『恋愛論』&『クロイツェル・ソナタ』

今回は映画の感想でなく本の感想(というかこのブログは映画紹介ブログではないのだからそんなエクスキューズをする必要はないのだ!調子にのるな!)

俺はかれこれ20余年、恋愛と縁遠い人生を送ってきたし、これについて何か思わなければならない機会もなかった。未だに胸を張って恋愛経験があるといえるわけではないけれど、ここ一年くらいで周りの環境が変わり、それに伴って俺自身にも、このトピックについて考えなければならないような事情が生まれ始めてきたわけでして・・・・というとなにやら怪しげだが、相変わらず彼女ナシ。

そのタイミングで、友人から借りて読んだ二冊の本が、トルストイの中編『クロイツェル・ソナタ』と竹田青嗣の『恋愛論』だ。その後で個人的にトルストイの短編『イワン・イリッチの死』を読んだ。漠然といろいろ思ったんだけど、あんまりまとまらないし肝心の自分の体験がないしで書けずにいたんだけど、ほんとここ二三日くらいに俺が見聞きした幾つかの出来事をうけて、書こうかなという気持ちになったのである。


トルストイの二冊の本から紹介しよう。まずは『クロイツェル・ソナタ』。列車の中で旅行客たちが結婚についてアレコレ議論していると、乗り合わせた一人の紳士がいきなり自分の体験を話し始めた。いわく、最初は幸せな結婚をしていたが、徐々に妻に不審が募り、浮気を疑って最後には刺殺してしまったのだという。

あっさり書いてしまったが、これだけなのだから仕方ない。物語はほぼ、この紳士の独白に終始する。妻と出会う前から、ナイフで刺し殺すまでのその半生を語って作品は幕を閉じる。内容を詳しく書いたらキリがないが、この作品が一貫して掲げているのは、性欲が如何に愚かしく、また結婚とか恋愛とかいうものが如何に欺瞞に満ちているか、純愛なんてクソ食らえだ!というようなある「真実」である。

なるほど最初は、彼女と一緒に過ごす幸せな未来が待っていると思うかもしれない、だが結婚をし、毎日を過ごす中で湧き上がってくるのは嫉妬と憎しみばかり。些細なことで口喧嘩をし、セックスによって一時的に仲直りをしてもその余韻が冷めるやいなや再びいがみ合い。これっぽっちも愛していないのに浮気されたらされたで、殺してやろうとばかりに燃え上がる歪な炎・・・これのどこが愛なのか?すべてはエゴ!エゴのためだけに存在している!どれもこれも全部セックスが悪い!人間を堕落させる!

手元に本がないので引用できないが、概ねこんな具合で、トルストイの思想はガチガチなプラトニズムで形作られている。彼がこの作品を書いた時代から「精神的な愛」というものを身体と区別して考えることはあったらしいが、トルストイはそれを一笑に付している。それは身体をメディアにしたエゴイスティックで野蛮な快楽を精神とかいう崇高なものにすり替えているだけだ、恋から冷めてみろ、あの時間はなんだったのかと思うだろう!

トルストイは作品に君臨している」というのはロシア文学の教授の談だ。トルストイの作品はほとんど彼の思想書であり、トルストイはいつだってある「真実」を書いている。


補足的に『イワン・イリッチの死』についても書いておく。これは、裁判所につとめる平凡な官吏が苦しんで死ぬまでを書いたものだ。つまづきのない、平凡な、しかしそれなりに結構な人生を歩んできたイワン・イリッチが病に倒れ、ウンウンうなりながら家族に当り散らし、終盤で遂に救済されて死ぬ、という話。救済されて、とはどういうことか、というと、よくわからない。ともかく救済されるのだ。苦しみから解放される。身体の苦しみでなく、精神の苦しみから解放されるのだ。突然、悟りを開いたように。

大学の知り合いがこの作品を通じて、死とは何か?という問いを立てようとしていたが、俺はこの作品は死を扱ったものでないと思う。死というよりも、エゴ、生きているとはどういうことかの作品だと思った。エゴイスティックであるということは、何も、自分だけピザを多く食べるとか、歩きタバコをするとか、そういうことだけを意味しない。例えば、私が存在しているということそれ自体。電車で私が椅子に座っているせいで誰かが立たなければならないとか、たぶん、そういうレベルでの話。だからこの作品で、死に行くイワン・イリッチは、最後の最後で自分のためでなく、真に他者のために生きることに目覚める。それによってエゴから救済される。隣人愛とはかくありや。


とはいえ、『イワン・イリッチの死』は恋愛の話ではないのでとりあえずおいておく。


竹田青嗣の『恋愛論』は(竹田青嗣を知る者には言うまでもないことだが)、小説ではない。竹田青嗣は哲学者であり、フッサールハイデガーニーチェといった近代西洋哲学研究者としても名高い。そんな竹田が恋愛について自らの思うところを述べた評論である。竹田シンパの俺としては非常に飲み込めるところが多く、タイトルに先に持ってきたのも、こちらの方が視野が広いと思ったからだ。この著作には多数の文学作品が引用されており、その中には『クロイツェル・ソナタ』もある。

竹田いわく、恋愛について、身体と精神、エロティシズムとプラトニズムの二項対立で語ろうとすると必ず無理がでる。恋愛はそういうものでない、そうだ。竹田は既存の二項対立を脱構築するのが好きなようで、よく見かける。もっともらしく見せるには有効な手段だ(失礼)。

トルストイは、確かに一面の真理をついてはいるものの、いつだってプラトニズムに立ってる、冷めた視点に立っているからして、恋愛を捉えきれていないのだという。
思うに、これはトルストイが描く「真実」の、否、「真実らしさ」の性質によるものだと思う。

端的に言えば、冷静なほうがもっともらしく見えるということだ。宝石だと思ったものがよく見たらなんてことない石だった、なんて具合に。恋愛においても、彼を愛し、彼もまた自分を愛している間はアバタもえくぼ、水道水も甘露の趣である。しかし恋が冷めれば現実はどうか、あの頬骨が気に入らないとか、セックスなんか誰としたって大して変わらないじゃねーかとか思えてくる。

そこでトルストイは言うのである。あれは欺瞞だった、ぜんぶ嘘、性欲に服従してしまって粉飾されたハリボテを信じ込んでいただけなのサ、と。

こうした冷めた視点はある種の人たちにとっては救いになる。恋愛に疲れ、なにがなんだか分からなくなって辛くなってきたところに、それはジョークみたいなものだったんだという衝撃的な通達が届けば、なるほどそうかと言ってニヒリスティックに振舞うことになろう。パートナーへの不審も自分への不審も、全て性欲と、それにひっついてくるエゴのせいだ、それが真実だ、所詮そんなものなのだから仕方ない。そうして、一周まわって、暗い影を見せながらも性も愛も肯定することになる。どうせ茶番、真実は私の手に。さてさて、同じアホなら踊らにゃソンソン。


これに対して竹田は、恋愛はそういうものでなく、他者を愛するということが同時に自らを愛することになるような事態のことだという。美のイデアをそこに見出すような体験が恋愛だ、トルストイはその片面しか見ていない、と。なるほど確かに、性欲と愛情は密接に結びつくだろうし、それに伴ってある所有の心理が芽生え、トルストイの言うようなエゴの衝突ということもあるだろう。だがしかし、それでも恋愛は、ある宗教的な響きさえ鳴らしながら我々の人生を彩るものだ、と。

竹田の本を読んでいると、「そうあってほしい」と思うようなことがしっかり書かれてあって安心するのだが、トルストイ主義者とは水掛け論だろう。竹田が想定している恋愛とはツルゲーネフの『はつ恋』のそれのような熱狂的なものだが、それこそトルストイ主義者が欺瞞と蹴り倒すものではないか。


トルストイ主義者、と言っているが、俺は、トルストイのような恋愛観をもっている人はけっこう多いように思う。「恋人」とか「浮気」「つながり」なんてワードに疲れてしまって、もう正規の恋愛市場からドロップアウトしたいような人たち。
確かに、恋愛にまつわる様々な言葉は身体から浮遊している感がある。どこまでいったら恋人なのか、浮気になるのか、恋人の権限はなんなのか、セックスは恋人としかしないのかetc・・・

こうした自問の雁字搦めはニヒリズムと相性がいい。全部抱きかかえたまま身投げするようなもんで、カタがつくのが早い。

し か し 

俺はこうしたトルストイ的なニヒリズムについては、むしろそれこそが自己欺瞞ではないのか、という気持ちがある。

トルストイは「精神的な愛」を鼻で笑うが、それはそんなものが無いから、ではなく、むしろ誰よりもそれを求めているからだ。愛をだれよりも大事にしたい、真っ白なままで確保しておきたいからこそ、欺瞞を憎むのである。
トルストイによって救われるある種の人たちもまた(それはトルストイを読んでいるかどうかは関係ないのだが)、目に見えない真なるものを求めているのではないか?性欲を憎むが、それは肉の力が精神に対して、あるいは個人の生に対してどれだけ強力に作用するかを知っているからだ。これは諸刃の剣なのだが、彼らトルストイ主義者は心優しい。配慮を知っている。道理が通らないこと、倫理に反すること、そうしたものを拒む。高潔だからこそだ!だから、肉体の副産物たる嫉妬を恐れる。嫉妬は確かに、これほど苦しいものはない。俺なんかいまのところ、人生の苦悩のほとんどが嫉妬みたいなもんである。嫉妬は心をジリジリと焼き、私を寝室にのたうちまわらせる重度の熱病みたいなものだ。そこにロジックはない、嫉妬はただただ燃え盛る炎だし、消そうにも消せないから時おり暴力という形でアウトプットされる。恋愛が行き着く先が性欲であり、嫉妬の業火なら、初めから唾棄したほうが懸命だろう・・・しかし、恋愛に疑義を呈そうとしない市井の人々も、トルストイ的に恋愛を見る人々も、その信念の核になっているものはそう変わらない。ビー玉をルビーと見間違えたとしても、その見間違えたこと自体は疑えない。その疑えなさは「ルビーだと思ったもの」を「ビー玉だ」と上書きしようとも変わらない。恋愛の核はこうした疑えなさにあるのであり、情緒のアップダウンによる「それらしさ」ではない。

このことはひとえに、一人称の生に関わってくることだ。恋愛が、上滑りする言葉や野蛮な性によってどうも疑わしいものだと思えてきたとして、それで、彼(彼女)が好きかもしれない、ということがどうして脅かされようか?

その人のどこが好きか、ということを言葉にするとどこまで言っても上手く言えないということがある。言葉は”それ”自体を名指すことはできないからだ。恋愛に関する言葉の上滑りもここからくる。どれだけ言葉をつくしても、自分の内奥にある鼓動や相手の立ち現れを示すことができない。それでもそれは疑えない!恋する者たちは声を大にして叫ぶのだ、「好きだから好きなのだ」と。このトートロジーでしか言えない在りようこそ!

仮に、その疑えなさが、文化や社会、あるいはごく狭いコミュニティにおけるある雰囲気による構造的な産物だとしても、そんなことは「わたし」には関係がない。「わたし」に分かることはその人が好きだということ(どこまで言っても言葉では言い尽くせないが)だけであり、その先で性欲による嫉妬や失望が待っていたとしても、そうした未来が「好き」の契機に際して、これを否定する文脈の中で「だから」と接続されることはない。


トルストイ的なプラトニズムは、裏返しに肉体の強力さ、不可避な魔力を示すが、生きること自体が身体を伴う以上、このことに対して意固地になっても天にツバをするがごとく、自らに返ってくる。辛いだけだ。とはいえ、この辛さは彼らの高潔な志に由来するだけになんとも、それをやめろ、と言えないのだが、必死になって恋愛を欺瞞としたい自分自身が、まるで恋愛のそれのように熱狂的ではないか、と思うことはしばしばある。


どっちみち、俺にはあまり関係のない話だが。