恐れを知らず進め←地球防衛軍6たのしみ

晴れ。暑いが暑すぎない。こんばんは、橋本愛です。

 

俺は若い頃は本当に社会を知らない男だった。友達は少ないし、女にも相手にされない、自分から人のいる場所に飛び込むようなこともしなかった。おまけに努力もあまりしたことがない。部活動はやっていたが、勝ち負けはどうでもよくて友達と遊んでいる程度の感覚しかなかったから一生懸命やって結果を勝ち取る喜びも敗北する挫折も味わったことがない。受験勉強はそれなりにやったが、それでも死に物狂いで追い詰められてやったかと言われればそうでもない。自分ができるレベルのことをやって、それだけの結果で満足してきた人生だった。それでも届かなかったことは外界のせいにして改善する試みもしてこなかった。そのおかげで、他人を生き方や振る舞いを見ても、それを自分に引きつけて考えることができなかった。「俺ならこんなふうに感じるだろうな」→「だからこの人はすごいな」或いは「なのにこの人はよくないな」→「もしかしてこういう理由もあるかもしれないな」みたいな、他人を慮る機序めいたものがなく、本から身につけた理屈と正論を強烈な自意識で練り上げた厄介な武器を振り回していた。

社会に出て、このままだとマジでヤバそうだという危機意識のもと、人と積極的に会うようにして、うまくいかずに失敗する経験を積んだり、労働を通してさまざまな課題、トラブル、考え方に触れて少しずつ自意識を解体したりの結果、世界の解釈もずいぶんと変わったように感じている。世界の解釈には経験と論理の両輪が必要だ。「とにかく価値のある経験をしよう!」みたいな意識の高い若者もいるが、アホがどんな経験をしてもただ思い出が増えるだけである。だのに経験というものがなまじ再現性が低くかつ共有不可能なだけに、そこへ依存してとにかく経験を論拠に世界の解釈を行おうとする。経験は確かに重要な示唆を与えることもあるが、ひとつの経験の中にはあまりに多くの要素が混在しており、その抽出を行う知識なしには危険な代物である。かといって知識や論理に固執すると、他人と生きる世界に馴染まなくなる。人間が持つひどく曖昧で不安定な部分を等閑視してしまい、かえって非合理的な結論に辿り着く羽目になりがちである。

話が脱線したが、年齢を重ねるにつれ、自分の精神の持ち物が増え、世界の解釈が変わっていくことは誰しも感じることかと思う。先日甲子園を見ていた。そもそも俺はスポーツ観戦にはほとんど興味がないのだけど、さらに高校野球となると、学校で野球部連中がブイブイ言わせてるのが気に入らなかったので、そんな連中にスポットが当たるのが許せなくて全く見ていなかった。今回、甲子園を目にしたのもランチで入ったお店でついていたからにすぎないのだが、近江と高松商の試合だったか、どっちのピッチャーか覚えてないが、山田くんという子の球が、何度投げても上へ伸びてしまっていた。一緒に食事していた元高校球児は「体が開きすぎている。おまけに足もつっているみたいで踏ん張りが効いてない」と生意気にも解説してくれた。そう思ってみると山田くんは右足を庇うような仕草が多く、顔も苦悶に歪んでいるように見える。俺は、初めて高校球児たちに(可哀想だ、、、)と感じた。これまで浮かんだことのない感情だった。炎天下の中、体を痛めながら、1円も実りにならない野球を、ただ思い出作りのためにやっている。こんなことは間違っているんじゃないか。そんなふうに思った。これは前述の通り、俺が部活というものに対して一切責任の思い入れがなく、ただの趣味にすぎないと思っているから思うことであり、球児たちにとってはまさにあの瞬間こそが人生なのだというのは理解できないこともない。それに彼らの恐るべき若さは、灼熱も体の痛みも跳ね除けるパワーを持っているのであろうこともわかるが、、、、とにかく、高校球児が美しいか可哀想かは置いておいて、俺としてはそれまで考えたこともない感想が浮かんだことだった。

似たようなことをアイドルに、とりわけ最近気になるtwiceちゃんについても思う。幼い頃から友達とも遊ばず歌にダンスに語学にと鍛え上げられ、さらに厳しいオーディションをも突破した彼女たちは、芸能活動における一流のソルジャー、プロフェッショナル、スペシャリストと言える存在なのだと思う。彼女たちのパフォーマンス、膨大な量の音源リリース、対面・web配信をあわせたファンイベント等を見るにつけ、彼女たちが過酷な努力をどれだけ重ね、強烈なストレスをどれだけ耐えてきたのか想像するに余りあるという感慨が湧く。こうした感慨ともかつては無縁だった。歌って踊ってチヤホヤされてええ身分でんな、ぐらいに思っていたのだ。そうした勘違いは、自分自身が労働をするようになってわかる。彼女たちもまた自分と同じ労働者であること、さらに言えば客商売であること。客はありがたい糧であると同時に悲しみや怒りを連れてくる存在であることを俺は知っている。それが世界中に、信じられない数の、しかも熱狂的なそれがいるとなればそのプレッシャーたるや考えただけでも身震いがする。自分がtwiceじゃなくてよかったと思うことさえある(?)twiceのメンバーには致命的なほどのストーカーも多くいると聞く。それでも人前にたち、ファンに愛嬌を振り撒かなければならない。そりゃ不安障害にもなったりするだろう。それだけ全力で取り組んでいるアイドル活動も、きっとそう遠くないうちに終わりを迎えることになる。少女時代の久しぶりの活動再開が話題になっているが、既存ファンへのスポット的なイベントに過ぎない。その儚さもまたアイドルグループに対する複雑な感情を惹起する。twiceが時代をリードできなくなった時、彼女たちはどうやって生きていくのだろうか。ステージの上でしか生きてこなかった彼女たちの人生を思って頭を抱えることもある(やばい)が、よく考えたらもう俺の生涯賃金以上に稼いでおり、好きなことして暮らしていけるのかもしれないなと考えたら前向きな気持ちになった。

それでも、彼女たちは、きっと彼女を知る人間が死に絶えるまで、twiceであり続けなければならないんだろう。俺みたいな凡人は、すぐに別人になれる。そもそも何者でもないわたしは、何者かである必要がないし求められてもいない。だがアイドルは、いつも"その者"であり続けなければならない。それはどんな気持ちなのだろう。何者でもない快楽に浸かっている我々にはもはや想像だにできない世界である。

 

終わる前から終わったことを想像するのは日陰者の所業だとつくづく感じる。終わることが怖いから始められない。始まった今を楽しんでいても、ああこれがいつかは終わるのだと陰鬱になったりする。しかしそうした姿勢は生きることに反していると感じる。真横に一直線に移動はできない。なんとなく浮いたり落ちたりを繰り返して我々は人生を滑空していく。真の平穏は死でしか達成され得ないからして、終わっては始めることを繰り返して生きていくよりない。終わることを恐れるのは生きることを恐れること。思えば足を引き摺りながらボールを投げる山田くんだって、自身の野球人生が終わることを覚悟してあそかにいたはずだ。悔いというのは必ず呪いになるから、悔いなく生きるためには恐れず終われることが必要なのかもしれないなあ。