嫌いなところはたくさん言えるけど好きな理由は言えないみたいな感じ

晴れ。気温低くていい感じ。こんばんは、加藤順子です。

日曜から両親が上京しており、俺の職場近くのホテルに宿泊していた。出勤に都合がいいので俺も泊まらせてもらって、一昨日と昨日は両親と過ごした。通勤電車に乗らなくていいことと、広くて綺麗な部屋とお風呂で過ごせるのはたいへん結構だが、絶対に朝食を食べたい両親に合わせて、普段よりも早起きになるので良し悪しである。

アナ雪2の記事を書きながら、トイストーリー4のことを思い出していた。どちらも、前作からの大きな変化が描かれる続編でかつ現代的な価値観に沿うように調整された作品だったのだけど、もう一つ共通点があった。それは、エルサもウッディも「内なる声」を聴くという点だ。アナ雪2については、エルサを呼ぶ声は母親のものでもあるが、ダークシーへ向かうあたりで、エルサは「私はこのため(ルーツを探るため→精霊として覚醒するため)に生まれてきた」とまで言っているので、なんだかよくわからないが導かれるまま行ったらそうなった、というよりは自らの強い意志でその行動を起こしたとみるべきだろう。ウッディについては、「内なる声」従った結果、フォーキーを見守ったり、ボーを助けたりした挙句、ボニーから離れることを選んだ。ふたりとも、「なぜか分からないがそうしなければならない気がする」みたいなモチベで行動するのだけど、なんか、それってずるくない?と思ったりした。それがアリならなんでもありやん。キャラの設定とかいらんやん、って感じがする。

ただ、何度も言うように、いまのディズニーの使命は、新しいおとぎ話をつくること、新たな規範をつくることにある。「何故そうするのか」を説明するということは、裏を返せば「理由がなければそれはしなくていい」ことでもある。根拠というのは支えであるが、支えとは弱点でもある。そのことが大事であれば大事であるほど、根拠というのは無い方がいいことがある。新しい物語を作り出すために、既存の価値観を下敷きにはできないのだ。だから、新しい物語をスタートさせる、その本当に最初のところだけは、根拠をつけるわけにはいかないのである。これを古い物語に置き換えるならば、「不幸な美女がいつも王子様に見そめられるのは何故?」「女性はいつも助けられる側なのは何故?」のような問いがされることに近いのではないか。もちろん、そこには文化的な背景、社会的な背景があるのは当然だが、それは結局のところ「そういうことになっているから」でしかないのだと思う。現代には現代の文化的、社会的な背景があり、その要請に応じた「そういうことになっているもの」が必要なのだと思う。それは理解するものの、やはりどうも説教臭く感じてしまうところもある我々は、時代の間で揺れ動く、、、、あのほら、、あれだよ、あれ。