川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』

モテたことがないので分からないが、モテる人にはモテるなりに悩みがあるらしい。そういえばテレビで、「僕いつもフられるんすよww」とコメントする俳優なんか見たことがあるような気がする。

そんな彼のことはともかく、モテる男の珍道中を描いた、川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』を読んだ。

唐突だけど、俺は文庫本の裏表紙にかいてある短いあらすじ紹介の文章が好きだ。これを書いた人は既に中身を読み切って、短くしかもスッキリと物語を伝えようと心を砕くわけで、そう考えたらなんだか贅沢な文章だ。

『ニシノユキヒコの恋と冒険』の文庫本の裏表紙にはこう書いてある。


「ニシノくん、幸彦、西野君、ユキヒコ・・・・。姿よしセックスよし。女には一も二もなく優しく、懲りることを知らない。だけど最後には必ず去られてしまう。とめどないこの世に真実の愛を探してさまよった、男一匹ニシノユキヒコの恋とかなしみの道行きを、交情のあった十人の女が思い語る。はてしなくしょうもないニシノの生きようが、切なく胸にせまる、傑作連作集。」


ニシノユキヒコが10代の頃から60にもならずに死ぬまでかかわってきた、年代も性格もバラバラな女性たちが、思い思いに語ったエピソードで成り立っているオムニバスのような作品である。十人がしゃべり場よろしく座談会をしているわけではなく、ひとりひとりが一つの章を持っている。エピソードは、ニシノユキヒコの死後から始まり、次の章から、最も若い頃から時系列にそって展開され、一番最後に、締めくくりのような形で大学生時代の思い出が語られて幕を閉じる。


出だしで既に死去していることが語られることで、ある偉人の伝記を読むような気分で物語を追うことができる。このことは、ニシノユキヒコと一定の距離をとることでもある。彼は私ではないし、それはひとつの歴史としてあったことで、それ以上でも以下でもない、と。

裏表紙の紹介文にもあるが、作中で、女たちは様々な呼び方でニシノユキヒコを呼ぶ。正確に言えば、ニシノユキヒコの呼称が、様々な記述のされ方をする。それぞれの章は、その女性が自ら文章にしたものなのか、口で語ったものなのか、ただひとり夢想したものなのかは分からず、苗字と名前、漢字と記述が入り乱れるその記述のバラつきの理由も特に説明されるわけではない。

月並みに考えれば、呼称を変えることで、その人に"とっての"ニシノユキヒコであることを示そうとしていて、一つのエピソードを一つの光源として、多角的にニシノユキヒコという人物を捉えようとしているのだ、と言うことはできる。あるいは、こうだ。片仮名で記述することは、しばしばその言葉の抽象性を際立たせる作用を持つ。例えば、よく漫画なんかでロボットや異星人の「無機質な」喋り方を片仮名で表記したりするが、そうすることで、言葉から肉を奪い、その意味のみを抽出する効果がある。と、すると、『ニシノユキヒコの恋と冒険』と題されたこの物語で登場するニシノユキヒコという「意味」はなんだろうか、と考えるようになる。

様々に呼び分けられるニシノユキヒコを考えながら、前半で俺は「これらのニシノ、幸彦、西野君なんて、もしかしたら同一人物じゃないのかもしれないぞ。うっは俺ってば読みが冴えてる!」なんて思ったのだが、読み進めるとちゃんと、前の彼女が登場したり、イベントが重なっていたりして、エピソード毎が関連するように書かれてあるのに加え、ニシノユキヒコについて同様の特徴が語られるため、この「ニシノユキヒコ複数人物説」はやや無理筋かもしれない(とはいえ、最後まで、エピソード毎のニシノユキヒコが同一人物であるという記述は出てこないため、全くあり得ないという読みではない)。


ニシノユキヒコについて語られる同様の特徴というのは、ハンサムである、物腰が柔らかである、女の扱い(駆け引きからセックスまで)が上手い、浮気性だ(自分に彼女がいようが、相手が既婚者だろうが関係ない)、どこかつかみどころがない、彼からは愛されていないと感じる、などである。ともかく、基本的には申し分ない男なのだが、どこかしっくり来ない感じがする、そうだ。

そんなニシノユキヒコ、俺にしてみたら何が大変なのかよくわからないが、彼は彼で苦労があるようだ。彼は本当は一人の女性を永遠に愛したいと願っているらしい。だがそれが出来ない、そうすることへ踏み切れず苦悩していることが語られる。「僕はどうすれば本当に誰かを愛せるのだろう」というようなつぶやきが何度ニシノユキヒコの口から漏れ出たことか。

彼のそんな苦悩の源泉はどうやら家族関係にあるらしい。ニシノユキヒコにはいくぶん歳の離れた姉がいたが、その姉は子供を早くに失くし、自身も自殺をした。ニシノは姉をどれだけ愛していたのか知らないが、そのことは彼の心の"淵"として語られる。



イギリスの医学者ジョン・ボウルビィの本に書いてあったことだが、こんな実験があるそうだ。
猿だかチンパンジーだかの赤ん坊を母親と隔離し、「ミルクを出す装置と、木や金属の骨格を持った母親人形A」と、「ミルクを出さないが柔らかな毛布で出来た母親人形B」を並べて置いた部屋にいれておくと、ほとんどの猿だかチンパンジーだかは、人形Bから離れなかったそうだ。こういったことをボウリビィはアタッチメント(愛着)理論と呼び、人間にとっても重大なことなのだとした。

アタッチメント、多くの場合は母親を出発点にするが、そこが世界の中心であり、いつでも戻ってこられる安全基地として機能して初めて、人間はその外へ向かっていける、おおざっぱにいえば前向きに生きていけるというわけだ。



さて、ニシノユキヒコにとって、姉へのアタッチメント(愛着)が世界を安定させるだけのものとして機能していたとしたらどうだろう。姉を亡くし、世界が不安定になった彼は、新たな支柱を求めて女性を転々とするも、それが(姉が自殺してしまったように)永遠に続くとは限らない不安にかられるや否や、自分の世界を預けるだけの勇気を失くしてしまい、挙句女性の方から捨てられてしまう。セックスを媒介にした安心と絶望の自転車操業を繰り返しついに安寧を得ることなく死んでしまったニシノユキヒコ、女性たちが口々に「可哀想」と語る彼の人生は、こちらから見るほど華やかではなかったのかもしれない・・・






と、いう読み方だけでは、この作品を一面からしか読み込めていないと思う。この作品はニシノユキヒコに抱かれた女たちの語りによって成り立っており、いわゆる「地の文」が存在しない。全て登場人物のセリフであり、それは登場人物のパースペクティブを持つ。

この作品は、ニシノユキヒコという人物の物語であると同時に、彼に関わった女性たちの物語でもある。彼女たちの語る物語と、その語りそれ自体が層をなして作品全体を紡いでいるメタ性が重要だ。この作品で思い出を語る、そろいもそろってスレて、「不道徳」で、ダウナーで、内省だけはやたら得意そうな女性たちの物語だ。彼女たちを思わないではこの作品を閉じることはできない。

彼女たちはみなセックスについても恋についても淡々としていて、まるで「全てわかっている」ように語る。ニシノユキヒコのことも、自分自身のことも。果たしてどこまで彼女らの語りを信じていいのか?

みな、ニシノユキヒコに恋をし、抱かれ、そして彼から「去った」。どうやら彼女たちはみな、それが確然たる自分の意思であったのだと言いたげなのだが、ニシノユキヒコにまんまと慰みものにされただけだろうと言ってしまえばどんな顔をするだろう。


ところが、実を言うと、ここで俺の読みは歩みを止めてしまっている。ここから先を語るには、彼女らの(俺から見るとあまりに軽い)貞操観念や、セックスすることと愛することの同調と差異について思いをめぐらせないとならないからだ。以前、性愛について竹田青嗣を引用しながらブログを書いたことがあったが、ああいった感覚はこの作品にはそぐわない。もっとカジュアルなものとして、より身体感覚に近いものとして捉えないとならないのではないかと考えている。

それが出来ないから、俺は、既婚者がニシノユキヒコと不倫することになんら悪びれる風でもないことや、セックスを力みなく語るさまに苛立つことくらいしか感想を持ちえなかったし、共感や反発といったレイヤーで鑑賞することがかなわなかった。端的にいうと、ニシノユキヒコのことも、その女性たちのことも「何もわからなかった」というのが、恋愛やセックスという切り口で鑑賞した際の素直な感想だ。



ところで、この、なんだろうな、セックスを何気ないことの風に語ることのかっこよさってなんだろうな。俺がかっこいいって思ってるわけじゃないけど、やけに腹立たしいんだ。語ってる方がいい気になってるからだと思ってるんだけど、これは僻みなんだろうか?川上弘美が、こうした女性たちの語りについて、どこまで「狙っていて」、どこまで「マジ」なのかわからないけれど、なかなか策士である。


俺が幸福を祈りたいのは、ニシノユキヒコよりも、むしろ彼女たちの方なのだ。性の語り手たちに幸あれ。世界を見つけられますように。