『ももへの手紙』

予告編の妖怪二匹とももとの謎のダンスが可愛くて気になっていたのがこの映画。

父が事故でなくなり、母親とふたりで田舎の親戚宅へ越してきた小学6年生のもも、都会そだちの彼女は少し人見知りで、田舎生活に慣れないままだが、そこへ三匹の妖怪が現れる・・・

予告編であらすじだけでなく何が起こるかも概ね予告編で出てるので(単発のハートフルアニメ映画なのでそうしないと宣伝にならないのかと思う)、映画の全体像は想像に難くない。劇場アニメ映画にありがちな萌え志向の薄いキャラデザや、ド田舎という舞台、亡き父親とその形見、コミカルな妖怪たちと、いい映画の予感と共になにやら既視感も漂う作品だが、それを裏切らない出来上がりで、『となりのトトロ』ミーツ『サマーウォーズ』といった趣。作画監督美術監督が二人ともジブリに関わっているせいか、ジブリ感満点である。

サマーウォーズというが、インターネットはおろか、携帯電話も、自動車さえ出てこない。ケータイ持たせたったらええやんって思う場面はいくつかあるが、年代を確定的に設定しているわけではないし、そういう冷めたツッコミは野暮か。


妖怪たちは(仮の姿なのだが)「そら」からやってきた。昔は人間たちに恐れられ、たいそう悪いことをしたらしいが、お偉いさんに怒られて今ではその下っ端をやっている。その彼らによると、人は死ぬと一定期間地上に漂った後に「そら」に旅立つのだという。そして彼らは、故人が地上から「そら」に移動している間に残された大切な人を見守る役目をおおせつかっているというわけだが、この「そら」という表現が面白い。

わざわざ平仮名で括弧までつけて「そら」と表記しているのは、俺が勝手にそうしてるのだが、異界に対するこうした感覚が、この作品を鑑賞する上で重要だと考える。

「草葉の陰から見守る」という表現があるが、日本の土着的な異界との接し方は生者の身体から展開していくものだった。今作では「そら」だったけれども、いま見えているものの「向こう側」に異界がある。その「向こう側」は自体は見えていないんだけど、しかし例えば地獄とか天国とかっていうものとちがって、この世界と地続きになっている。妖怪にしたってそうで、作中で妖怪については「落ちぶれた神様」という説明がなされている。つまり、神様っていうのは善とか真とかそういう観念的なものでなくて、強大な力そのもの。今作でも嵐の描写があったけど、天候とか自然現象を神の御業とする。日本の土着信仰はアニミズムだーなんてよく言われるけど、分からないもの、未知なるもの、しかして強大なものを崇める、というか、媚びへつらうというか、そういう形で自然を自分の味方につけようとするような在りようが日本特有のものとして考えられているようだ。

つまり、この宗教観は徹頭徹尾、生きるための信仰になっている。そりゃ宗教なんかみんな生者のためだが、死後の不安とか世界の終わりとかっていう未来の不安からの救済でなく、よりよくいまを生きるための信仰として根付いている。だからこそ日本には仏教が、死の場面においてだけ根付いた。アニミズム的土着信仰には死への関心が足りなかったからこそ、それを補うための観念的な救いが必要だったからこそ。

生きる身体から世界像が展開される宗教観、死生観の中で、小学6年生のももと母親が変容しつつ笑いながら生きていく有様には健やかな感動がある。


とはいえ、都会から田舎にやってきて最初は馴染めなかったけど最後には田舎も悪くないなみたいになって打ち解けるとか、母親との喧嘩とその解決、雨の中母親のためにがんばるとか、肝心の家族の愛って部分にはあんまり目新しい感じがしないし、父親の存在も、ずうっと本編に関わってくる割には印象が薄め、終盤の、タイトルから溜めに溜めた泣き所も、まぁ見え見えだった。「期待を裏切らない」ことも一長一短である。

なんて言いながら、十分に楽しめたし、その見え見えの泣き所でボロボロ泣いてしまったので、この映画の勝ち。