たとえば、愛とか友とか。

晴れ。ぎりぎり寒い。こんばんは、古川琴音です。

先日の日記しかり、都度、幸福について、「幸せとは平穏」「何も起こらないことが喜び」というようなことを書いているが、こんな不安が俺の中に芽生えた。(こいつ生きてて楽しいことないのかな、、)とか、(そんなに人といるの嫌いなんか、、)とか思われたらどうしよう。俺は別に仙人になりたいわけではない。生きる中で楽しみにしていること、気持ちが高揚することはある。たとえば美味しいご飯を食べる時は、それまでの足取り軽く、食事の間はそれ以外のあるゆる思考は停止し、おいしさがもたらす陶酔にただただ浸っている。新しい洋服を着る時には、思い描いたスタイリングに対していかんせん太りすぎた自分にハニカミつつ、それに近づいたことに喜ぶし、出かけていてもチラチラと自らの新しい服を見つめたりする。ディズニーのショーを見る時は期待と興奮で胸がいっぱいになり、頭の中にある苦いものが溶けていき、淡い暖色に満ちていくのを感じる。ただし、これらの喜びは無償ではない。美味しいものを食べるには辺鄙な駅へでかけたりお金を払ったりするし、服を買うのにもたいへんお金がかかる。ディズニーいくには片道1時間かかるし、体力も消耗する。どんな高揚も感動も、そこへ至るコストと比較衡量してから判断することになる。その結果、差し引き赤字になるようであればそうした行動も実施されることはなく、部屋で肉だまりとして横たわったまま時間が過ぎるのを噛み締めることになる。そこまでの高揚が見込めないのに行動を起こして、徒労に終わってクタクタのまま帰宅する、なんてことは何度もやってきた。何もせず横たわっている限り、人生には何も起こらない。楽しいこともないが苦しいこともない。全てが自分の支配下にあり、不快はない。「幸せとは平穏」というのは本心だが、それは楽しさとか高揚とか感動とかを意味するものではない。幸せとは喜びのことではない。喜びや楽しさは悲しみや怒りと表裏になっているが、俺が思う幸せはそのコインの上にはない。

そうは言っても、生とは空を飛ぶような、海を泳ぐようなもの。動かなければ落ちてゆく。上がるためには努力がいるし、それでもいつかは落ちてゆく。上がっては落ちての波形の軌跡を描きながら前へ前へ進んでゆく。その過程では喜びと悲しみが、愛と憎しみが表裏になったコインを投げ続けていかなければならないんだろう。

もっとも、先に書いた、自分完結できるような行動は、苦しい現実からの逃避効果が薄めなだけに、コストも小さく実行しやすい。こうした小さな幸福を、ヘンゼルとグレーテルのように少しずつ拾い集めて過ごしていくのが個人的には無難な生き方で気に入っている。より大きな高揚にはより大きな落胆がつきまとう。これこそが俺に「幸せとは平穏」と叫ばせるものであるのだが、それはまた違う時に書こう。