『アベンジャーズ』

俺は小さい頃からスーパー戦隊仮面ライダーウルトラマンといったヒーローものを見て育った。このことは特に重要なことではないのかもしれないが、高校あたりで、ヒーローものについての関心度や引き出しでギャップを感じることがある。○○レンジャーの変身ポーズを知らなかったり、エメリウム光線ウルトラセブンが額から出すビーム)を知らなかったりするのだ。おいお前らチ○ポついてるのか、お前の"漢"はどこにあるのか。ヒーローものは男の子の永遠の夢だ。男の子はいつも、ヒーローが立ち上がり、敵と対峙するその瞬間の光で世界を照らして生きていくのだ。かの哲学者ボーヴォワールは「女に生まれるのではなく女になるのだ」という有名な言葉を残しているが、男の子もまた、男の子になるのだ!それはヒーローによって!マッチョ!アイガッタッビー!ア・マッチョッマーン!


いや、ジェンダーの話がしたいわけでなく『アベンジャーズ』の話だ。


『アイアンマン』から始まった「マーベル・シネマティック・ユニバース」の世界線の一つの到達点たるこの映画は、上映前から各種メディアで大いに取り沙汰され、興行収入も世界で10億円を超えたらしい。


マーブルコミックの作品が映画化されるより以前、日本にはマーブルvsカプコンという格ゲーがあった。キャプテンアメリカやハルク、スパイダーマンといったキャラが、日本の格ゲー界を代表するリュウだのチュンリーだのと戦う、それは夢のある格ゲーだった。俺の場合、マーブルへの入門はこうしたクロスオーバーから始まったわけだが、特異能力をもったヒーローたちが悪者と戦うシーンが格ゲーのシーンから脳内に逆輸入、逆向きのオーバーラップが起こって、そりゃあ楽しんだものよ。


アイアンマンもハルクもソーも、一つ一つが大事なヒーローだ。一人一人が○○レンジャーで、仮面ライダー△△だ。そんなヒーローたちが大集合の『アベンジャーズ』だが、日本にもこの手のクロスオーバーというのはよくある。○○レンジャーvs△△レンジャーだとか、ウルトラマンvs仮面ライダーなんてものも。そういった手合いはもれなく胸を躍らせてみていたものだが、この『アベンジャーズ』もまた、期待をまったく裏切らない出来栄えだったと思う。


何がいいって、まず序盤でヒーロー同士が戦うところがいい。こうした展開、序盤で荒々しい邂逅をし、中盤で混乱、終盤で団結して悪役を倒すという展開は日本のクロスオーバーものでも鉄板の展開で、安心して盛り上がれる。またみんなバカ強くて、各々の映画では敵無しなので新鮮な楽しみがある。特に、機械に身を包んだアイアンマンが生身のソーにリパルサーレイをぶち当てるところなんて爽快だ。


この手のクロスオーバーの悪役には気を遣うところだと思う、物語全体の方向性を決めると同時に各ヒーローの物語内に占める重要度が決まってくるように思うからだ。
その点、ロキを選択したのは良かったと思う。何故といって、ロキのあの小物感!悪役なのに危機感を煽らない!ぜんぜん負ける気がしない!でも一応神様でタフネスはあるし、ヒーローたちの引き立て役としておいておくには最適な選択だった。またロキが引き連れてきた未知の軍団というのも、これといった説明もなく、物語上で大きな意味をもたない、映像と時間の空白を埋めてヒーローを動かす歯車として機能するような連中に描くに留めたのも結構なことだったと思う。

また各々のキャラもちゃんと立っていていい。特にキャップ。さすがに70年も眠っていると知識が足りないか、アイアンマンに呆れられてるところが可愛い。その端正な顔立ちと時代錯g・・・素直なヒーロー像もあいまって、愛すべきキャプテンになっていた。


ところで、昨今のアメリカ映画は、ヒーローのヒーロー性、善悪二元論脱構築がどうも好みらしい。クリストファー・ノーランバットマンシリーズやスパイダーマン、ウォッチマンなど、アンパンマン的な勧善懲悪物語にはいい加減に食傷気味なのか、ヒーローが怪物を生むとか、怪物には怪物なりの正義があるとか、そういったテーゼがしばしば織り込まれているようで、本作も例にもれず、アベンジャーズへの活躍は賛否両論といった具合で幕は閉じる。

だが、そんな「物語」はどうでもいいのだ。

「日本よ、これが映画だ」のキャッチコピーはあまり評判がよくなかったようだが、俺は映画の一つの側面、エンターテイメントとしての側面を重視するならば、確かに「これが映画だ」なと納得してしまう。今年は『アイアンマン3』や『マイティ・ソー2』も公開されるという。楽しみにしてる。