わたしがあなたと知り合えたことを、死ぬまで誇りにしたいから

雨、夜は冷える。こんばんは、チャン・グンソクです。

昨日は休日だったが、昼前に起きてご飯を食べ、夜までずっと寝ていた。夜にむくりと起きたのだが、なにやら人と話したくなったところにさおたすがスペースに付き合ってくれるというので、けっきょく3時間も話していた。お互いをよく知っている人と話すのは楽しい。この人間嫌いな俺でさえ楽しいのだから、前向きに社会を暮らしている諸姉諸兄においてはどれほど楽しいことか。渋谷が混むのも居酒屋が大繁盛してるらしいのも納得がいくというもの。ただ、人と話すのは好きだが、話すこと自体はあまり得意でないという人は多いようだ。かくいう俺も人と話すのはかなり不得手なほうで、学生時代や20代前半の頃は苦労した。スペースでも話したけれど、いま、騙し騙し話が出来るのは、特に20代前半の頃につとめて初対面の人と会い、話す訓練をしたからだ、と思っている。

会話には(というか、"表現"とされうるほとんど全ての営みには)、大きく二つの構成要素がある。"示す内容"と、その"語り"だ。これについては、当ブログのかなり初期の記事、ネタバレについての記事に書いてあるので参照されたいところだ。"話す内容"とその"語り"というのは分けて考えるべきもので、しかも、一見するとその内容が大事だと思えるようだが、実はその"語り"の方がずっと大事だ、というのが俺の考えるところである、し、実際のところ社会の大多数のコミュニケーションはそういう見方を支持していると思う。まどろっこしい言い方をしてしまったが、つまりこういうことだ。同じような話でも、話す人によって面白さは違うことはよくある。ということは、話が人の心に届くかどうかは、話す内容そのものよりも、その話し方の影響が大きいはずだ、というのは極めて素朴な感覚として認めてもらえるのではないか?

さて、話すのが苦手な人、話がつまらない人、会話が続かない人というのは、俺が思うに、"話す内容">"語り" になってしまっている(俺がそうなのだが)。ハタチそこそこの俺が、他人と関わるのが苦手で悩んでた(悩んでない)とき、よく口にしていたのが「何を話したらいいかわからない」だった。つまり、まず"話すべきこと"があり、それに"話すこと"が追従していく、というコミュニケーションを想定していたわけだ。これをやっていると他人との会話はできるようにならない、というのが最初に気付いたことだった。コミュニケーションの最初期では、そもそも"話すべきこと"などない。私たちは、"何を"以上に、"どのように" 話すかによって目の前の相手を好きか嫌いか分けていく。はじめっから"何を言ったか"が気になるほど思想を出してくるやつはだいたいロクでもないが、それでも、その方法次第では自身のパーソナリティを受け入れさせることもかなうだろう。何故といえば、そもそも、どんな人も、そんなに大した"内容"はもっていないからだ。聞いたこともないような話が飛び出すというのは単に経験の違いだけであって、一度聞いてしまえば、その内容自体は陳腐化する、びっくり箱みたいなものだ。コミュニケーションは、"内容"ではなく、その"伝達"のことを指すのだと前提しておくことが、俺が他人と関わる時に気にしていることだ。"何を投げるか"ではなく、"投げて、返ってくること"そのものが大事なのだと思う。

他人が怖い、コミュニケーションをとりたくないという気持ちが強い俺なのだが、それでは一生ひとりで彼女もできないので、約束を取り付けては初対面の人と会うようにした。20代前半の頃である。うまくいかないことだらけだったけど、その時に出会っていまも仲良くしている人もいるし、少なからず他人と話をするのも上手くなったので、やってよかったと思う。その時に意識していたのは、「こうなるとまずい」というシチュエーションを回避し続けることだった。具体的に言うと、"何を話すか"に囚われて会話が途切れ、次のきっかけを探すために虚空に視線をやる、あの時間が生まれることだ。あれだけはいけない。参考にしたのは、大学の同期の陽キャたちや、美容師さん、女の子同士の会話などだ。彼らが何を話しているかを聞いてみると、「何も話していない」ことに気付いた。聞きたくもないことを聞き、覚えてもらいたくもないことを話している。だがそれでいい。"伝達"がうまくいくならば。俺自身、特に脈絡もないことを聞かれたりしても、そんなに違和感を持ったりせず返答してることに気付き、なんでも前向きに話してみることの大事さに思い至ったのだった。

 

だいたい、なんでコミュニケーションにこんなに悩まないといけないのかといつも思う。自分はそんなに難しいことをしているのだろうか、と。俺が他人と関わるのが苦手なのは、ひとえに人見知りだからだが、人見知りの原因というのはよくわからない。俺はいったい何を恐れているのか(もちろん、他者と自分の間に横たわる絶望的断絶に、なのだが)。ただ、人見知りである自分を内省していくと、いくつか箇条書き的に心の声を拾うことができる。

・あなたに嫌われたくない

・あなたは私を傷つけるのではないだろうか

・彼、彼女は○○なところがある→私のことも○○かどうか判断されているはずだ

・何を話したらいいだろう(いつもの病だ)

・相手は私と話したくないのではないだろうか

・私は、愛されるだろうか(否、、、)

人見知りが発動してる時、俺の心はこれらの言葉が渦となり、壁となり、支配される。他者に対して臆病である、と言うこともできるが、それは単に言い換えただけで、何故か?には答えられていないようにも思う。自己愛が強い、と言うこともできるし別に否定もしないが、自己愛が強くて人見知りじゃない人もいると思うので根本的な原因だとは思えない。過去の失敗がトラウマティックに作用している面もあると思う。俺は中学のときに人間関係で少し手痛い目にあったことがあり、そのことを17,8年経った今も気にしている。

ただ、ツイートを通じて、またはツイキャス、スペースを通じて、俺という人間を多くの人に知ってもらう機会ができ、好意的な反応をもらえることもずいぶん増えた。俺の話やツイートを面白いと言ってもらえることについて、実を言うと本当に幸せに思っている。俺は友達が少なく、いつもひとりで遊んでいたし、恋愛経験も少なく、初体験もろくな捨て方をしていない。他人に好かれることの喜びを、ようやく感じられている。俺の親父も手を合わせてみんなにお礼を言うだろう。ウチの難しい息子を愛してくれてありがとう、と。「ツイッターごときで、ネットの薄い反応ごときで」ということもあるかと思うが、それを差し引いても俺には十分だ。ここ数年は、会社の同僚とのプライベートも充実してきており、他者と生きていくのもいいな、と思えるようになった。俺がシンエヴァが好きなのは、神経質な人間が行き着いた先が同じだったからだ。怖い、いやだ、傷つきたくない、あっちへ行って欲しい、それでも他者と生きていたい、というジレンマを抱えながら希望の方を向いて生きていくことの可能性を、俺自身が感じられるようになったからだ。あの歌が、エヴァと俺を繋ぐテーゼなんだ。

 

なんだか、ずいぶんエモい着地をしてしまったようだ。俺は別に、コミュニケーションの達人ではない、というかなんならめちゃくちゃ下手くそなので、そこを勘違いされると心苦しいのだけど、コミュニケーションをすることに対する意識は、そのまま他者と生きることへの意識とパラレルになっていることが、俺をSNSに駆り立てるんだなぁと思う最近であることよ。