『恋愛論』補遺

結婚がゆくゆくはお互いにお互いを利用しあうような、自分を愛するための道具として扱うような関係になっていく、というのは、差しあたって自分の両親を見ている限りはそうは思えないが、そういうことはありえるし、それは結婚という法的な手続きを踏む段階でなくてもそうだ。また、性欲が嫉妬を(しかも愛情と無関係に)生み、自己を苦しめるということも、大いにある。

だが、俺が擁護したいのは、恋愛の一人称性と「現在」が「永遠」に接続するような契機を持つことだ。

たいてい、恋愛は体験として語られる。哲学として、ロジックとして恋愛を語るようなことはほとんどない。それゆえに軽んじられるということもあるだろうが、俺はそうは思わない。体験はなによりも「正しい」。恋愛が劇物のように、強烈な快楽と同じだけの失意をもたらすものだとしても、それを求めること、その契機に対してNOを突きつけることは間違っている、というか、NOを突きつけようがないのだ。

原初的な体験があるかどうかというのは、恋愛に限らず一つの問題だが、俺は恋愛の契機は、名付けられたから存在するものではないと思う。彼に触れたい、彼女のそばにいたい、そういう感情を性欲の産物と切り捨てるのは、たとえそうであっても、乱暴すぎる。自分がそう切り捨てずにいないと気が済まないとして、それが自己欺瞞である可能性を等閑視するのはやや偏狭ではないか。

先に書いたように、性欲の言い換えだといって恋愛を唾棄するのは身体の魔力の是認であり、遠ざけるのと逆の手で美にして崇高なるものを捉えようとする試みであるが、ところでその性欲とやらはどこからやってくるのか?

生殖本能だとするなら、もっと馬鹿馬鹿しい。そういう運命論的なニヒリズムはもうまっぴらだ。じゃあぜんぶ本能、人間は機械、それで結構ではないか。で、それを言ってどうなる?自分の生について何か救いになって、苦悩は晴れ、未来は開けただろうか。そういう身体から離れたものを、いつだって我々は文化的、身体的に読み換えてきた。一人称の生はその読み換えの場だ。

特定の条件がそろえばセクシャリティに応じてわいて出てくる虫みたいなものだとすれば、それを恋愛感情と呼びなおして何がいけないのか?どっちにしろ言葉が身体を離れるだけだ。竹田が言うように、こうした場において心身二元論固執しては袋小路で、性はとにかく身体!”けっきょく”カラダだけが大事なんだろ!という吐き捨ては、あまり響かない。いつだって我々は身体しか見えない。カラダ以外の何かが見えているのだろうか?それなのになぜか、心身二元論は未だに根強い。性欲を排除しようとする一方でどこまでもそうでない何者かを確保しようとする。いや、こうした二元論自体が問題だというか、恋愛という場においては、そうした枠組みから超え出ているはずなのにその枠にいれようとすると無理がでるのではないか。

恋愛は上手くいくことも失意の坂を転がることもあるが、いずれにせよ、そのうちに終わりを向かえる。このことは、恋愛を虚飾と断じたくなる理由のひとつだと考えるが、だとすればそれと反対に、真実とは永遠普遍でなければならない。しかしその真実の担保が今更どこにあろうか?その信念の儚さは美しいが、いまやむしろ、「わたし」が何を信じ、何を信じないかという段階ではないか。

俺は、冷静なほうが「正しい」とは思わない。その強度は同じだけのものだと思うし、むしろ冷静である(と思ってる)ことにかまけて自分自身にぞんざいになってやしないか、それこそ虚飾の冷静さではないのか、と思うわけだ。