中島敦によろしく

晴れ。久しぶりの晴天か?そろそろジーパンを履けない気温になってきた。こんばんは、柏木由紀です。

 

さて、引き続き破竹の勢いで人気を伸ばしている壱百満天原サロメ嬢であるが、雑談配信( https://youtu.be/TiAwdnuch0Q )の中で、彼女自身とおなじく不登校の人たちへのアドバイスを求められた際に(10代の若者が視聴者層にそれなりにいることに驚くが)(むしろ俺のようなおじさんが見ていることが場違いなのか?)、「小中不登校で大学も金だけかけて中退と恥ずかしい人生を送ってきた私でも毎日楽しく生きているから大丈夫だ、ただし私の真似をしてはだめよ」と伝えていた。「こんな私でも大丈夫なのだからあなたもきっと大丈夫」という言い方は下から支える系のアドバイスとしてよくある表現ではあるが、果たしてそれはどこまで届くものなのだろうか。だいたい、「こんな私でも〜」的アドバイスが発生する場合は、質問者の視点からすると、回答者の方が優位にいるように見えている。質問者がいま持っておらずかつ希求している何かを、回答者が持っているから、アドバイスを賜りたいわけである。そこにきて、「こんなダメな私でも大丈夫だから」と言われても別に何も参考にならない。そもそも貴方は十分素敵な人間ではないか。サロメ嬢はVtuberとして活動スタートから3週間で登録者数は120万人を突破、その声や言葉のセンスで、既に散々こすられたコンテンツのはずのバイオ実況でファンを掴んだ。もちろん、Vtuberとしてのアバターはじめ然るべき準備はあったにせよ、驚異的な進捗であり、誰にでもできることではない、彼女の実力だろう。それによって彼女はおそらくこの先、いやもうすでに莫大な収益をあげているだろうし、一般庶民とは隔絶した世界へ行くのも遠くないだろう。どこが「こんな私でも大丈夫」なのか。こちらからしたら「貴女ではないから大丈夫ではない」のだ。一応言っておくが、俺は現時点ではサロメ嬢のファンなので彼女を非難するつもりは全くない。「こんな私でも〜」というのは心から言っているのだろうし、「Vtuberを始めて多くの人に応援をもらえて、これまでの苦しかった人生を取り返しているようだ」と言っていたのも本心なのだろう。彼女とて、こんなに凄まじい実績を叩き出すとは思っておらず、時代と運に恵まれた部分は多分にあるのだろう。配信自体はたぶんこれまでもやってきてキャリアはあるものと思うが、それでもこの成功は彼女の人生そのものと地続きになってはおらず、降って湧いた好機、誰にでも起こるわけではない奇跡の類だと思う。

別に彼女が分相応だとかそういうことを言いたいのでもない。つくづく彼女の実力だと思う。この記事の本題は、それでも俺たち多くの凡人は、いろんな機能不全を抱えたまま、偶然の成功も才能の発揮も、なにも叶うことなく人生を進めなければならないということだ。昨今はくだらないポリコレの台頭により、あの憎きお触れ、最悪の通行証、川崎の吐瀉物より醜悪であるところの"人それぞれ"という観念が幅を利かせており、その人にはその人の良さがあるとか、力を活かせる場所で輝こう的な甘言が蔓延っている。たしかに、いまは昔よりも金稼ぎの手段は豊富にあり、様々なニーズに対してアプローチできる。ビジネスの形は多様化し、何に金を払うかも実に様々。人間は掃いて捨てるほど数がいるので、ほんの数%の人間の心さえ掴めば大富豪になるチャンスもある(サロメ嬢のチャンネル登録者数は123万人(6/12現在)、これは日本の人口の0.98%にあたり、青森県の総人口にほぼ等しい)。それに我々は、親しい友人に抱く素朴な感情として、誰でも変え難い良さを持っていることをうっすらと了解している。しかしながら、ではその変え難い良さをお金に変換しようとしても、並大抵のことではない。お金が発生するフォーマットに当て込むことが大変だし、そもそもちょっとやそっとの個性では人は金を出さない。だから我々は、持っているであろう個性とか才能は別にして、いたくもない会社に所属し、したくもない仕事をしてなけなしの金を得て日々を過ごしているのではないか(では起業をして新たなビジネスをつくるか?出来る人はやったらいいが、ビジネス、というか金稼ぎというのはセンスだと思う。バイタリティも必要かもしれない。金を稼ぐことが楽しく、またそういうアイデアが自然と出てくるような人、したいことを金儲けと接続できる人が起業したりするんだとつくづく思う)。サロメ嬢は、たまたま彼女が持っていた力と、現代の特殊なニーズ、特殊なフォーマットが噛み合ったことで成功したのであり、別に不登校であったこととかロクな人生を歩んでなかったこととかはどうでもいい。「こんな私」とは別の部分で成功に導かれたのであり、「こんな」部分だけが一緒でも他の人にしてみたら全然大丈夫ではないのである。恥を忍んで言うが、俺は自分の才能みたいなものを強烈に信じている。俺だけがそれを信じていたからこそ今日まで生きてこれたといってもいい。ただし、そこにはなんの具体性もない。歌がうまいとか足が速いとか計算がすごいとか服のセンスがいいとか、そのどれも自分に当てはまると思うものはない。ただただ漠然と「自分には才能がある」と言い続けているだけだ。自分はすごい、他とは違う、そう言い聞かせ続けているが、実際は無名の中小企業のいち社員に過ぎず、大した給料もなく、何かを趣味として生み出すわけでもなく、資本主義のルールに沿って消費を繰り返す愚鈍な豚にすぎない。おまけにこの豚ときたら、他人と愛想よく関係することもままならない。普通にしてたら他人の方から遠ざかってしまうような嫌味ったらしい性格のくせに、取り繕うような真似もできず、すぐに独りになって喚いている。しかし俺はこれら人生不全ともいえる事象を全て甘受しなければならない。それは俺が努力をしてこなかったからだ。手前が信じているらしい才能とやらを磨いてこなかったからだ。手札にないカードを信じすぎたからだ。おおその声は我が友李徴ではないか?まさしく『尊大な羞恥心と臆病な自尊心』である。山月記を読んだときに俺は震えが止まらなかった。この虎は俺のことだと。俺はいずれ、心を失い、月夜に吠える虎になり下がるのだと。おっと、気を抜くとすぐに自分語りを入ってしまう。努力をしなかったというのは俺なりの言い訳なのだが、別に努力をすれば報われるとは限らないのだから、努力の有無など本当はどうでもいい。どれだけ個性とか才能とかいうものを信じ、それを発揮してスーパースターになれるユートピアがどこかにあったのだとしても、多くの人間はそれに辿り着くことなく人生を終える。だから、不満足な人生を送ってきた人間が、ある時点において過去を肯定しうるような成功を収めた際に放たれる「こんな私でも」というのは、(どれだけそれが本心なのだとしても)引っ掛かりを覚えるのだ。果たしてそのシンデレラストーリーは、我々にとっての希望なのだろうか。わずか1時間の雑談配信で俺の月給以上のスパチャを受け取るような人間の成功が、誰の参考になるのだろうか。現実では、俺たちのぼんやりとした才能、曖昧な個性、本当に秀でているかもわからない長所、それらは誰にも見出されることもなく、それらとは全く無関係な労働へ出向く。だから俺たちは、"人それぞれ"な良さとか、"多様性"とか、"自分なりの"といったようなファッキンシットなひとりよがりを捨てて、社会をやらなければならない。俺が以前よりしつこく表現しているところではあるが、もはやここにきて、社会とは動詞なのだ。Just do society!

 

と、ここまでを昨日の夜に書き、あともうひとくだり!と思っていたのだが、一夜明けて読み返してみると、それまで見出されなかった才能を開花させて成功を収め、苦しんできた人生がようやく報われそうな人間の素朴な励ましに対して、「いや現実はそんな甘くないし、誰もが成功できるわけじゃないんでw」とケチをつける最悪な日記になってしまった。苦しんできた人間がふとしたきっかけでそこから抜け出す、本当に素晴らしいと思う。願わくば全ての人にそのような福音が訪れてほしいし、山月記の李徴よろしく虎になってしまうような人間がいなくなってほしいと思っている。恥かきついでにもう一つ話しておくと、俺は学費の高い私立大学を卒業した。おまけに東京での一人暮らし、両親には4年間、莫大なコストをかけさせた。だのに、その成果は平均年収程度の非上場企業の社員、大きく世に出ることもなく、6畳のアパートでぽつねんと生きている。東北の国公立大学を卒業して銀行員になり爆裂に稼いでいる実兄と比べるとひどくコスパの悪い息子になってしまった。ちなみに俺は弟もいるが、やはり国公立大学をでて一部上場企業に就職した。兄としても弟としても情けない限りと思っているが、俺が就職したての頃、母親からこんなことを言われたことがある。「あなたにはもっといい職場があるんじゃないか。今の会社はあなたの性分にあってない。もっとあなたの才能が発揮できて、イキイキとできるような場所があるはず。でも、それが何かと言われるとわからない。それを見つけてあげられなかったのは申し訳ないと思っている」と。申し訳ないと思っているのかあ、、、とかなり心に残っていて、いまも思い出すことがある。ただ反面、まぁ俺程度の生命力だと、これぐらいが分相応か?みたいな気分もある。うっかり人生に不満を持ってみたり、社会との違和を感じてみたりすると、そしてその行き先も自分の願いも見えないままにあっては、ここではないどこか、ここにいない誰かを求めて流浪することになる。それでどこかへ辿り着けばいいが、辿り着かなければ、そこが岩だろうと川だろうと腰を据えなければならないだろう。そして俺たちの多くは、金を貰えるだけの才能も熱意も、実は持ち合わせていない。ユートピアの蜃気楼を追いかけながら、足をつかむ砂の感触に向き合う日々を、今日も明日も送っていく。いつかここでよかったと言える日のために。