松屋の牛焼ビビン丼大盛り710円は高すぎる

雨のち晴れ。久しぶりの大雨といった雰囲気。こんばんは、堀北真希です。

非常に忙しい。ワタワタと仕事をしている。大変だ。忙しい。ろくなもんじゃない。

いまは25,6歳?くらいの若手の女の子と同じ部隊で仕事をしているが、慣れない仕事が多く大変そうだ。同じ部隊とはいえ、やっている仕事は違うので、手伝えることもあるが手伝えないこともある。なんとか気張ってやっているようだが、心が折れないか心配ではある。半面、そういう責任感の強さはありがたいとも思う。いい歳してもロクに責任感もなく、自分が楽にこなせる範囲の仕事だけを適当にこなしてる社員も見受けられるなか、自分に与えられるべき量をしっかりこなそうという気概やよし、あとは自分のキャパと仕事量のバランスを把握してもらえれば結構かと思う。

ツイッターでは、「仕事なんか適当でいい」的な意見がまま見られるが、まぁそういうつもりでやってはいても、手を抜いたまま走り切るというのは大変である。ふつう、ひとりが手を抜くと、他の人間にしわ寄せがいくのでただそいつが使えない認定され、疎まれ、低い給与に甘んじていくだけなのだから、自分のやるべき量をこなしつつ、かつ手を抜くというのは要領の良さと機転が求められるので簡単にはいかないと感じる最近だ。俺だって適当にやってのらりくらりとやりたいが、結果がついてこなければ仕方ない。俺自身、別に仕事ができる方ではないので毎日あっぷあっぷである。学生時分(というか就職してからもしばらくはそうだったが)と、ここ数年では随分と労働観も変わってきた。以前は、労働なんてクソだと思いながら過ごしていたものだが、いまでは、本当にクソだという強い気持ちを持つに至った。前に書いたが、俺が持っている幸福観とは「苦しみがないこと」であり、「何かを成し遂げること」ではないからして、苦しみを生贄にしてひとつの成果を召喚する労働とはデッキ構成が異なっている。これは半ば冗談(半ば本気である)として、個人の瞬間的な安楽の最大化だけを求めるような、つまり、「苦しくない範囲でやればいい」「辛くなったら逃げればいい」「しんどいのはマネジメント側の責任」といったような言説についての違和感が芽生えたというのが大きい。実際、的外れなことを言っているわけではないが、これらの思想が束ねられた槍を職場に持ってこられると単に周りが迷惑するだけだからだ。要するに、当事者的な視点が持てる場面が増えたということだ。思いやりというのは、常に自分の苦しみを媒介してやってくるものなのだなあ(?)