『ゴーン・ガール』

世間では「ありのままで」とかしましいが、実際にはそれを実現している試しをみることは少ない。ある理想論のようなテイさえあるようだ。

人間、そう一貫して何かを思考し判断し続けることは容易くないので、周囲の環境や人間関係から多大な影響をうけて過ごしている。その方が自然だ。
あるいは、自分自身が周囲を影響していくしかないのだが・・・


ゴーン・ガール』は、デヴィッド・フィンチャー監督、ベン・アフレックロザムンド・パイク主演。

予告編はこちら。2分超の長いもの。


日本語版


ベン・アフレックは、デアデビルに次いで、今度はバットマンになるそうで、筋肉隆々といった具合だ。
ロザムンド・パイクは007に出てたんだよね。クールな美女って役柄だったけど、今回もそういったイメージ。


あらすじを簡単に。
結婚記念日に突如として失踪した妻エイミー(ロザムンド・パイク)、彼女を探すうちに、夫ダン(ベン・アフレック)に不利な証拠や事実が次々と暴き出される。そして世間と警察は、ダンがエイミーを殺害したのではないかと疑念を抱くようになるが・・・



他人との齟齬というのは、結婚でも恋人でも同僚でも、誰かと何かことをなしていく、否、ただ一緒に過ごしていくだけでもしばしば起こるものだし、
その折衝にはなかなか骨が折れるものだ。

Aの言い分を聞いてるとBが悪いように思えるが、Bの言い分を聞いてるとなるほどAにも非があるのだなということもある。しかしてその双方とも括弧にくくって判断が要ることもある。こと夫婦関係となるや、その関係の多くは秘匿され、根深く、外野が口をはさむのは容易ではない。
ゴーン・ガール』では、妻と夫、双方の視点から様々な夫婦生活が語られるが、そのどちらが真実であったかは、実は判然としない。おそらくそれは二人にもわかっていないのだし、そういうものなのだろうと思う。


ただ、真実という寄る辺がなくても二人は関係をしなければならない。そこでは自発性と協調性による積極的な営みというよりは、ある種の力関係、弱肉強食の世知辛い関係性があったようだ。


ダンとエイミーを通じて、我々は他人と関係すること、また、自らを振る舞うことの意味と形態を再確認する。

ダンは自分自身の意思と葛藤しながらも、妻を見つけるため、心象を操作するためなどの功利を得るために、善良な人間を演じてみせたり、妻を愛するポーズをとってみせたりするし、エイミーもまた自分の功利のために器用に振る舞いを変え、人心を操ってみせる。


どれが「本当の自分」であるかなどはもはや意味を持たない。彼らを規定するのは他者との関係のありようと、それによってもたらされる功利だった。


「他人を関わることは疲れるものだし、気を遣うものだ」というのは少しペシミスティックすぎるだろうか?
自分らしく等身大に生きる、などという理想の実現には、どうしたって他人を巻き込まざるを得ないし、仮にそのように生きてみせたとして、幸せが待っているとも限らない。

自分がしたいことをするためにはどうしたって他人が邪魔になることがある。自分の振る舞いや行動が、他人との関係によって規定されるからだ。そもそも、自分がしたいことそのものだって他人から規定されているのかもしれないし、とかく自分なんて曖昧なものだ。

エゴを通すために振る舞いを変え、図々しくも華麗に生きるのもひとつの強さだろうと思う。そのために犠牲になる他人など知ったことではないと切り捨て、理想郷をつくる強さ。人間関係の規定性を逆手にとって、自らに他人を従える強さ。カリスマだ。

ところでそんなことは、俺にはとても難しい。仲が良い友達といても、3時間も経つと帰りたくなることさえある。
家に帰ってひとりでいるとほっとすることがある。誰の声も聞きたくないこともよくある。


そんな俺には、この映画は身につまされるような、ある種の息苦しさを感じる映画だった。
あの人に怒られるから、あの人に嫌われるから、あの人に文句を言われるから、あの人に、あの人にあの人にあの人にあの人にあの人にあの人に・・・
自分を取り巻き、また方向づけているものは、他人に対する不安、負い目、愛情、不信、恐怖、怒り、憐憫、憧れ。何をするかを決めるには、これだけで十分すぎるほどだ!
ドラマやアニメでは、「他人なんて関係ないぜ!」といったある破天荒さがもてやはやされがちだが、実際のところそういった輩は手におえないもので、フィクションで投影してちょうどバランスがとれるものだったりする。
作中、嘘や怒りや不安が蓄積したダンに対して、妻エイミーが言い放った終盤の一言はあまりに強烈で冷酷だった。

デヴィッド・フィンチャーといえば『セブン』も有名だけど、あれを見たときにも『ゴーン・ガール』を見たときにも、シリアスな中にもなんとなく、タチの悪い冗談みたいな雰囲気を感じた。ジョークは時に痛烈な真実を含んでいることがあるけれど。

大事なのはコミュ力云々といわれて久しいが、自分のありようの中にどうしようもなく他者が侵入していること、その窮屈さや、為す術もなくそうして生きていくしかないことの虚無感をいかに乗り越えるか、といったことの、今日的な回答なように思えた。