リスクと保身とマスク

晴れ。割と寒い。こんばんは、原つむぎです。

会社からきもい通達がきた。「自席で作業をする場合はマスクをしない」という指示だ。現状、マスクの着用は個人の判断に任せるとなっているにも関わらず、弊社社員は9割マスク着用のまま日々の業務にあたっている。マスクをつけたまま面接に臨む就活生もいるらしい。そもそも、弊社社長や会長はマスク嫌いで、マスクしたまま挨拶をしたりお客さんと会ったりすることを失礼と捉えている。おそらくこの意を受けた通達と思われるが、その中で「自己判断にも関わらず、皆さんは真面目なので頑なにマスクをつけている。あまりいい状況ではないので、外す場面を設ける」との説明があった。

既に読者諸姉諸兄の心の中には加速する思いがおありかと思う。自己判断だというのに会社が指示していいのか、着用のメリットに対して、非着用のメリットが希薄すぎないか、花粉症等でコロナと関係なくマスク着用を選ぶ人もいるのではないか。そもそも自席だけ外すなんて本当に、外すだけが目的の指示で意味不明だ、と。逆に、未だに9割の社員がマスクをつけている会社なんて古臭い、人と対面する時にマスクをつけないのは当然の礼儀、コロナはもう既に恐るべき対象ではないのだから意識を改めるべき、という向きもあるかと思う。ただ、俺が今回このトンチキな通達を引き合いに出したのは、「自己判断なのに一律に同じ行動をしているのは良くない」という言葉に引っかかったからだ。感染症とマスク、自己のリスク管理とマナーみたいな二項対立の中で異質な観念に思えた。反マスク派の人もよく言っていた気がするし、うちの会社もそういう人たちも、"自ら考えること"を非常に重んじているような。

"自ら考える"というのは詭弁というか、方便みたいなものだと思っている。多くの人間はあまり頭が良くなく、労働と娯楽で時間を消費している。人類の歴史の中で傑出した人々が、科学的、哲学的に、それぞれの到達地点を示しているから、凡庸たる我々がそれらのどれにも似よらない地点に辿り着くのは困難を極める。考えることだけに時間をかけている人たちに、片手間に思考する我々では敵わないのだ。自分一人で考えても、自分の持ち物以上の答えは出てこない。だから思考とは、基本的に他人の言葉で行うものであり、"自分で考える"というのはその練度を示すことになる。文章なら、俺は割とその練度が表れてくると思っているが、単にマスクを着ける/着けない程度のことで、"自分で考えている"かどうかはなかなか測れないのではないか。そもそも、弊社は失敗に厳しいと思う。口ではリスクを恐れずにチャレンジしろと言うが、実際に失敗してみると、そのリカバリーについて、業務的にも精神的にも全然サポートしようとしないし、本人だけが追い詰められていくのをよく見てきたし、俺もそうした経験はある。だから、弊社は社員たちが"自分で考えていない"のを憂いているが、そういう人間だけが弊社に残ったか、弊社にいるうちにそうなっていったと考える方が妥当である。弊社としては、そうした"追い詰められ"も含めなリスクを背負って仕事に挑む気骨のある社員を求めているようだが、いまの給料では割に合わないだろう。だいいち、弊社の規則やシステム、社風自体がそうした自発的な人材にフィットしていない("自分で考えていない"社員にあわせて作られているから当たり前なのだが)から、そういう人はさっさと転職している印象がある。マスクを外さないのだって、仮にコロナに罹って、マスクもせずにほっつき歩いてたと批判されたら困るからという、極めて自主的な判断によるものだろう。

ただ、この、リスクをとって動いて欲しいという要望はわかる。というか、リスクをとった先にしか成果物がないような時代な気もする。どんどん価値観が変容し、今までやってきたことが通じなくなってきた時には、新しい島へ飛び移らなければならなず、それができないと沈むだけだ。だから、弊社としては、リスクをとって自分で進む人材が必要なのはよくわかる、し、そのようなことはいろんな会社の求人に書かれてる。

まあ、それを差し引いても意味わからん通達だったな・・・結局指示してるし・・・