目の前の馴れ合いもためらいも

晴れ。なんか涼しくない?いつも梅雨前には夏ですか?みたいな感じだったような。こんばんは、原つむぎです。

昨日、書きたいことがないということを書いていた。その理由は自分の中にあった思想の泉が枯れてきたからだということにしていたが、もうひとつ理由があるような気がしてきた。即ち、"自分はそのことについては分からない“ということに自覚的になってきた。テレビはあまり見ないし、お外へ積極的に出かける方ではないので、わたしと社会を繋ぐのは会社かネットしかない。会社のことをみだりに書くのもリテラシーがないので、あとはネットで見た話題を書くかどうか?みたいなところだが、それがどうもやる気にならない。政治や経済の話は知識が全然ないのでそもそも話がわからない。それ以外にも恋愛とか夫婦のこと、親子関係のこと、ネットユーザー同士の小競り合いなどネタには溢れているが、ネットの情報はあまりにも断片的だし、情報が少なすぎる。片方から見ればすごく悪い(すごく良い)話でも、相手方から見れば全く逆に見えているかもしれない。書き方が曖昧で意味がつかみにくい。そもそも何が問題なのか明言されていないなど、そのことについて私見を述べるに至れないことが増えたのだ。これはいいことだと思う。よりきちんとしたことを言おうとすれば当たり前にこういう態度になるはずだ。そして、きちんとしたことを言えないのであれば沈黙しようというのも誠実だと思う。ただ、結果として、俺は何も呟かない、ただアーとかウーとか呻くだけのおじさんになってしまうのが問題だ。10年前は、そうした複数の視点というのを完全に無視、自分の視野の中だけで話をしていた。これは社会経験のなさゆえの蛮勇であり、勢いで駆け抜けられるネットの華という感じもする。

少し言葉足らずだった、今でも俺は俺の視野で話をしているのだが、その視野の角度が、社会によって増えたのだ。自分がそうするときはどういう場合か?相手はどんな都合がありうるか?などを経験的にわかるようになった。社会だなあ。きっと、多くの人は、大学生ぐらいからこんな感じだったのだ。バイトにサークル、恋愛。成就と挫折を繰り返し、社会を身につけていく。道理で馴染めなかったわけだ、市井を憎むわけだ。こんなにも未知なる他者に囲まれていては。こんなにも普遍が遠い世界にいては。