『(500)日のサマー』

餅は餅屋、という言葉が好きだ。なんでもちゃんとわかってる人に聞いた方が、任せたほうがいい。その方が確実だし手早く片が付くのだ。


ところで俺は映画好きではない。だから、「いい映画」のことはよく知らないし、どんなものが有名なのかというのも知らない。

俺が、「この人は映画が好きなんだ、少なくともたくさん見てきて、語るべき語彙を蓄えてるんだなぁ」と感じた人に一番よかった映画を聞いたところ、教えてもらったのが(500)日のサマーだった。

主演はジョセフ・ゴードン=レヴィット。個人的には『ダークナイトライジング』での印象が強い(いかに映画を見てないかが分かる)。なんとなく物腰柔らかそうな顔だしすごく好き。ヒロインのサマーを演じるのはズーイー・デシャネル。誰だこれ?と思ったけど『あの頃ペニーレインと』に出てたんだね。知らなかった。

監督はマーク・ウェブ。グリーン・デイやグッドシャーロット、ダニエル・パウターマイケミカルロマンス、ファーギーなど、名だたるアーティストのミュージックビデオを監督したのち、この(500)日のサマーで映画監督デビュー。スマッシュヒットを記録し、最近では『アメイジングスパイダーマン』シリーズを監督した。


予告編はこちら。


印象的に使用されている音楽はThe Temper TrapのSweet Disposition。


このイントロってこの映画のおかげで決定的なイメージ付けをされたんじゃないかしら。
それはともかく、ミュージックビデオを撮り続けた監督だけに(?)BGM選択は通好み。JGR演じるトムと、ズーイー・デシャネル演じるサマーの関係が始まるきっかけがザ・スミスというのも渋い。アメリカでもザ・スミスなんて古臭くていわゆるサブカルこじらせみたいな奴しか聴いてないんだろうか?


あらすじはこう。

建築の勉強をしつつ、グリーティングカード会社に勤めていたトムは、社長のアシスタントとして入社してきたサマーと出会い、「私もスミスが好き」と言われたことをきっかけにゾッコンに。デート、キス、セックスと二人の関係は深まっていくが、サマーはいつまでも「私たちは友達で、真剣に交際する気はない」という姿勢を崩さない。”運命の恋”を信じるトムは、サマーとの関係を妥協しながらも不満を持っていた。
サマーのホームパーティーに呼ばれたトムは、そこでサマーが、自分にあまり真剣に取り合わないどころか、薬指にエンゲージリングをしているのを見てしまう。
しばらくしてから、自分でない男と結婚したサマーと再会するトム。「運命の恋はある。あなたは正しかったわ。私とあなたは運命じゃなかっただけ」とすっかり考えの変わったサマー。トムはグリーティングカード会社をやめ、夢だった建築関係の仕事をするために職探しをする。その最中で一人の女性と出会い、「全ては偶然なのだ」と考えを改めたところで物語は幕を閉じる。


とにもかくにもジョセフ・ゴードン=レヴィット非モテ演技が最高だった。作中でトムがモテない童貞野郎だなんて描写はいちども出てこないけれど、はっきりしない色の洋服ばかり着て、かっこつけで、意固地で、弱腰で、たまにエモーショナル。一方でサマーはいちいちオシャレ。中間色を着るのでも、トムみたいな優柔不断さを感じさせない。サマーのいる場所に世界のピントが合わさるような存在、ひとつの極となるような存在としてサマーはそこにいた。

トムは是が非でもサマーを自分のものにしたかった!けれどするりするりと手元から逃れるサマー。何を考えてるのかわからない。挙句に知らない男と結婚・・・いったい自分はなんなんだ・・・死のう・・・とならずに次の女性をちゃんと見つけられたのえらい。




この作品には、本編に登場しない謎のおじさんによるナレーションが入っている。これは大事なことだと思う。ナレーターは誰なのか、その視点はどこなのか。
ナレーションでは次のようなことが語られる。

「サマーがバスに乗ると全員がそちらを見たり、サマーが入ったレジに行列ができたりする”サマー現象”は男性ならだれでも経験するものだ」「これは男と女が出会う物語だが、恋物語ではない」

ナレーションは、視点のメタ化、物語の対象化、観客を作品に入り込ませるというよりむしろ、見る側と見せる側の峻別をより強調するものなように思う。ナレーターは基本的に、物語にとっては全てを知り、語ることのできる、神のような立ち位置にある。ナレーターがいるということは、少なくとも我々は登場人物の誰かになりきることはもとめられていないということだ。


この映画の大きな魅力として、トムの空想を現実のシーンに挿入してみたり、周囲の人々と喜びの乱舞を繰り広げたり、街がモノクロになったりといった、各所にみられるフィクショナルな演出がある。
特に、作品の進行が、196日目→3日目→56日目・・・みたいにツギハギになっている点は重要だ。当然ながら実生活の時間軸は直線的なものなので、映画の進行のようには進まない。先がわからなず、不確定要素だらけなのだ。(500)日のサマーが、パッチワーク状に物語を構成しているということは、つまり、この物語は初めからケリがついていて、カタストロフィックなどんでん返しや、涙腺決壊のクライマックス!といったものは企図されていないわけだ。

ナレーションを含めた、こうした、実生活の暮らしようにどこまでもそぐわないような演出は、物語をどんどんファンタジー化していく。おとぎ話になっていく。感情移入や、リアリティの付与といったものからは遠ざかるように見える。しかし、不思議なことに、それがかえってリアリティを高め、物語の説得力を高めていくという逆説がある。これが重要だ。


モテキを見た後にこの映画を見たから、というわけではないけれど、漫画じみた演出は恋愛映画と相性がいいのかもしれない。
恋愛というコンテンツが基本的に、経験的に語られるなら、これを題材にしたときには共感を喚起することが重要になってくる。自身の身体に根差さない恋愛はどうも収まりが悪いだろうし、恋愛という概念の具体像は、論文や写真ではなく不可逆の時間であり、それによってもたらされた体験である。

映画に共感するということは、観賞者側にとっては自分の体験、記憶を引っ張り出して再び光を当てるわけだから、そこには具体性がある。しかもその具体性たるや、私の身体は私でしか生きられない、というような次元での、並々ならぬ個別性を伴った具体性である。つまり、基本的には共感というのは、「この私にしかわからない」という類のものだ。他の人も自分と同じように感じているらしいことを認めたとしても、共感の素地は徹頭徹尾、自分自身固有の記憶なのだから、同じ恋愛映画をみて、はー共感できるねー!と言ってみてもそれは理念的な敷衍にすぎないということだ。


少し脱線した。ともかく恋愛作品の物語は、共感が重要になってくるわけだから、だれも分からないようなシチュエーションを選んで、これはこうでこういう風に素敵なんだと説明しても仕方ない。かといって、あまりに具体的であっては、不特定多数の観賞には耐えられない。

そこでクリエイターたちは、具体と抽象の間でどこに着地するかを考えるわけだけど、ひとつには設定で気を引くパターン。奇抜な設定の中にありがちなシチュエーションを落とし込むやり方があると思う。
観客の個別の体験を複数の登場人物の中で鏡合わせのように反射させ、増幅させ続けて楽しませるやり方があると思う。観客は自分の記憶の断片を作品のそこここに見出して、ある意味では自分と自分の間で葛藤し、快楽を得る。そういう作品は、あらすじを語るだけで面白い。気を引ける。見たくなる。ある意味では体験を言語のレイヤーで表現しようとしているのかもしれない。

もう一つは、これが(500)日のサマーのやり方なんだけど、恋愛における過剰さを掬いとる方法。恋愛が、自分以外の世界中の人間のうちのたった一人(あるいはごくわずか)との間で起こることな以上、そこには他の関係では存在しえない過剰さがある。
その人と話せて”特別に”嬉しいとか、キスができて”この上ないほど”幸せだ、とか。
そうした過剰さは、日常生活ではなかなか表現しきれない。気持ちの高揚が語彙を追い越すからだ。この、日常的な表現の限界を越えた感情の余剰分を表現する際には、たとえその形式がリアリティを欠いていても、鑑賞者に届くころには、もの言わぬ表情での演技や一筋二筋の涙よりもずっと現実味をもつものなっている。

誰も女の子と仲良くなって路上で踊り出したりはしないけれど、あのダンスシーンは、たとえば彼が同じ場所で小さくガッツポーズしてみせるよりもはるかに共感できるし、言ってよければ現実味がある。


モテキも、後者を採用した作品だろうと思う。複数の女性に言い寄られた非モテ男というシチュエーションは、一見すると前者なようだけど、少なくとも映画版では、長澤まさみというミューズを前にした森山未來の過剰さをあの手この手でこれでもかと表現しつくした作品だった。

こうした過剰さの表現には音楽が欠かせない。音楽は映像よりも遥かに情動に働きかけやすい。もしかしたら音楽の起源からして、語彙が持て余した感情の過剰さを表出するための方策だったのかもしれない(適当)。


そこへくると、(500)日のサマーは言うことなしだ。ザ・スミスのセピア色な歌声が記憶を呼び覚まして、テンパートラップのイントロがそれを加速させる。まるで夢物語だし、映像、音楽のすべてが妄想の中みたいにごちゃまぜになって、サマーの顔が乱反射するのだけど、それはむしろ恋愛という題材の中では、妥当性をもった表現ということになる。


ここでドストエフスキーを出すのは場違いなのだけど、『地下室の手記』の冒頭で、ドストエフスキーは「これからロシアの多く現れるであろう、ごくありふれた人物を描いた」と述べている。極めて具体的で、ほかでもないこの人物でありながら、それは他のどんな人でもありえるような存在が、『地下室の手記』の主人公であった。

こうした具体にして抽象の存在はしばしば見る者の胸を打つ。それがサマーでありトムだった。ナレーターが冒頭で「サマー現象は男性ならだれでも経験する」というのはこのことだったし、みんなトムのように恋をしていく。




最後に少しだけ物語内容について。

肝心のサマーだけど、あれ女性がみたら「自分も男性に対してこうする気持ちわかる」って思うのかな。いるよねああいう女性、つらくなるからやめてほしい!で、結婚したらコロっと意見かわるんだよな。クソ女サマー。

1日目と500日目で、トムとサマーの恋についての意見は正反対になるんだけど、きっとサマーがいう「運命の恋」とトムが信じていたそれは違うだろうし、トムも一種の諦観から「偶然しかない」って考えになったわけではないと思う。お互いに、ひとつ違うレイヤーに移動した。二人とも「あの頃は・・・」と500日を思い出にした。
これはアイロニックな転倒が起こったわけではなくて、新しい状況に立たされた時の適応のための反応であったろうし、どちらが正しいというわけでもない。

運命の恋がどうのこうのっていうのは、この作品のメッセージめいて見えるけれど、むしろメッセージ性を脱臭するためのオチ、みたいなものなんだと思う。漫才だって「いい加減にしなさい、どうもありがとうございましたー」のためのボケは一番つまらないものだ。


映画でもなんでも、「何が語られているか」に主眼をおいて観賞するとその魅力を取り逃がすことは多い。もちろん物語内容がアイキャッチになり、語られるものになることはよくわかる。だが(500)日のサマーは、たぶん、画期的な物語だから評価されたわけではない。というか恋愛映画ってだいたいそうなんじゃないかな。
だから、俺はサマーにめちゃくちゃイライラしてぶっとばしたくなったことも、そういう苛立ち自体が俺のよくないところなんだよなっていうことも、飲み込もうと思う。