「幸せになってほしい」

くもり。少し暑いです。こんばんは、柊宇咲です。

 

「いつか幸せになってほしい」とか「最後には幸せになれるよ」というのを女性から言われるのがめちゃくちゃ嫌いである。普通はそんなこと言われることがそもそもないのであるが、俺は特有の歪んだ性格から人よりその機会が多かったように思う。俺は生まれてからいままで人間にモテたことがない。女の子に告白した回数はそう多くないが、ほとんど失敗している。また、告白する前から向こうに彼氏がいたり、なんとなくNOを突きつけられたりすることもある。そんな時によく言われるのが最初の言葉だ。もちろん、基本的にはこの言葉に悪感情はなく好意を含んだものなこと、なるべく穏便にその会話を 着地させるためのパラシュート的な役割を持っていることは理解しているつもりだが、そうした理性的な理解に先駆けて反射的に感情が沸き出してしまう。

これには俺が異性関係でうまくいかなかった際に、「友人ならいいが恋愛には至らない」という旨の通達を頻繁に受けたことが遠因にある。実際のところ、俺が友人関係を経ずに好きになった相手というのはまずいなかったし、その間は良き友人として過ごしていたと思っている。恋愛巧者たるあなたは、短期決戦をしかけずダラリと時間を空費した俺をを責めるだろうが、そもそも短期では気持ちもそこまで盛り上がらない性分なのだから仕方ない。友人としての交流は仲良く営まれていたのだから、やはりここにも悪感情はない。つまり、好意はあるが、性愛には至らないという性質を俺が持っているということだ。そういう自覚のある人間に対しての「幸せになりますよ」がどういう響き方をするか想像できるだろうか。「何を根拠に?」と思う。貴女がその言葉に込めた無邪気な好意こそ問題なのではないのか?つまり「いつか幸せになってほしい」の後には「私ではない誰かとね」という言葉が秘されており、聞いてもいないのに再度、自分のみすぼらしさを思い知らされるような気分になるのだ。そうした、回収なき好意にやって失意をもたらされたということが全く理解されず、無邪気に副作用のある好意が飛んでくるのは辛いものだ。

 

と、いうような考えを数年前まで持っていた。先日、久しぶりに冒頭のセリフを言われたので、この歪な精神を思い出し、自家中毒感を懐かしく噛み締めていた。この鬱屈した気持ちをいま反芻してみると味わい深いものがある。血と肉と脂を強く感じるハイカロリーな思想で、無力感と怒りや悲しみがないまぜになったエモーショナルを感じる。強いシンパシーをもって染み込んでくる(シンパシーも何も自分の思考なので当たり前なのだが)。と同時に、こんな思想を抱えていては苦しみから解放されることは絶対にないな、とも思う。確かに、俺と女性を巡るいくつかの不運について、自身の分析が見当はずれだとは思わないし、それらの悲しみと無力感も身につまされるものがある(というか自分のことだが)。ただ、そうした苦しみを、友人関係に留まる異性に帰責するのはぶっちゃけ言いがかりにも程がある話で、晴らしようもない恨みを抱えるだけだ。当時の俺の最大のミスは、性愛における気持ちの不一致を、個人の持ち物の結果と考えていたことだ。性格や趣味嗜好、コミュニケーションの傾向など個人の持ち物が、関係の成就に影響するのだが、最も重要になるのは、たぶん"タイミング"とか"相性"みたいな、より運命論的な概念になるんだろうという気がしている。そうした、まさに人と人の出会いそのもののような偶然性が先にあり、それから個人の持ち物の話になっていくんじゃないか。どんな鍵でも、鍵穴の形に合っていない限りドアは開かないのである(より開きやすい鍵とか、開けやすい鍵穴というのはあるかもしれないから、個人の持ち物について無検討でいいということではないだろうが)。それに、当時の俺にしたって、じゃあもし目の前の女性が「そんなに一人が辛いなら私と幸せになりましょう!ほらすぐに!」と手を差し伸べてくれたなら誰でもついて行くのか?と問われればイエスとは言わないだろう。

ズレた間の悪さもそれも君のタイミング。

 

とまあ、こんなふうに大人な解釈をするようにはなったのだが、実は、それにしても「幸せになれる」とか言われるのはやはり気に入らないのである。昔は「そんならお前が付き合えやあ!」と思っていたが、最近は「お前に言われなくてもそうなったるわあ!」みたいなきもちである。やれやれ、来年には32になるというのに。