ひとり酒手酌酒

晴れ、涼しい。もっと寒くてもいい。こんばんは、田中芽衣です。

今週は、先週までの無間労働地獄からすると幾分か楽であり、心持ちも軽めである。自炊の余裕さえありそうだ(しないけど)。

4人以上の会食がしたい、という気持ちがある。飲み会といってもいい。もう随分とそういった時間をとっていないから、思い出が美化されているのかもしれないが、ああいった時間は、たしか、楽しかったような気がする。何を話していたかは覚えていないが、楽しかったという記憶はある。数多あった楽しくない飲み会を記憶から消してるのかもしれないが、俺自身はかれこれ1年以上してないし、各方面でこういった催し物が俄かに増えているのを見ると、よしオラもひとつやるだで!というモチベも上がってくるというものだ。

ところが、果たして本当に楽しかったか?いまやっても楽しめるか?という懸念もまたある。いまの俺はマジで酒が飲めない。ビール2杯くらいでグルグルである。元来、あまり酒に強くない性分なのを慣れと若さで補っていたのだが、酒から遠ざかったことですっかりアルコールの感覚が辛くなってしまい、若さも失ってしまって、飲酒に軽い抵抗を覚えるようになった。いやそれでも飲むけど、前のように腹の中がジャバジャバになるような飲み方はできなくなった。

さらなる懸念は、複数人がいる場で立ち回れるか?というところで、コミュニケーションに対して奥手な俺は、複数人で盛り上がる場においてはうまく輪に入れないことが多々ある。例えば4人で飲んだ時に、うち2人はお互いよく知った仲で、あと1人はそこと共通の友人がいる、俺はその3人とうっすら仲が良い、みたいなシチュエーションは最悪だ。絶対に輪に入れない。誰か1人が共通の友人の名前を出した瞬間、俺は、川崎の地から遥か遠く、成田の果てまで置き去りにされ、以後、続々とでてくる共通の話題で盛り上がる3人の声を聴きながら、机の木目を指でなぞる作業に従事することになる。これはツイッターにおける俺の立ち位置がまさにそうなっているのだが、そこここに仲良い人は散在するものの、ここのクラスタ(死語)でがっつり肩組んでやってます!といったグループはない。これは俺に、ネットや現実を問わずグループ交際的な?営みにおけるコミュニケーションスキル(例えば、先の例で言えば、3人の共通のコミュニティについて話を聞いてそこに参画しようとするとか、共通の話題がなくても場を繋げるような当たり障りなくかつ快活なトークをするとか)が足りていないこともあるし、そういう繋がりを窮屈に思ってしまって、自ずと距離をとるのもあるのかもしれない(←これは少し怪しいところで、スキルがないからこう感じているのか、こう感じるからスキルが育たないのか、みたいな循環はあるかもしれない)。友達とみんなで集まってイエイ!みたいな写真は俺のカメラロールにはほとんどないし、人生を通してもそういう場にいたことはほとんどない。会社の同期で集まってた2〜3年前の頃はそういう機会もあったが、各人の結婚や出産に伴い、それも無くなってしまった。過去を振り返っても、中学の頃、高校の頃、大学の頃によく集まった仲間、今も仲良くする仲間、そういうのはほとんどいない。暗い世界のいろんなところに友達という明かりが点々と灯り、俺はその微かな光を渡り歩く羽虫。それらの光が道になり居場所になることはあまりないし、彼らはまた彼らで別の強いコミュニティを持っていたりする。誰と仲が悪いわけでもないが、「あいつ呼ぼうぜ」とはならないのが俺である(急に呼ばれてもあまり行かないのでやっぱりそういう性格が問題なのかもしれない)

なんだか薄ら悲しい話になってきたが、これは飲み会の話であった。ここ5年くらいは、点々と灯るそうした光の明るさや温かさに感謝するという気持ちが本当に強い。こんな偏屈と仲良くしてくれてありがとう、という気持ちである。それと、自分にはできない他人との関わりを上手にこなす人々を敬う気持ちも芽生えてきた。今から、人の輪の中心で輝くような存在にはなりようもないので別にいいのだが、それならそれなりの処世術があるはずで、それが自分の欲求とマッチしない場合の落とし所を探る日々なのである。会社の子に声かけてみよっかな。