全ての子供達に、おめでとう シン・エヴァンゲリオン劇場版

※このブログは、ネタバレには一切配慮せず、読者が、既に旧劇および新劇エヴァをすべて見終えた前提で文章が書かれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エヴァを語るとき、大きく二つの方向性がある。

ひとつは、設定と世界観を深堀りする方向。膨大な専門用語が入り乱れ、説明不足のまま展開されていく事象について、どうしてそうなっているのかを考察する方向だ。

俺もこの手の考察は大好きだが、アニメだけでなく、インタビューや漫画、ゲーム、絵コンテなどの諸資料が必要になるため、専門のyoutuberさんたちに任せることにする。

 

今回は、もっぱら二つ目の方向、即ち物語が訴えんとしているテーマについて考える記事になる。とはいえ、どうしても設定や制作上の都合と抵触する部分もあり、俺自身が設定や制作事情を読み違え、結果として物語の解釈が異なっている場合もあるかもしれないので、適宜、目をつぶるなりつぶらないなりしてもらえたらいいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「他者」という語彙は、「他人」と同じではない。

 

辞書を引けば、おおむね「他人」と同じ意味内容が記載されているが、その運用は大きく異なる。

主に哲学の文脈では、他人と言うときには、単に自分と親密でない存在者、表層的なオブジェクトを目指すことが多い。

他者と言うときには、概して、わたしではないものを目指す。

世界の遥か彼方からやってきて、わたしと対峙する未知

わたしを対象化し、相対化する神

わたしを否定し、矮小化し、排斥する脅威

わたしを認め、信じ、愛する福音

わたしを定義する補助線

を目指して用いられる。この奥行きは話者によって異なるが、ともかく、「他人」のことではないのだ。

迂闊に「他者」を用いている人も見かけるが、「他人」と使い分けるとすれば、上記のように区別されるだろう。

 

 

 

エヴァンゲリオンの新劇場版シリーズが完結した。

セカイ系の金字塔、ロボアニメの異端児、中二病的語彙の大名行列、キャラ萌えの見本市・・・・様々な文脈で語られるエヴァであるが、本質には、旧劇から一貫して、わたしと他者の物語があった。

エヴァの中で語られる「他人」という言葉は、明らかに「他者」の意味内容をもって語られている。エヴァの場合、「他者」として指示されている人物が極めて具体的(シンジなら⇒ユイ、ゲンドウ、アスカなど)であるため、「他人」と呼んでも機能するのであるが、平坦な語彙でもって、わたしではない、分からないなにかを意味しようとしているのは、エヴァを見終えた諸姉諸兄は既知のことと思う。

 

さて、新劇エヴァは、旧劇を踏まえて、新しいエヴァを創り出すため、スタートからして大団円を目指してつくられた。

旧劇から大きくルート変更されたのは、破のゼルエル戦。

わたしが消えても代わりはいると諦観する綾波に対して、綾波綾波しかいないと救いに出るシンジ。あまりに熱い展開に何度見ても涙腺が緩む。

このシンジの行動は、結果的に新劇エヴァを貫く、人間の”意志(独語でwilleヴィレ)の力”を表現していた。

結果としてニアサードインパクト(劇中の描写が不足しており各種考察が存在するが、とりあえずシンジのせいとする)が起こり、世界が滅亡しかける。救世主たるシンジは大虐殺を行った罪人となった。

 

そしてQ、時間は14年経過し、知っていた人は自分を置き去りに大人になり、知らない人からは憎まれている。色彩豊かな世界は真っ赤にコア化し、人類は絶滅間近だ。

孤独と絶望の淵でカヲルと出会い、「槍でやり直す(鉄板ギャグ)」ため奔走するが、ゲンドウの企みにより、カヲルを喪い、再び世界を滅亡の危機に直面させる。

もはや生きる希望がなくなったシンジは、アスカに手を引かれ、シンへと繋がる。

 

 

 

テレビ版・旧劇でも、カヲルの死はシンジの心が壊れるきっかけだった。

ゼルエル戦でレイを喪い、アラエルによってアスカは精神崩壊寸前。

その中で初めて出会った好意、唯一の希望だったカヲルの自らの手で殺したことでシンジは追い込まれていく。

そして、アスカの死を目撃することで、人類補完計画を発動させるに至る。

 

Qのラストおよびシンの前半のシンジは、旧劇で人類補完計画を導いた時と近い状態にあっただろう。自己否定、他者の拒絶、世界の拒絶、デストルドーの増大。

自分のせいで世界が壊れ、カヲルが死んだ。自分は何もできない、何もしない方がいい。

エヴァを見てきた人間なら、シンジがふさぎ込むなんて親の顔ほど見た光景だが、今回はアスカが、辛辣かつ的確にケツを叩いていく。

シンジの心情を全部言い当てて、「メンタル弱すぎ」と吐き捨てる。何もそこまで言わんでも・・・と思うくらいズタボロに言うわけだが、観客も20年以上もふさぎ込んだシンジを見続けてウンザリしていたところでもある。

もっとも、この時のアスカには、自身がこの14年で既に乗り越えてきた孤独と絶望をいまさら蒸し返されたようでイラついたところもあっただろう。

今回のアスカは、綾波と同じく、エヴァに乗るために作られたクローン人間であった。あまりに唐突かつ、「え、そうなの・・・」と言うしかない設定変更で、もはや誰もツッコむ気さえなくなっているところだが、旧劇では母親の愛の獲得のためにエヴァに乗っていたアスカは、新劇では、そもそもの生存理由からエヴァに乗った。さらに、破で使途に浸食され、(多くの考察好きたちが予想した通り)使途化したアスカは、変化のない存在(=永遠の平穏)(=人間存在としての死)に近づいていた。しかし、14年の間で、彼女はその孤独をある程度は受け入れて、前へ進む決意をした。

そんなアスカにしたら、いつまでもウジウジとしているシンジの子供っぽさがいたましくもあり、鬱陶しくも思えるのだろう。

 

さて、新劇最終章たる今作では、シンジたちが保護された、第三村での生活に大きく時間が割かれている。

多くの人が指摘しているように、この第三村での時間は、傷つき、希望を失ったシンジの、あるいは庵野自身のセラピーの時間である。

第三村は、非常に原始的な共産制社会をとっている。みんなで食べ物をつくり、共同で風呂にはいり、画一的な住居に住み、食料は分配され、権力による統治がない。

共産主義者が見たら落涙のうえ、天を仰いで合掌するであろうユートピアだ。

そこにいる人たちは皆、善意の人ばかりである。かつて同級生だったトウジとケンスケはじめ、他の住人たちも、全くのよそものたるシンジと黒綾波を温かく迎え、ともに生きようと手を差し伸べる。

第三村の暮らしの中では、新たな生命にかかるモチーフが繰り返し登場する。妊娠し、のちに出産した猫、トウジとヒカリの娘のつばめ、トウジが受け持つ妊婦(マツカタの奥さん)、田植え。生命が誕生することは、世代が次へ繋がる希望、不可逆的な時間の進行、その先にある旧世代の死が連想される。

もうひとつ、第三村のパートで強調されるのは、挨拶だ。黒綾波がヒカリに、挨拶について繰り返し尋ねる。ヒカリは、おまじないだと答える。他者と共に生きていくためのおまじないなのだと。第三村の人々の会話では、挨拶が非常に多い。おはよう、ありがとう、さようなら。しかもこれらのセリフは、相手に伝わるようにしっかりと発音されているように見えた。また、ヴィレに戻ったあとでも、挨拶の言葉は、単体でしっかりと発音されているように感じた(アスカのただいま、ミサトのありがとう等)。挨拶は、他者と生きていくためのおまじない。他者がいるから挨拶をする。挨拶をすることで、わたしは他者と生きていくと宣言をする。挨拶をするのは、他者を受け入れた人間だけなのだ。

第三村の暮らしの中で、黒綾波は急速に人間性を獲得、他者を認識し、感情を認識し、世界を、居場所を認識した。そしてそれを、シンジに分け与え、シンジが立ち直る手助けをした。黒綾波の問いかけに、シンジは慟哭する。どうして放っておいてほしいのにみんな優しいんだ。黒綾波は答える、あなたが好きだからだ、と。この会話は、旧劇のラストシーン、アスカの首を絞めるシンジが、そのアスカに頬を撫でられたシーンに近い意味合いがあったのではないか。他者に受け入れられる感覚、他者と生きる一歩を踏み出した瞬間。

第三村での暮らしにもどったシンジは、トウジと会話をする。ヘタレのガキでは生きていられなかった、大人にならなければならなかった、自分は自分の落とし前をつけるのだと回顧するトウジ。この辺で、本編開始から50分くらいである。既に今作で言うべきテーマはほとんど語られたように感じた。そしてシンジは、最後の試練に向かう。黒綾波の喪失だ。

綾波の、率直すぎる好意は、シンジにかなりの安らぎを与えたはずだ。黒綾波と破の綾波を、断固として区別していたシンジだが、名前を求められた際に、綾波綾波だ、と答える。これは、破綾波から乗り換えたというよりも、黒綾波を、破綾波のニセモノではなく、新たなひとつの人格として、それなりの好意をもって受け入れた表明だと思う。

そして、綾波は消える。他者と生きていく挨拶を残して。またあなたと出会えますように、と残して。

ちなみにこのシーンだが、中盤なんかでやってくれるなというくらい泣いた。初見時には思わず「ダメだ綾波・・・ダメだ!ダメだ!!」と叫びそうになったものだ。

綾波の死を、シンジはどう受け入れたのだろう。さんざん涙をこぼしたであろう描写はあったが、トウジをはじめ第三村の人々と触れることで、シンジは自身の落とし前をつけることを決意する。

「自分と同じ喪失を体験されるのも息子のためか」と冬月はゲンドウに尋ねる。ゲンドウがどこまで思っていたかは不明だが、シンジのセラピーは、他者の愛に触れること、他者と手を取り合うことを経て、他者の喪失の克服をもって完了する。

テレビ版は、「僕はここにいていい」と、”わたし”を認めたところで終わるし、旧劇では、”わたし”の向こう側にいる他者の手を、やっとの思いで握ることで終わる。新劇では、本編中盤にして、とっくに旧世紀の到達点を越え、人々のために生きようとするのだから、テレビ版もしくは旧劇のシンジであれば、この時点で物語は終わっていたであろう成長っぷりである。

 

そして、ゲンドウとの決戦。旧劇では、シンジを中心にロンギヌスの槍を使って人類補完計画が行われたが、今回は、ロンギヌスに相当する新たな槍①を使って人類をコア化(≒旧劇でいうLCL化?)した後、ゲンドウが中心になって、人類補完のおかわりを行おうとする。何故そんなまわりくどいことをするのか?

旧劇では、シンジを追い詰めるだけ追い詰めて、もう死にたい全部消えちゃえ、という気持ちにすることで、人類補完を達成しようとしていた。ところが新劇のシンジは、成長し、他者のいる世界を受け入れた。もはやゼーレやゲンドウが望む、生命のコモディティ化など願うような男ではなくなってしまった。然るに、ゲンドウ自らが世界を書き換える必要性がでてきたのだ。

南極到達以降の、地獄の門、裏宇宙、ゴルゴダオブジェクトなど、怒涛の超展開については、あまり考えないことにした。もはやここまで来たらあまり問題じゃないように思えてきたからだ。こういったことは考察班の研究報告を待つに限る。

ゲンドウとシンジの、バキよろしく、世界の命運をかけた親子喧嘩は、シン・ゴジラで実写映画を経た庵野の、実験的な映像演出の連続で描かれる。虚構と現実を同等の存在にするエヴァ・イマジナリーの中で、虚構の戦い、精神の戦いとしての演出意図と、新しいアニメ映画の表現というクリエイティビティの奔流を体験した後、物語は、エヴァの終焉、他者の救済へと突入する。

 

テレビ版から通じてすべての黒幕であった碇ゲンドウ。その目的は(相も変わらず)ユイとの再会だ。

ゲンドウがセラピーを受ける側にまわることになるとは、これまでエヴァをみてきた諸姉諸兄には衝撃だっただろう。そして、あんなに饒舌に、素直に独白をつづけるゲンドウなんて、と。

けっきょく僕と同じだったんだ、とシンジは言う。

孤独が怖い、他人に嫌われたくない、傷つきたくない、僕に優しくして、でもだめなら、みんな死んじゃえ。

父さんがこわい、父さんに捨てられた、父さんに傷つけられた。

テレビ版25・26話や、旧劇でシンジが繰り返し慟哭してきたことだ。

ゲンドウにとっては、ユイの存在が、閉塞した世界に青空を見せる大きな通気口となった。ユイこそが他者そのものであり、ユイだけが世界の通路だった。それを失ったいま、もはや人類すべてを犠牲にしてでも、これを取り戻すよりない、というのがゲンドウの目的だった。ついでに、旧劇から繰り返しテーマになってきた「ヤマアラシのジレンマ」を解消し、他者の苦しみのない世界をつくること、悠久の平穏、変化がない均質化した世界の創生を。

結果、ミサトの決死の行動、存在しないはずの新たな槍②の出現により、世界の書き換えの主導権がシンジに渡ったこと、既に自分のいる地点を乗り越えたシンジの成長を見届け、シンジの中にユイを見つけることで、次代へ繋ぐことを選び、ゲンドウは物語から退場する。

その後、アスカの救済。アスカは、旧劇と同じく、「わたしを褒めて、わたしを認めて」が本懐だった。それを救うのがまさかケンスケとは、カップル厨の皆様いかがお過ごしでしょうか。シンジは、旧劇のラストで彼女の首を絞めたあの海岸で、アスカに別れを告げる。ありがとう、さようなら、と。

そしてカヲル。唐突に登場した加持さん(この登場についても諸考察あり)に、シンジを幸せにすることで自分が幸せになりたかったことを看破される。そして、既にシンジが立派に成長し、自分なしでも幸せに生きていけることを確信し、加持と共に去る(生命の書、渚司令などについてはここでは触れない)。

最後にレイ。レイの望みは「碇くんがエヴァに乗らなくていいようにすること」だった。レイは、黒綾波が第三村を気に入っていたことを伝え、レイにはレイの居場所があるはずと説き、エヴァのない世界(もう巻き戻さない、とも)をつくることを約束する。

 

そしてネオンジェネシス。シンジなりの人類補完が始まる。シンジとしては自分の命と引き換えにやるつもりだったろうが、親の最後の務めと、ユイとゲンドウに押し出されることになる。

エヴァがなくなり、コア化された地球も、サードインパクトでインフィニティに書き換えられた人類も、加持が保存した生命の種たちも戻り、呪縛から解き放たれたシンジとマリが駆け出して、物語は幕を閉じる。

 

 

 

エヴァは、わたしと他者の物語である。

テレビ版では、他者からわたしが定義されること、他者がいる世界で、わたしがいていいことを確認し、

旧劇では、他者と生きることを決意し、

新劇では、他者と生きていく世界で、世界が流転すること、次代へ繋いでいくことが描かれた。

 

旧劇と新劇の大きな違いはなんだろうか。旧劇だって、他者と生きていこうというメッセージだったと受け取っている。新劇はそこからさらに進めて、他者のために生きることを説いたにせよ、方向性が大きく異なったとは思わない。決定的な違いがあるとすれば、それは、他者の描き方だろう。

 

旧劇での他者の現れ方は、あまりにも悲観的・厭世的だった。醜い部分や汚い部分をこれでもかと見せつけた。たくさんの人間が死ぬことで、喪失の痛みを描いた。最後の最後まで、アスカに拒絶をさせた(「あんたとは死んでもイヤ」「きもちわるい」)。結果的に、拒絶としての他者であるアスカ以外はLCLから還らなかった。

旧劇を見た多くの人にとって、それでもシンジが「もう一度会いたいと思えたから」といって他者と生きる世界なんですよかったね、とは、ならなかっただろう。多くのオタクが、他者との通行不可能性を受け取った。シンジの慟哭に共鳴した。みんなが孤独の快楽に、論理の美しさに、寂寥の静けさに浸った。痛みと苦しみこそが真実なのだと思った。世界は拒絶の他者と、彼岸で溶け合った他者と、あとは砂浜だけなのだと思った。オタクだらけの劇場を大画面で映し出され、虚構で現実の埋め合わせをするなと叱られても尚、わたしの孤独と無力でもって世界を諦めることに陶酔した。旧劇は、希望を描いていたにせよ、絶望の絵の具を使いすぎていたのだと思う。

そこへきて新劇は、特にシンは、希望の色がたくさん使われていた。ところどころ全く理解できない用語や設定が存在するものの、物語の進行は、かなり平易な言葉で説明されていた(わざとだと思う)。伏線もかなりの部分回収されたし、おおむねみんな幸せになった(アスカはついに五体満足で世界にかえることができた)。破で感じた希望を、あらかた表現しきってくれたように感じた。

焦点は、この希望の色をどれだけ信じられるか、だろう。

 

第三村の営みは、人間の善意なしにはあり得ない。住人たちが進んで協力しあい、受け入れ合い、支え合わなければ成り立たない。

食料が配給制と聞いた時点で、俺には既に、配給をめぐるいざこざや、配給側の傲慢、住人間の軋轢が描かれるのでは?と懸念した。それに、ああした親密な共同体では、よそものは往々にして鼻つまみ者になる。プラグスーツを着て、名前も分からない黒綾波、ニアサードのトリガーとなり、第三村全員の敵であるはずのシンジ、ゲームばっかりして(食料がいらないにせよ)労働をしないアスカ。誰がきっかけになって追い出されてもおかしくない状況だが、住人は純然たる好意でもって迎え、彼らに施しを与える。

また、突如としてヒロインとして台頭してきたマリの存在もある。破で出会ってから、シンジとの会話は数回。なんならシンで初めて名前を名乗ったにもかかわらず、アスカもレイも差し置いてメインヒロインに躍り出た。なぜ?いつの間に?シンジは何もしてないのに何でマリに愛されるのか?

 

旧劇が、他者を悲観的に描きすぎているのであれば、シンは、他者を楽天的・楽観的に描きすぎているようにも感じる。

さらに言えば、「絶望していた少年が、他人の温かさに触れるうちに心を取り戻し、みんなを守るために戦い、仲間の死を乗り越えて世界を救う、そして他者と手を取り、前を向いて歩いていこう」なんて、実に陳腐な着地と言えばそうも言えるかもしれない。穿った言い方をすれば、庵野、お前は結婚したからいいが俺等は結婚してねーぞ、なんて。実際、ツイッターを見てるとこうした意見は見られるし、「俺にはマリはいない」という意見はあった。

 

ただ、俺としては、あのエヴァが、ヤマアラシの針の痛みをイヤというほど叩きつけたエヴァが、最後にこうした着地をしたことの意味を重大なものとして受け止めたい。

旧劇の終盤、シンジはユイの魂と会話する。

幸せがどこにあるのかまだわからない。だけど、ここにいて、生まれてきてどうだったのか、これからも考え続ける。だけど、それも当たり前のことに何度も気付くだけなんだ。自分が自分でいるために。

シンジがいう、自分が自分でいるために気付く、当たり前のこと。それはやはり、他者の存在のことだろう。他者と生きていくこと、他者に規定されることで描かれる自分と、自分が規定することで描きだされる他者の、その相互補完性のことだろう。

 

 

 

他者は曖昧で、不安定で、なにもしてくれないし、共に生きるにはあまりに頼りない。わたしはどうだろう。わたしは無力で、孤独で、なにもできない、ひとりで生きていくには心細い存在だ。

わたしと他者の間にある絶望的な断絶を等閑視することはできないだろう。他者とは分かり合えない。分かり合えないことが他者の他者たる要件だ。わたしと他者が共有しているつもりの世界など、理念的な了解、いつだって破ることができる、その場しのぎの口約束にすぎないのだろう。

それでもわたしは、わたしの意志で、他者の手を取り生きていくのだ。わたしには他者が必要だから。わたしは他者を信じることでしか生きていけないし、他者の愛だけがわたしを救ってくれるからだ。他者だけが、わたしを繋いでくれるからだ。

 

縁が君を導くだろう

これは、Qの終盤、死を覚悟したカヲルがシンジに送った言葉だ。

このカヲルの言葉はシンでも繰り返されるのだが、もうひとり、縁という言葉を使う人物がいる。ケンスケだ。シンジとまた生きて出会えたこと、そしてシンジとゲンドウの関係について、縁という言葉を使った。

縁、平易な語彙であるが、仏教においてその奥行きは広い。縁とは、単なる偶然のみを意味する言葉ではない。この世の全ての存在は縁によって生起し、滅していく。混沌を秩序に、不条理を道理に接続する唯一の縫い糸だ。しかし縁は、線であるが点ではない。縁は、道程を受け持つが、目的地そのものではない。縁は、わたしと他者を出会わせるが、仲介するわけではない。わたしと他者の間に起こることは、わたしがわたしの意志で、他者が他者の意志で起こすことだからだ。そうして、わたしと他者が交差した地点から新たな縁が始まる。

 

人の死と思いを受け取れることが、シンジの成長の証だった。

それはわたしが、わたしの意志で他者を、その痛みも喜びも引き受けること、そしてわたし自身を、他者へと繋いでいくことだ。

第三村は、他者の、というより、わたしを含めた人間の善性そのものの表現なのではないか。それがどれだけ空想的に見えたとして、その善性が我々にないわけではない。他者に愛がないわけではない。わたしにも、あなたにも。

 

 

 

ところで、どうしてマリENDだったのだろう?

まず、推測なのだが、この作品は、カップリングそのものにあまり関心がないように思えた。

ミサトと加持、トウジとヒカリ、そしてアスカとケンスケ。

大事なことは、他者同士が分かり合い、愛し合い、命を次代に繋ぐという営みそのものであり、それが誰と誰であるかはあまり大事じゃないと考えているように見えた。

そのうえで、マリでなければならばならなかった理由を考えよう。

アスカではだめだっただろうか。シンジよりはるか先に”大人”になったアスカ、成長したシンジに対してやっぱり好き!となるルートは?・・・ないだろう。アスカとシンジにとって、お互いに「好きだったよ」と言って決別することが、彼らの世界を前に進める。もはや二人の恋は過去のことなのだ、それが過去であることが、いまと未来を創っていく。

レイではだめだっただろうか。破であれだけ入れ込んだレイだ。碇の幸せを望む女性だ。だめなのだろう。なんで?いいじゃん!俺はレイルートがよかった!(本音)とはいえ、レイはユイのクローンにしてリリスのコピー、つまり母親にして神なのだし。また、ネオンジェネシスによって、エヴァの中じゃない、新しい居場所を与えようとしたときに、シンジ自身との関わりがない方がいいと考えたのだろう(なんで?結婚したらいいじゃん!)。でも結局、カヲル君と付き合ってたね。第一使途と第二使途で付き合う感じね。なるほど。

マリは、マリというキャラクターは、考察班の予想通り、ゲンドウとユイの、研究室時代の仲間だったようだ。エヴァの呪縛により時間が止まっているが、ゲンドウと冬月の三人でユイを救おうとしていたのでは。そして途中で裏切り「イスカリオテのマリア」となった。イスカリオテとは言うまでもなく、キリストを裏切ったユダの通称である。マリアとは、イエスの母マリア、ではなく、イエスの死と復活を見届ける「マグダラのマリア」を指す説が有力だ。つまり、ネオンジェネシスにより世界が書き換えられる中、唯一、シンジと共にその創生を見届け、シンジと同じ時間軸で生きていく人物となった。マリは、旧劇にはいなかった人物だ。新劇に突如として現れ、最後まで行動原理がわからなかった、謎めいた人物だ。そのくせ明るく、ひょうきんで、人間愛がある。また、キャラデザインの段階で、レイやアスカと違い、庵野の魂ではなく、鶴巻監督の魂が込められている(パンフレット内、坂本真綾のインタビュー内で、マリの演技指導等は鶴巻監督に任せられていた旨の発言)。その意味でもマリは、エヴァという作品にとっての他者だった。エヴァの外部の存在だった。エヴァという”わたし”を導くのも、やはり他者、ということだろうか。(マリはユイのことを本当に愛していたので、ユイの子供であるシンジを特別大事に思っている、という線もあるが、ラストのシンジのセリフからしても色恋に発展しているような雰囲気がある・・・)ともかく、カップリングそのもの、要するに誰と誰が付き合ってるかなんて、そういう個別具体的なことはあまり重大なことではなさそうだ(と考えているようにみえた)。

 

 

 

最後に、もういちど、シンエヴァを通じて俺が感じたことをまとめて終わりにしたい。

エヴァは、わたしと他者の物語だ。テレビ版でひとりで立ち、旧劇で他者を見つけ、新劇では共に歩くことができた。

旧劇の人類補完計画では、庵野作詞による、甘き死よ来たれが流れる。

 

 

時間を戻せたらいいのに。

罪はすべて僕のせいになってしまったから。

愛した人たちからの信頼なしには生きられない。

過去の出来事、愛や誇りを忘れることなんてできない。

それが僕を殺していくんだ。

 

シンでは、松任谷由実のvoyagerが、林原めぐみの歌唱で流れる。

 

わたしがあなたと知り合えたことを、

わたしがあなたを愛してたことを、

死ぬまで死ぬまで誇りにしたいから。

 

他者に対する、シンジの認識の違いがここに現れている。voyagerの上記歌詞が、過去形を用いていることを注目したい。知り合い、愛したことは既に過去のことになっている。つまり、ここで「死ぬまで誇りにしたい」ことは、美しい思い出であると同時に既に喪失の痛みを伴っているものである。それでもなお、わたしは、あなたという他者を、あなたにまつわる過去を、いま、そして未来まで誇りにしよう、というわけだ。

この、フィクションの世界ではもはや凡庸ともいえる人間賛歌を、エヴァが最後に歌い上げたことを、あなたはどう受け取るだろうか。

シンジは、「イマジナリーではなく、リアリティで既に立ち直った」。全てのエヴァを串刺しにしたうえで、さあ、あなたはどうする?そう問いかけられているように感じた。

 わたしは、望むと望まざるとに関わらず、縁に運ばれ、他者と出会う。そして、わたしは他者の一部を、他者はわたしの一部を引き受けて、また新たな縁の交差点へと向かっていく。そこでわたしが何を受け取り、何を渡すか、これだけだ。これだけがわたしの意志だ。

わたしの意志で、他者との現実へ歩みだす全てのチルドレンに、おめでとう。