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晴れ。さむいけどまだまだいける。こんばんは、テレビ東京アナウンサー田中瞳です。

また同年代の人間に子供ができた。今年は、同い年の友人3人が一気に父親になり、職場でも同年代の女性が妊娠、兄貴(4つ上)の娘も生まれたベビー・ラッシュ・イヤーであった。最後のダメ押しで、一つ下の後輩が妊娠したのを知ったのが今日。ツイッターをみていても、30歳前後のフォロワーはここ何年かでどんどん母親、父親になっているようだし、ライフステージが変わってきているのを日々実感す・・・おっと、変わっているのは周りであり俺ではないのだった。

周りの人間が、結婚・出産と新たな世界を拓いていくなか、独身でい続けるときに発生する焦燥や寂寥については今更言うまでもないことではあるが、これはいったいなんなのだろうか。私の人生にはなんの関係もないことであるはずなのに、不思議と胸がざわつくではないか?

ひとつには、単純にスケジュールが合わなくなるので、その友達と一緒にいられる時間が減ってしまうことを考えてしまう。仕事終わりに、暇な休日に、お互いにしんどかった時の慰めにと時間を分け合ってきた思い出がこれから先にはつくれないかもしれないと思うとやはり残念な気持ちになるものだ。俺なんかは特に友達が少ないので、身軽な友人がひとり減ることで受けるダメージは他の人よりも大きいかも知れない。

遊ぶ友達が減る以上に我々の心を揺するのは、わたし自身が持つ、過去への疑念と未来への不安だ。人間は社会的な動物であるからして、独立独歩、わたしはわたしの道を行くというのは簡単なことではない。誰もが、自分の進む先が幸せか絶望かわからないまま生きていくなかで、周りと同じであることは大きな支えになる。その道が誤りであったり、正しかったとしても障壁があったりしたとき、味方がいれば協力しあえるし、転んで擦りむいても慰め合えるというものだ。反対に、自分が、周囲とは異なるベクトルを示し始めるときには、寄る辺なく漂う落ち葉のような孤独さではないか。おまけに周りは、結婚したて、出産したてということもあり幸せそうに見えるではないか。幸せな現在に至った周囲の人間とは別の方向へ向かったわたしは、まだみぬ未来の不確定性に怯えるばかりである。

この不安は、わたしの過去を起源として、わたしの未来へ向かって照射される不安である。"いま"のわたしは、過去のわたしがくだした選択の堆積物であり、未来のわたしは"いま"のわたしのそれである。過去がわたしを"いま"へと導いたならば、"いま"がわたしをどこへ導くのか、その、あまりにも判然とした未来について思い至らずにはおれないわけだ。同時に、あり得たかもしれない"いま"についても考えてしまう。即ち、過去の選択如何によっては、ふにゃふにゃと泣きそうな赤子に微笑みかける"いま"があったかも知れない、目の前の彼女のように、と。

「いや、そんなことはない。あなたは彼女ではないのだから」という御仁もいるだろう。「他人と幸せが自分の幸せとは限らない。自分に合った幸せを見つけよう」という御仁もいるだろう。自分で言っておいてなんだが、「他者の"いま"がわたしに関係がない」なんてことはない。関係あるのだ。あなたの結婚もあなたの妊娠もあなたの失恋もあなたの成功も失敗も、わたしには関係あるのだ。そこの御仁、「わたしはわたし、あなたはあなた」とおっしゃる御仁よ、あなたとて、あなた1人で生きてきたわけではない。あなたの過去は他者との過去であり、わたしの"いま"はあなたとの"いま"、彼女の未来はまた、あり得るかもしれないあなたの未来だ。わたしと他者は、どうしようもない隔たりを抱えた存在同士でありながら、わたしはもはや分けきれないほどに他者であり、他者とて分けきれないほどわたしである。この両面性、決して届かないのに常にお互いに侵入しあっていることを受け止めることが、間主観的に生きること、他者と生きること、社会をやっていくことなのだ。だから、他人のさまを見てわたしの過去を振り返り、また他人と生きていく未来を目指すのである。

幸いにも、未来は過去の堆積の延長である以上に"いま"の堆積でもある。さらに幸いなことに、もはや他者なしでは生きていけないわたしは、最後の切り札を持っている。意志だ。わたしの意志がジョーカーだ。わたしの意志は判断できる。"いま"と、その先のより良い未来を。意志を持って生きましょう、エーザイ