルギーが拡散する。俺はこの、高濃度のエネルギー拡散を求めて、傍迷惑なアポ無し訪問をやってしまうことがある。孤独に耐えられないときに。どうしようもなく自身の存在を確認したくなるときに。本来、継続的な関係(友達とか、家族とか、同僚とか)が良好に保たれていれば、単発的なエネルギーの拡散は起こらないし、必要がない。相互のエネルギーのやり取りを常にしているから、存在の現前性が水や血液のように他者と自分をめぐり、わたしと世界を繋ぎ止めてくれる。しかしそうした、世界との紐帯をあまり持たず、しかも孤独を受け入れきれてないとなると、定期的に自身の存在を確認せずにおれなくなる。その方法は人によって様々だろうが、俺にとっては、懐かしがられることであった。俺は、俺を懐かしいと思って微笑んで眺める相手を通して、その人の記憶の中の自分を確認する。確かに俺は存在していた、他者に受け入れられていたんだ、と安心するのだ。こうした欲望に駆られた前述のような奇行について、なぜ20余年前まで遡っても覚えているのか。それは、動機の切実さとは裏腹に、残ったのは強い後悔だからだ。やらなければよかった、こんなことしなければよかった、と必ず思う。俺は、他者の中に俺が生きていることを確かめたかったのに、代わりにわかったのは、彼や彼女がそれほど自分に関心を払ってはいなかったということだけだ。他者への甘えが過ぎる、そう諭されて肩を落として帰るだけなのだ。

実はこの悪癖について自覚したのはつい最近だ。数年前に仲良くしていたが疎遠になった知人が、会える距離の店で働いていることを知ったので、急に会いたくなったのだ。それまでろくに連絡もしてなかったくせに、またアポ無し突撃をしようと画策していたところで、はたと過去の愚行を思い出し、もう切れた糸なのだと足を止めたのだ。俺はこの人と再び関係を始めたいわけではなく、単に懐かしがられたいだけなのだとようやく気づいた。もうひとつきっかけがある。先日、後輩のNが昼休みにこんな話をしてくれた。「こないだ、SさんとHさんが飲んでたみたいで、Sさんから飲みに来いってLINEきたんですけど、僕スノボいってたんで無視したんすね。そしたらHさんからも、シカトすんな!ってすぐLINEきてめんどかったっすわー」と。このSとHというのは、既に弊社を退職した同年代の社員で、俺やNとも仲が良くてしばしば飲みに出る間柄であった。この話を受けて、思ったのは「俺には連絡してこないのか、、、」という失望だった。あんなに仲良かったのに、、、と。確かにこの後輩Nは人当たりがよく人畜無害で、アクの強い俺とは対照的である。しかし、、、(ちなみに、この「今飲んでるからお前もこいよ」に対しても、懐かしがられることに匹敵する強烈な欲望がある。言われたい。自分が必要とされていると感じたい。俺が受け入れられているのだと確信したい)。この話には続きがあり、Nの話を聞いた後、たまたま弊社の社長から「Hは元気にしてるのか。お前は歳が近いだろう。どうしてるのか聞いてみろ」といわれた。Hは社長のお気に入りで、弊社の若手でも期待の社員だった。そこで俺は数年ぶりにHにラインをし、動向を聞いたのだった。お互いの近況を報告し合う中で、Hは「またみんなに会いたいな」と言った。俺はすぐに同期を招集したい!という気持ちになったが、先の例と同じように、自身の悪癖を思い返してその言葉をやり過ごした。俺はHと再び仲良くしようとは思っていない。ただ、その場のファーストタッチでは、俺が恋焦がれるあの笑顔、懐かしさを満ちたエネルギーの拡散を感じられるかもしれないと欲にかられたが、後悔しかしたことがない試行をこれからも繰り返すのはあまりに愚かと思った。

俺がこうしてこの悪い癖を自覚できたのは、いまは人生の中で最も友達が多く、継続的な友好関係を築けているから、世界における自分の居場所を以前よりも感じられているからだと思う。「懐かしがられたい」なんて奇癖を想像もできない人からすれば、サワガニも釣り上げられない細い糸、わずかな繋がりではあるが、それでも、過去の関係にとらわれて微かな温もりを慰みにするくらいなら、足が霜焼けても前に進むべきだという決意ができたからかもしれない。いま春がきておれは綺麗になった、でありますように。