今夜、真実の街角で

晴れ。いい感じの気温。もう少し冷えてくれてもいいです。こんばんは、Meltykiss食べ太郎です。

先週、本来休みの日に出張したので、今週は振替休日をとり3連休となる。その分、業務を行う時間が少なくなるので圧迫感のある週となった。結局、終わらせきれなくて、いくつかは上司に投げることになった。それでも俺が対応しないとならない業務は残るため、なかなか心休まらない日々である。年間休日110日を切っている俺でさえこんなに忙しいのに、世のサラリーマンはどうやって業務をこなしているのかと疑問に思うこともある。

晩御飯は、人形町にあるハシヤ系列のスパゲッティ屋さんにてスパゲッティをたべた。スパゲッティは好きである。そもそも、汁なしの麺類が好きであるからしてスパゲッティは概ね好きだ。特にハシヤ系は満足度が高く、味も気張らず濃いめで好きだ(ハシヤ系とはなにか?については各自ggられたし)。何を頼むかはいつも迷う。伝統のたらこ系は大好きだし、安心のミートソースもいい。醤油系もさっぱりと食べられて嬉しいし、クリームやトマトの王道も間違いない。今日は、冬季限定の牡蠣とホウレン草のトマトソースにした。牡蠣!たべたい!となったからなのだけど、牡蠣とトマト?と疑問符がないではない。トマト味と醤油バター味、クリームソースもあって、牡蠣といえばクリームという感じもしたのだけれど、クリームはホウレン草ではなくキノコだった。俺はソースに絡んだホウレン草も好きだし、ミートソース以外のトマトパスタを久しく食べてないなと思ったので、上記の品にしたのであった。牡蠣はとても立派でおいしかったし、トマトソースもフレッシュな美味しさがあった。うれしかったです。今日スパゲッティを食べたのは、最近、スパゲッティのお料理動画をよく見ているからで、特にレガーロの小倉シェフの動画をよく見ている。ブッタネスカやアラビアータなど、似たようなトマトソースでも、目指すべき味に応じた分量のバランスなどを細かく説明しつつ、手際良くパスタを作るさまを見ているとどうしようもなくトマトソースパスタが食べたくなっていたのであった。

ところで、お料理動画のコメント欄を見ていると、多くは作り手への賞賛なのだが、中にはお約束と言えるコメントもある。ひとつには衛生面についてのネガティブコメント。調理中に他なものを触るな、調理器具をその辺に置くな、とかまぁそういうのだ。別にお前が食うのじゃないのだから黙っていろという感じ。ふたつには、調理そのものへの意見。恐ろしいことに、プロの料理人の調理に対して意見をする素人というのは普通にいる。激ヤバでクソキモ、きっとさもしい人生を送っているんだろう。これら2種類のコメントも味わい深いものであるが、今回の関心事は、3種類めのコメント、即ち「○○の代わりに△△を使ってもいいですか?」とか「○○を〜〜な調理に変えても平気ですか?」とかいった、"答え探し"的なコメントにある。俺が思ったことを結論から言うと、そういうのは、絶対唯一の回答に向かう正しい筋道があるのではなくて、筋道に応じた結果があるだけであり、そのどれを選択するかにすぎない、と思っている。先に言うが俺は料理素人であり自炊もあまりしない、難しい料理は作れない。ただ、少ない自炊経験からしても、レシピ通りに作って甘すぎるのであれば砂糖を減らせば良い、味が薄いなら醤油を増やしたらいい、より濃厚にしたいなら勝手にバターを載せてもいい、ということはわかっている。冷静に考えたら当たり前のことだ。納豆の食べ方、餃子のタレ、酒とおつまみの取り合わせ、味の受け取り方は十人十色であるがゆえにそれぞれに良さがあるのは誰でもわかっている。レシピとは基本的に、最大公約数的なところを着地点とするしかない。調味料のバランスが異なっても、異なったなりの美味しさができあがり、それをどう受け取るかだけの話だ。これは、料理だけの具体的な話をしているわけではなく、たとえばファッションやメイクでもそう。スーツにGショックを合わせたかったらそうしたらいい、肌の色とチークの色の相性が悪い(と言われている)としても、その出来栄えに満足するならそうしたらいい。ひいては生き方そのものでさえ、そうなのかもしれないと思っている。だから、料理については素人な俺でも、広げた大風呂敷に包んでしまえと思って書いているわけだ。

これだけ、絶対的な正しさが疑問視されている時代、抽象的な概念であればみんな「多様性」とか「人それぞれ」とかいって相対化をはかる割に、具体的な営みとなると、途端に「唯一の回答」を探しにいかずにはおれない。現代人は孤独だ。あらゆる事柄について、あまりに筋道が多く、その先の回答が多いことを予感してしまっているが、それを吟味する余裕がない。繰り返しチャレンジする前に、新たな情報が私たちの関心を強奪し、興味を書き換え、吟味と検討のための余白を塗りつぶしていく。そうすると私たちはもはや、出来合いの「正しさ」の上を渡り歩く因幡の白兎になってしまう。人類が今までに経験したことがないほどの価値相対主義を生きる現代人たちに必要なのは、レトルトの「正しさ」を持ち帰るのではなく、あなた自身が「正しさ」の物差しをこしらえることだ。そのために必要なのは、あなたがしたことを、あなた自身が、(決して雑誌や動画の知識ではなく)あなたの心の鼓動〜EMO〜において、裁く必要がある。わかったらYouTubeにくだらないコメントをするな。とっても美味しそうです😋ぐらいにしておくんだ、いいな。