あでしゃ(ありがとう・出会いに・感謝)

晴れ。ベランダの水捌けがめちゃくちゃ悪く、雨が降るたびにベランダが池になる。こんばんは、吉岡・・・・・里帆です。

 

今週は業務的にはやや軽く、それまでやっていた若い子の子守りを上司が引き受けたので、俺はスタコラと帰る日々である。ところで、昨日は会社の別の後輩の女の子(26)と同期(31)の三人で会食の機会を得た。この後輩は非常に社交的かつ活動的な若者で、人間性のあまりの違いにまぶしい思いであった。彼女曰く、休みの日は全て友達と遊ぶ予定があるそうだ。一人でいるのは寝る時だけでよくて、それ以外は常に友達と遊びたい。大学でも広い講義室の時は隣に座った人に声かけて友達をつくろうとしていたとのこと。彼女には「ひとりでいるより誰かといた方が楽しい」という素朴かつ強烈な信念があり、それを実行できるだけの交友関係があるということのようだ。「シフト制の友達は毎月休みを送ってくれる」「友達の家に泊まることも、自分の家に泊まることもよくある」とか言っていたし、ただ交友があるだけでなくちゃんと好かれているようでもある。

「ひとりでいるより誰かといた方が楽しい」というのはまぁ基本的にそうだとは思うが、ずっとそうであることは稀だ、というのが俺の考えるところである。他人といることで発生する空間はイレギュラーの連続であり、感情が起伏し、一種の緊張めいた意識が片隅にくすぶっている。これらが他人と過ごすことの楽しさや嬉しさを惹起する一方で、うっすらとした不安、警戒、緊張といった心の"構え"は疲労として少しずつ蓄積され、自分の中にある城壁のようなものが徐々に閉じられていくのを感じる。そうなるともう社会を継続できない。そこに在るのは無愛想で無配慮で、図体だけはでかいイノシシに過ぎず、空間を共にするのに値しない存在になりさがってしまう。他人といることはストレスなのだ。ここで言うストレスというのは極めてニュートラルな意味合いである。たとえば運動、ディズニー、レジャー、風呂、サウナ、全て楽しさや癒しを提供してくれるが、確かにそこにはストレスがある。というよりはストレス自体が楽しさや癒しを持ってやってくると言う方がいいケースもあるだろう。ストレスは必ずしも悪ではない。ストレス(stress)とは応力を意味する。物体に生じている力の大きさと方向を表現する概念であり、その成果(変形や破壊)を意味するものではない。ディズニーがいくら楽しくてもずっとはいられない。入浴は最高の気分にさせてくれるが長風呂は禁物。他人と空間を共にすることも然り、だ。

ただ、これはあくまで、俺のように自己中心的で他人との関係が下手、そのくせ繊細で不安定なメンタルという社会に向かないタイプにとってそうだ、ということであり、後輩女史にとっては、他人といることにかかるコストというのは非常に微細なものなのだろう。しかして、そこから得られるポジティブな結果は恐らく俺以上に得られるからして、こんなにコスパの良い営みは他にはないというわけだ。俺と彼女を分けているものはなにか?生まれ持った性格というのは簡単だが、そういうのは運命論に過ぎないのであまり好きではない。仮に性格であるとしても、具体的に"それ"を名指したいという欲求がある。いやはや、こういう、ひっかかった部分から前に進めないのも、何度もやってきた31年だなあ。