Ukjent reise

晴れのち雨。だいぶ涼しくなった。こんばんは、雪だるまつく郎です。

アナ雪2、いかがでしたでしょうか(?)。おもしろかったですねー。しかし、この映画、前作以上に一筋縄ではいかない深みがある。先に言っておくが、この感想記事は以下の記事を下敷きにしている。

https://ikyosuke.hatenablog.com/entry/2019/11/24/024937?_ga=2.51613097.1651163840.1574519652-1200648302.1574519652

アナ雪2の公開当時に書かれたもので、「考察する」とはこういうことを言うなのだとつくづく恐れ入った。なので、この記事を読んでもらえば、ここから先を読む必要はないのだが、このブログは考察の場ではなく俺の言葉で好きなことを書く場なので、感想文として書いていく。また、当感想文を書くのに際し、上記記事を再度参照することはしていないし、以下に引用することもない。

 

さて、前回のアナ雪1の記事の最後に書いた件の答え合わせからすると、アナ雪1に対して寄せられた批判は、「先住民族への敬意のなさ」であった。アナ雪1のオープニングとクライマックスに流れる、ナ-ナ-ナ-ヘイヤ-ナ-はスカンジナビア半島の土着文化に基づいた音楽であり、アナ雪1の舞台や衣装などは概ね、北ヨーロッパの民族文化を下敷きにしたものだったのだが、作中にはその文化の持ち主たるサーミ人らしきキャラは登場しなかった。つまり、一種の"文化盗用"、少数民族の"排除"、いわゆるホワイトウォッシングが行われたという解釈だ。結論をさっさと言うと、ディズニーは自分たちの認識の甘さとか土着文化に対する理解度の低さ、(意図したか否かに関わらず)上記のよう白人中心主義的な過ちを起こしたことを認めた。これがアナ雪2という作品の前提であり、この作品が成し遂げようとしたことの端緒だ。

アナ雪2では、エルサ一行は謎の声に導かれ、魔法の森にたどり着く。そこでは、魔法と精霊を信じるノーサルドラと、鉄の鎧と剣で武装したアレンデールの兵士たちがいつ終わるとも知らない戦いを繰り広げていた。この戦いの発端は、エルサたちの祖父がノーサルドラに対して起こした裏切りによるものだった。

主人公側に完全に非がある展開というのは珍しい、というか滅多にない。ディズニーにおいて主人公は善の体現者なのだから、主人公に非があっては善をなすことが難しくなる。ところで、魔法の森は霧によって世界から隔絶されているわけだが、彼らは"何に"閉じ込められているのだろうか。作中では、争いに怒った精霊たちが閉じ込めたのだ、としているが、昨今のディズニーの事情や社会情勢の変化、なによりアナ雪2が作られた前提を鑑みるに、彼らを閉じ込めているのは、"先進国(となった人々)の過ち"そのものだ。アナ雪2は、エルサとアナ姉妹が自分たちのルーツを探るための冒険であり、ヴィランらしいヴィランは出てこないように見えるが、実際のところ、今作のヴィランはエルサとアナの祖父たるルナード国王とその過ち、つまり"過去そのもの"がヴィランなのだ。"過去"を打倒・精算・贖罪することで"いま"から"未来"へ繋げること、それがアナ雪2の目標であり、アナが歌いあげる「いまできる正しいこと」の本質になっている。この贖うべき"過去"とは、ノーサルドラとアレンデールの対決の中でこれでもかと見せられる構図、つまり先住民族vs侵略者、魔法vs兵器、自然vs人工といった構図を通して(説教くさく感じるほどに)提示されているそれだ。単にルナードという一個人の弾圧や不義理ということではない。これはそのままディズニーとサーミ民族との関係、ディズニー自身が作り上げてきたプリンセス像や白人中心主義的世界観、ひいては、アメリカ人とインディアン、戦勝国とその植民地、白人と有色人種、男性と女性、すべての"理解なきマジョリティ"と"虐げられるマイノリティ"との関係まで敷衍されるだろう。つまり、前作では"わたし"と"あなた"の関係を学び直し、新たな自己像を互いに見出すことを成し遂げた姉妹は、この地球全てを巻き込んでいる大きな分断に立ち向かうことになってしまったわけだ。アナが洞穴から抜け出しながら歌う場面のあの凄まじい悲壮感も納得である。魔法の後ろ盾も友人の励ましもない、相手は"過去そのもの"。劇場で見ていても「いくらなんでも背負わせすぎだろう」と思っていたのだが、この2人でないとそれを負わせることはできなかったのだろう。

さて、アナ雪2の中で姉妹はどうやってこの大仕事を成し遂げたか。結果だけを言えば、弾圧と無理解の象徴であったダムを破壊することによって、だが、そこに至るまでの道程にもこの作品のメッセージがある。まず、エルサがアートハランに辿り着くことで、"過去"を確かめた。水の情報記憶というのは、インチキ科学とする人もいれば大真面目に主張する人もいて扱いがデリケートな部分もあるようなのだが、なかなかうまいことファンタジーに取り込んだものだ。ともかく、過去の集積所たるアートハランにて、エルサは自分を呼ぶ声が母親であったと確信し、自然と人間を繋ぐ第五の精霊として覚醒する(アア-アア-の声は、作中では母親のそれとして描かれるが、これは精霊である自分自身の本来の姿を取り戻すべく発せられたエルサ自身の声であるという見解もある。俺はどちらでもいいと思っており、大事なのはエルサ自身が望んで精霊となったことにある)。覚醒したエルサは突如、アートハランの中で凍結し、アナへ最後のメッセージを送る。アートハランでのこの一連の展開はほとんど超展開であり、全然意味がわからないし、実際多くの人がそれぞれ解釈をしているようであった。作中、①森にダムが造られたことで精霊の力が弱まっているというセリフがあることから、エルサは覚醒したことで人間から精霊になり、ダムの影響を受けたので力が弱まり、凍結したという説。②ルナードの行いに怒った精霊たちが罰としてエルサを凍らせた説。③アートハランがエルサを足止めした説。

ーーそもそも、アナ雪の世界で、何故人は凍るのか?凍った唯一の前例は、アナ雪1でのアナだ。アナは心にエルサの氷魔法を受けたことで体が凍ってしまうが、真実の愛がこれを溶かし、エルサもまた、愛を理解することでアレンデールを救った。アナ雪における愛とは、思慮と自己犠牲によって成り立つものだったわけだが、これによって氷が溶けるということは、凍ることはその逆だと考えられる。つまり、拒絶だ。エルサがアレンデールを凍らせた時は、妹への拒絶、女王という地位への拒絶、自分を苦しめる能力への拒絶が彼女を支配していた。その結果、アナを(つまり自分ではなく他人を)凍らせることになったわけだが、アートハランにおいても同様だとしたら?アートハランがアレンデールの人間であるエルサを拒絶した結果凍らせた?ーー

劇場で鑑賞した当時は、上記のような考察をしたのだが、何度か見るにつれ、あまりそういう整合性をとってるわけじゃないような気がしてきた(なら書くなよという感じだがまぁいいじゃないか)のと、別の可能性の方がこの作品のテーマに対して沿っていると感じたので、最近は③アートハランがエルサを足止めした説を推している。つまり、エルサを凍らせた目的は、エルサ自身ではなくアナにある。もちろんエルサが精霊として覚醒したことにも関係がある。それによって彼女は人間ではなくなった。魔法そのもの、自然そのものに近い存在へと変化してしまった。だから、アートハランはエルサを足止めした。過去を精算するのは人間でなければならないからだ。虐げられた側(今作でいえばノーサルドラや精霊、その眷属たるエルサ)が譲歩するのでなく、人間(=マジョリティ、オーソリティ)が自身の手で償うべき罪だからだ。自分のケツは自分で拭かなければ。だから、オラフに「何も持ってない」といわしめたアナが、ダムを壊すという贖罪の儀式、"正しいこと"を行わなければならなかったのだ。結果、ダムは壊され、洪水がアレンデールへ向かう。本当に贖罪というのであれば、ノーサルドラの犠牲の上に成り立つ国家など滅びてしまえという考えもあるのかも知らないが、そこは流石にディズニー、人間側(アナ)が罪を認め、新たな未来へ向かうならば、精霊側(エルサ)も力を貸しますよ、とばかりにゼルエルをびっくりなATフィールドを展開、精霊としての絶大な力を発揮して洪水を食い止めるエルサである。

最後に、アナ雪2が秋の物語であることに触れてまとめとしよう。前作アナ雪1は夏が冬になってしまうという話だったが、2では、紅葉によって、秋である(=季節が進んでいる)ことがかなり強調される。そしてオープニング後すぐに歌われる曲は「ずっと変わらないもの」である。この時点で、『この映画は"変化"について描きますよ』という宣言がされていることに気付くわけだが、実際、作中を通して多くの変化が起こる。アナは女王になり、クリストフは結婚して夫となり、エルサは精霊になる。ダムが壊されたことでノーサルドラの民は"解放"され、独立し、アレンデールと共存した。それでもアナとエルサとオラフは家族だし、その絆は変わらないままなんだよ、という、まぁアナの歌どおりになったわけだが、ここまでブログを読み進めたみんなは、この作品が表現している"変化"にはメタ的な意味が含まれていることをとっくに理解しているだろう。つまりそれは、差別主義者によって設立されたディズニーという世界の変化を宣言しているわけで、これはそのまま、アナ雪2を通して感じる説教くささに反映されている。「私たちは確かにかつて、多くの人びとを不当に扱い、傷つけてきました。それらを認めた上で、それでも私たちにできる正しいことを、これから精一杯してまいります。またそれが、世界のあらゆるところで営まれることを祈ります。これを見ているあなたにも。かしこ」という宣言、それがアナ雪2の最終目標なのだ。秋は美しい実りの季節である。実りとは新たな命へ向かうための準備であり、古い命が死へ向かう準備でもある。変わることは怖い、罪を認めることは辛い。それでも私たちは前へ進まないといけない。我々ができること、すべきことはそれだけなのだから。

 

 

 

 

 

と、まぁここで終わればかっこいいのだが、どうしても愚痴が言いたいのでここから先は余談である。上記の通り、アナ雪2が、サーミ文化の取り扱いについての批判を受けたことを端緒とし、欧米中心主義的な文化盗用や植民地的思想と、旧来の男女観に支えられたファンタジー世界からの脱却を目的としていることは誰の目にも明らかなのだが、俺にはエルサが、その"生贄"に見えてならない。これほどまで世界中に愛されたプリンセスをノーサルドラ(=自然、マイノリティ)に"捧げる"ことによって、パワーバランスを保とうとしたように見えてならないのだ。俺は、それはずるいと思う。そもそも、エルサが実はノーサルドラの精霊で、そのために生まれてきたとまで自負を持つのは後付け設定すぎる。それならアナ雪1のあの大団円はなんだったのか?エルサが自分の能力を受け入れ、国民も妹も愛し愛されるようになったあの時間はなんだったのか?ノーサルドラがエルサの本当の居場所であるのは何故なのか?魔法が使えるから?別にノーサルドラの人たちだって魔法は使えない。要するに、なんぼなんでもプロパガンダ味がすぎるのではなかろうか?マイノリティに敢えて大きな力を与え、マジョリティを矮小的に表現することで過去の素朴な差別表現を精算しようとするのは最近のポリコレしぐさではよくあることだし、既存の世界観を壊そうという営みなのだから説教くさくなるのもわからなくはない。商業的にも大成功、特別なプリンセスとなったこの2人を、そのために使役するのに我慢ならない気持ちがあるのは、正直なところなのである。トイストーリー4は何度かみるうちに肯定派になったが、アナ雪2については(もちろん見たら感動するし面白いんだけど)複雑な心境の吉宗なのであった。