安部公房『カーブの向こう、ユープケッチャ』

好きな作家は誰かと聞かれれば0Fで安部公房と答えるのがこのブログの書き手である。

そう言いながらも全作品読んだわけではないのだが、タイトルくらいは概ね網羅しているつもりでいた。しかし、ブックオフで聞いたこともない短編集をみつけたので買って新幹線で読んでいた。それが、『カーブの向こう、ユープケッチャ』だ。

収録されている作品は1955年〜1980年と、幅広い年代の小品だ。恐らく、安部公房文学の中では光があまり当たらなかったものが多い。解説にもあるが、表題の2作はじめ、後に長編作品として書き直される原型といえるものがいくつかあり、知名度から言えばそちらの陰に隠れているといった具合か。

ファンとしては、長編の原型になった短篇というのは興味深いし、特に「砂の女」の原型「チチンデラ ヤパナ」は「砂の女」の途中までほとんど同じような内容なので非常に興味深い。

安部公房文学は、「内と外」や「能動/受動」といった構図の”逆転”が、重要なファクターとして作品内で機能し、人間存在を冷徹に捉え返す試みとして文学が稼動することになるのだが、本短編集でもそれは多く見られた。

例えば「カーブの向こう」では、町、具体的には居住用の建造物群が、自己と乖離した存在として定位されるとき、自己の存在が途端に危うくなり、言いようのない不安に襲われることになる。

自己を内的に求めようとすればするほど、外的なものを志向することになるこの逆説的な煩悶は、安部公房が生まれ故郷の満州を追い出されたこと、また満州が都会であったことなども大きく影響するのだが、しかし、安部公房文学を、彼の境遇のたとえ話だなどと考えてはならない。

安部の作品において、厳密な固有名詞が当てられている登場人物というのはほとんどいない。本短編集においては、「手段」(1956)や「完全映画(トータル・スコープ)」(1960)で固有名詞がみられるが、それ以外にはイニシャルや、あるいは名が伏せられたままに代名詞で呼ばれたりする。「デンドロカカリヤ」という短篇(本短編集には収録されていない)では、主人公にはコモンくんという名前が与えられている。英語でcommonという語は、コモンと発音するが、「ありふれた、普通な」なんて意味の形容詞だ。安部が登場人物に固有名詞を与えず、またその舞台も実在の、特定の場所を明記しないのも、安部文学が一つの寓話、あるいは神話としての読みを許容するものだからだ。

突然、自分の家が分からなくなるのも、植物や壁に変身するのも、明日、私や君に起こるかもしれないことだ。その恐怖がユーモアに包まれて提供しているのが安部公房という作家だと思う(そもそも、ユーモアとはそんな恐怖なしには成り立たないのかもしれないのだし)。



本短編集の話に戻るが、これ、ぶっちゃけそんなに面白くはなかった。俺が好きな安部公房って感じではなかったのだけど、安部のお得意の大どんでん返しや、焦燥を不安を煽る展開、砂や壁といった安部文学の中核をなす概念などが、粗さを残しながらも集約されているので、時折たちかえって読み返したい本。