『クラウド・アトラス』


「あなたには関係ないでしょ」と言う人がいる。そのときには既に「関係なくなっている」ことがほとんどだ。

出会いは、面と向かって初めまして、といったものだけでない。エレベーターや交差点、テレビやパソコンの画面など、数えきれないメディアを通して、我々は日々、数えきれない他者と出会い続けている。

他者との出会いは自分を改変し、また自分との出会いが他者を改変されていく。それは小さな口癖であったり、大きな価値観の転換だったりするけれど、その出会いが連なり、交わり、時には不思議な軌跡を描くことがあるようだ。


クラウド・アトラス』は、497年におよぶ出会いと別れの物語。

予告編はこちら。

この映画は、予告編がなんだかすごく魅力的だったので見ようと思っていたのだ。6分におよぶながーい予告編もあるけれど、ペ・ドゥナがCGもりもりのSF的世界の中にいるというだけで見る価値があると思う。韓国人俳優とSF世界のマッチングが好きなのかもしれない。『ナチュラル・シティ』や『リザレクション』なんかも、その韓国人俳優がCGもりもりの中にいるという映像が好きだった。ストーリーやその他演出は・・・まぁ・・・置いといて・・・


クラウド・アトラス』は、互いに干渉し、つながっていく6つのエピソードが同時並行で進行する。また各エピソードでは、同じ俳優が特殊メイクで様々な役に転じながら演じ続けるという一風変わった手法がとられている。まるで手塚治虫の漫画みたいだ。

監督は、マトリックスシリーズのウォシャウスキー姉弟(いつにの間にか兄弟から姉弟になったらしい)と、『ラン・ローラ・ラン』や『ザ・バンク』のトム・ティクヴァ。主演はトム・ハンクスハル・ベリーペ・ドゥナジム・スタージェスなどなど。

映画を構成する6つのエピソードは以下の通り。



①1849年、奴隷貿易のための船旅に同行した弁護士(ジム・スタージェス)の物語。船旅の中で奴隷制度への疑念を抱き、妻(ペ・ドゥナ)と共に解放運動へ身を投じる。


②1931年、作曲家志望の男娼(ベン・ウィショー)の物語。強欲な作曲家に雇われながら、自身の交響曲、【クラウド・アトラス六重奏】を書きあげる。その過程で雇い主の作曲家を殺してしまい、楽譜の完成後、自身も自殺する。


③1973年、とあるジャーナリスト(ハル・ベリー)の物語。石油会社の利権を守るために画策された原発爆破を知ったジャーナリストはこれを止めるために奔走する。その中で、石油会社が雇った殺し屋と対峙する。


④2012年、金に汚く、人たらしな編集者(ブロード・ベント)の物語。ひょんなことから大儲けするが、足元をすくわれて老人ホームへ入居させられる。そこで出会った老人たちと結託して、脱出劇を画策する。


⑤2144年、給仕用に生産されているクローン人間の一体、ソンミ451(ペ・ドゥナ)の物語。徹底した管理社会、階級社会の中で、レジスタンスのひとり(ジム・スタージェス)と出会い、知られざる真実を目の当たりにしたのち、革命のために世界中へ演説をする。


⑥2321年、文明が滅びて荒廃した地球で生きる男(トム・ハンクス)の物語。先祖帰りしたように原始的な暮らしを送る彼らのもとに、滅んだ文明の科学技術を使う一族のひとり(ハル・ベリー)がやってくる。今までの暮らしと、彼女から告げられる事実との間で揺れ動きながら、地球からの移住を決意する。

6つのエピソードは、アクションあり、コメディあり、SFあり、ヒューマンドラマありと多様なジャンルが盛り込まれている。その中でも、奴隷制度、階級社会、大企業といち私人など、強者と弱者のありようは様々だが、一貫して「弱者から強者への闘争」の構図がある。
いずれの章にも悪役が登場するが、それがヒュー・グラントヒューゴ・ウィーヴィング。特にヒューゴ・ウィービングの悪役顔ったらない!マトリックスエージェント・スミスで初めて見た俺にとって、ヒューゴ・ウィービングはもう何をやらせてもエージェントスミスなのだ。悪役、徹底した悪役!こいつが出てくるだけで、「あ、これが敵だな」と思うようになっている。この映画ではなんと女装までして悪い奴を演じ切ってくれている。

また同じ俳優が演じているキャラクターは、過去のキャラクターの転生であり、同じ魂を持つ人物として設定されている。たとえばジム・スタージェスペ・ドゥナは、1849年時点で出会っており、その後2144年で再び出会い、愛を育んでいる。
各エピソードは、登場キャラクターの転生の他にも、未来のエピソードの骨子となるようなイベントが盛り込まれていて、映画自体の時系列で見ると多くの伏線が仕込まれている。あまりに複雑なのでここでいちいち個別に見ていくことはしない。詳しくは本編をみてくれ。音楽もけっこういいし、ペ・ドゥナのヌードも見られるぞ。




ところで、タイトルのクラウド・アトラスというのは、エピソード②で登場する交響曲のタイトルなのだが、クラウド(cloud)は雲や群衆、より抽象的にいえば「もくもくとした大きな何か」を意味する。アトラス(atlas)は、語源は古代ギリシャの神の名だが、今日では世界地図を意味する単語になっている。

離れては結びつき、消えては現れ、様々に形を変えながら、空を漂う雲は、時代を超えて結びつく人々の魂、その信念や愛の象徴的表現として、予告編でもタイトルの背景に用いられている。

この作品は、6つのエピソードそれぞれに目的や筋道が設定されているものの、それらはてんでバラバラで、大きな一つの物語へ収斂していくわけではない。「弱者から強者への闘争」というのも、全編を通して観賞するならば、ある方便のように感じられるのだ。
映画本編は、エピソード⑥が終わった後、トム・ハンクスが子供たちへ聞かせる昔話として幕を開け、昔話が終わったところで終劇となる。
6つのエピソードからなるこの群像劇が示したものは、時空を超える愛や信念でも、魂が抱える人間の業でもない。もっと日常的で、しかし途方もないテーマについての映画だった。

つまり、人が生きること、即ち人と出会うこと、という現象の映画だった。


人と出会うことは、それ自体は極めてニュートラルである。そこを契機として、我々は常にどこかしらを改変し、更新しながら生きていくのだし、また他人にそれを強いるものでもある。
出会いはいつだって間主観的に行われる。私が出会うのでも、彼・彼女が出会うのでもなく、私と彼・彼女が互いに出会い、また出会われる相互作用の中で関係性が構築されていく。

またこうした間主観的な出会いは、当事者の望むと望まざるとにかかわらず、あまりにも受動的に、空から雨が降ることを止められないように訪れるものだ。
すれ違ったカップルの会話、おもむろにつけたテレビ番組、何の気なしに更新したSNS、そうしたものがいつ誰かに対して影響し、関係し、その人を変えていくことか。また、それが自分の番にまわってくることか。

それだけではない。「私は私の身体を生きる」のだ。私が生きている以上はそこにある一定の空間を、自身の身体を以て占有しているし、その様子(私が生きているありさま)は、感覚的にかつ直感的にとらえられている。
私がいる場所には誰もいられないし、また私はいつだって、だれもいない場所にしか存在できない。
身体がもつこの排他性自体、人が出会うことがもたらす改変と更新、改革、変容、進化、退化、その契機として認めるに十分ではないだろうか。


おっと、少し話がそれたけれど、我々は常に誰かれに対して情報を発信し続けており、一方で莫大な量の他者からの情報を受信し続けている。その双方向の営為を出会いと呼ぶならば、この現象が私やあなたの1分先、1年先を形作っていくにきまっているのだ。

ひとりの人間がひとりきりで生きていくことは不可能だ。それは生きることの根本的な排他性、個別具体性に裏付けられており、自己はたえず他者に侵入されているし、また他者も私に侵入されている。この相互浸透の中で、辛うじて我々は、自分自身の選択と信じる何事かを成し遂げることができる。


その手助けをしてくれるのが、愛や信念の力、信仰、友愛の尊い輝き、あるいは邪な傲慢、利己的な欲望であったりする。
クラウド・アトラス』では、ほうき星のアザをもったキャラクターが、各エピソードで登場する。彼らはみな、誰かとの間で育んだ愛や信念を糧に、強大な敵に立ち向かう。その中で多くの人と出会い、変革し、また自分自身を変えてきた。

それは我々にとっても同じことだ。自分が何かをすることで、誰かを変え、また同じように誰かに変えられ、それでも自己が、確かにそこにあるような顔をして、不断の選択と、開拓を繰り返しては日々を流れていく。それはいいことでも悪いことでもないし、意味や価値を付与しようとするものでもない。私たちはそうやって生きていく、という、現象にすぎない。


ああ、途方もない邂逅よ、私を支える無数の他者、そして私が支える無数の他者たち。善き世界で出会わんことを。