伊藤計劃『虐殺器官』

『ニシノユキヒコの恋と冒険』が映画になるらしい。主演が竹ノ内豊で、周りを固めるのは麻生久美子や本田翼、成海璃子尾野真千子など錚々たる美女たち。なんということだ、絶対に見ない。EDになってしまう。

『ニシノユキヒコ』がどれだけ人気のある作品なのか俺は知らないのだけど、そこそこ有名らしい?という感触はある。題材は女性ウケがよさそうだし、文学作品としても面白かった。


文学作品として面白い、というのは、端的にいって「読みの奥行きが広くとられている」という特徴に言い換えられると思う。「地図のように、無限の読み方ができないと作品ではない」といったのは安部公房だが、今や「作者の意図」とかいった読みの終着点はずいぶんとナリをひそめ、代わりにテクストを通じて読み手が多様な世界を展開する契機がもたらされた。それに、時代の要請を待たずとも本を読む楽しみは作品へ向かうことよりむしろ作品を咀嚼することの方が、昔からずっと優先されていたのではないか、なんて。

その意味で『ニシノユキヒコ』は、構造の複雑さが読み手を迷路に誘い込んで、各々の経験を喚起しながら軽やかにテクストと旅ができる作品だったと考えるのだ。



今回読んだ『虐殺器官』は、『ニシノユキヒコ』とはずいぶん毛色が違うけれど、やはりテクストの深さによって文学的地位を確保している作品だ。伊達にゼロ年代以降のSF小説の傑作といわれるだけのことはなく、その読みの奥行きの広さたるや相当な代物だ。この作品の奥行きを担保しているのは、『ニシノユキヒコ』のような、パースペクティブの補完・欠如によるそれよりも、方々へ飛び散った書き手の思索の果実や問題意識の波が、様々な色の糸として壮大な物語を織り上げている点にある(別に『ニシノユキヒコ』といちいち比較する必要なんてまるでないのだけれど)。



文庫版の裏表紙にかかれているあらすじ紹介にはこう書いてある。

9・11以降の、"テロとの戦い"は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう・・・彼の目的とはいったいなにか?大量殺りくを引き起こす"虐殺の器官"とは? ゼロ年代最高のフィクション、ついに文庫化!

「ああ、また監視社会とそのアンチテーゼで描かれるユートピアディストピア小説か」というのが第一印象だった。オーウェルが描いた未来はまだ来てないのかと。

だが読み始めてすぐにその軽率な判断を後悔することになる。人体損壊の緻密な描写や、戦争のただなかにいなが冷静極まりない主人公の語り口、激しい戦争のシーンと静かな内省のシーンの緩急など、どんどん読み進めたくなってしかもしっかり読み応えのある、通り一辺倒でないSF作品だった。

とはいえ、この作品を通じて何を語るべきか考えあぐねている。『虐殺器官』には管理社会と戦争を媒介にして、罪と罰のこと、自由のこと、資本主義経済のこと、宗教のこと・・・大量の哲学的思索が織り込まれており、しかもそれらが一つの方向性をきれいに向いているわけではないからだ。だから、それぞれの話題を語ろうとするとブツ切りになってしまって、どうもまとまりが悪い・・・。


まず、さしあたって語ってよさそうなのは、この作品全体の雰囲気を形作る"肉”の表現だ。銃弾に撃ち抜かれた人間の有様はもちろん、主人公が任地に赴く際に使用する、人工筋肉でできた「侵入鞘」、痛覚処理による身体感覚の変化、主人公の共感覚めいた感性による種々の描写etc・・・このことは小松左京に「テーマ性に欠ける」と評されたらしい『虐殺器官』のテーマの一つだったと思う。生き死にの問題、魂、罪と罰そういった抽象概念が身体、具体的な肉体が引き受けることになる、そういう存在として身体が、人間があるのだということ。タイトルから既に、器官の名のもとに、肉体への志向が始まっている。読者は一貫して、きわめて触覚的な描写を読み進めながら肉の生温かさや柔らかで弾力のある質感を思う。そうした手触りがこの作品のイメージを支えている。こうした表現には、作者のガンとの戦いが少なからず影響を与えているだろが、私的投影の産物とだけ見るには、この作品の深層に積まれたテクストへの敬意が足りない。

本作でニーチェが引用されるのは一度だけ、しかも「誰かが神は死んだといったそうだ」くらいのもので、その哲学的思索を本格的に引用して一席設けようということはまずしない。しかしこうした身体へ、固体へ最終的なよりどころを求めていくことはかなりのところニーチェ的と言えるだろうし、罪と罰や赦しといった営みに宗教が絡んでくるあたりは実存主義的だ。ただ、大量のテクストを下敷きにしながらお説教がましいことはせずにその描写で物語ろうとしたのは、抽象概念でどうこうするよりも、手触りとして、物質として、即物的な終着点として身体を求めているからだと読めた。


こうした肉体への関心でもって大胆にアプローチされるのが言葉の問題だ。言葉は作中で何度となく論じられ、作品の深部に位置する重要な話題だ。
言葉の問題は、様々な学問の関心事であり、こと現代の哲学ではほとんどそのことで終始してるようにさえ思える。作中では言葉に関する、明らかに哲学のテクストを下敷きにした記述がみられる。重要だと思われる、主人公の語りを抜粋引用する。

(・・・)ほんとうのところ、ことばによって現実が規定されていて、人間にはそれぞれのことばによる別の現実があり、ぼくらはことばというフィルタを通してしか物事を認識できない、という考え方は魅力的ではある。とはいえ、それはぼくにとっていつも違和感をおぼえる説のひとつだった。高校の英語教師はエスキモーの雪の話を得意げに語ってくれたものだが――そのときの数が二十だった――ぼくにとってことばは、実体としてぼくの外にある塊であり、確かな実在物として感じられるがゆえに、それがぼくという人格に影響を及ぼしているとはどうしても思えなかったのだ。 (122ページ)

事物、世界の認識やそれにかかわる思考に対して言葉が先立っているというのは、比較的最近の考え方で、国境をまたぐまでもなく、すぐ隣に住んでいる人間とでさえ全く世界の捉え方が違うという現代人の実感を支えるに十分な説得力のある論だろう。ほとんど神様にとって代わってるようだ。信じているものが違うのだから仕方ない、と。いい加減に他者に対してつっけんどんではやっていけなくなってきた世界の折り合いのひとつかもしれない。

主人公が、というかこの作品全体の思潮としては、こうした考えとは違う立場のようで、言語は進化の過程、言い換えると生存のための適応の過程で生まれてきた"器官"のようなものだとする。この"器官"という表現はなかなか秀逸で、論理の上でもうまく機能するし、グロテスクな内臓と通じる言葉を用いることで、言葉と肉体との関連性を印象付けることができる。

言葉を物質的なものとして捉えるという考えは、伊藤計劃独自のものというわけではないが、あまり脚光をあびないながら魅力的だ。ソース不明で申し訳ないが、人が他人を思い出すときには、その顔を思い出すという話をきいたことがある。たとえば伊藤計劃には、PNでない本名が戸籍に登録されており、そのほかに住所、生年月日、血液型etc・・・といった概念によって個人が管理されている。しかし実際には、想起という営みは伊藤計劃という人物の具体的な身体(顔)によるわけだ。あるいはこういう話もある。「ラジオ」という語によって、我々はその概念や、"一般的な"ラジオや「イデア」を見るわけではなく、ある具体的な、"あのラジオ"を見る、思い浮かべるものだと。上で引いた『虐殺器官』の引用のすぐ後に、アインシュタイン相対性理論を数式や言葉でなくイメージとして獲得したという逸話が語られることは示唆深い。言葉を定義で話そうとすると、すぐにその実体(=意味)が霞んでしまうということがある。言葉の定義は再び言葉によって定義されなければならないという円環を打破する論として、こうした言葉―実体説が機能するということはある。また、「虐殺器官」に関わるタネ明かしも、こうした言語へのスタンスありきでなければならない。

言葉と人間の二つの哲学的思索について、どちらが優れているかはともかく、『虐殺器官』においては徹頭徹尾、肉に根差した視野を持つ。この視野はすなわち個々人の具体的な生のレイヤーでもあり、未来から翻って現代を見つめるSFのお家芸が今回この作品で提示してきた態度だろう。



本当はさらに、罪と罰および赦しのことや自由のことも話題にするべきなのだが、もうつなげる自信がないのでこの辺で。こと、資本主義経済やそれにまつわるユートピアディストピア性については、俺の手にはどうも負えないようなのだ。。。