虚飾と芸能のあいだ

曇り。うーんシャキッとしない。こんばんは、樫野有香です。

 

先日、加齢によってものの見方、ことにアイドルの見方が変わったという話を書いた。その続きを少し書く。具体的には、そのパフォーマンスの見方が変わった。若い頃、それころ10代の頃というのは、ライブパフォーマンスというのは可能な限りその場で行うべきだと考えていた。具体的には、ダンス(があるなら)はもちろん、演奏、歌唱も全てその場で行われるべきだと思っていた。収録音源に合わせて踊るだけなんてお遊戯会にすぎないと。この考えが矯正されたのはやはりディズニーだ。ディズニーのショーで生歌が披露されるのは滅多にない。コロナ前のBBB、イッツ・クリスマスタイム、フェスティバル・オブ・ミスティークなどでは見られるものの、それはレギュラー的なものではなくむしろ生歌であることを売りにしたイベントだった。ディズニーショーの音源は基本的に、セリフを含めて全て収録であり、音楽にのせて踊ったり合間に演技したりする"だけ"のものである。そこで俺は、ライブパフォーマンスというのは音のみにあらずと学んだ。仮に音源は収録であっても、スペクタクルの強度が十分にあれば観客を感動させることができると。だから昔は気になっていたリップシンクも、ミッキーが歌って踊っていると思えばなんの不自然もないし、むしろ踊りながらも生歌的な気配を感じるとすげーことしてる!!!!とさえ思うようになった。思えば、SPEEDやEXILEが、ボーカル以外にダンサーを抱えているのも10数年越しにようやく理解できたのである。スペクタクルの強度を上げることはライブパフォーマンスにおいて極めて重要であり、ここを等閑にしてしまうと本当にカラオケ大会になってしまう(=音源の強度だけで世界観を作る必要がある)わけだ。

そういうスペクタクル的な演出を、ハッタリと見るかショーとして捉えるかはその人間の美的感受性に依るだろう。ひとりよがりな"本質主義"みたいな感性は、ナルシズムに酔いしれる喜びはあるものの、いよいよ自分をそこまで愛せなくなってくると、あまり実りをもたらさない厄介な荷物になるような気もする。30を過ぎ、ようやく色んな世界を肯定的に受け止め始めたことを、個人的には喜ばしく思っているのである。