ネタバレならびに「物語」について

市井には、ネタバレを大変気にする人たちが数多いる。

だが、俺の思うところでは、ネタバレがその作品の面白さを損ねることはない。
これはひとりよがりでなく、恐らくほとんどの人たち、ネタバレ憎しな人たちでさえ、ごく当たり前に感じているところのものなはずだが、何故かそれに自覚的でないことがしばしばあるようだ。

様々な世代に繰り返し鑑賞される国民的な作品というのは、文学にしろアニメにしろ枚挙に暇がないわけだが、例えば『となりのトトロ』なんかをテレビでやったとして、初見の人たちがどれだけいるだろうか?一度見た人はもう興味もさらさらなく、他に面白い番組もないせいでうつろな目でテレビを眺めることになるだろうか。

そうでなくて、何度見たか分からない『トトロ』を見るときには単に好き嫌いによって鑑賞の態度が変わるのであり、「物語」を知っているか否かでは変わらない(ところで、巷にはジブリアレルギーというべき感性を持ち、ジブリ映画が、つまらない、怖い、最後まで見れずに寝てしまうなどといった理由から、マトモに見られない人たちがいる。どういうわけか知らないが、可愛そうなことだ。せっかく日本で生きているのに。アンコが嫌いな友人の桜田と同じくらい人生を損していると言っていい)。

映画にしろ漫画にしろ、「物語」を持つあらゆる作品は、その「物語」なんかを鑑賞における面白さの核に持っていることはない。推理小説でさえそうだと思う。


例えばカフカの『変身』は、ある日起きたら毒虫に変身していたグレーゴル・ザムザが、それでも世話をしてくれた妹についにキレられてリンゴぶっつけられて死んじゃうっていう話。だが、こうしたあらすじには、『変身』という作品の姿はどこにもない。いくら詳細にあらすじを語ったとしても、だ。つまり、『変身』という作品を知るには、『変身』としてかかれたテキストが、その分量がどうしても必要なのだし、それはしかし、「物語」のことではない。

文学作品は、ナラティブと「物語」の二つの要素から出来ている(この「物語」というのも、プロットとストーリーに分けられるのだけど、それは今は重要でないのでひとつの筋としてまとめられるものを「物語」と呼ぶ)。ナラティブは文学にしかない形式であり、これによって文学は他の表現形式に取って代わられることなく文学であり続けられし、ネタバレが重要でないということの論拠でもある。

ナラティブという言葉は、「語り」、すなわち書かれ方、表現のされ方のことを意味する。ネットでよくみるコピペにこんなのがある。


◆小説
「後ろで大きな爆発音がした。俺は驚きながら振り返った。」
ケータイ小説
「ドカーン!びっくりして俺は振り返った。」
ラノベ
「背後から強烈な爆発音がしたので、俺はまためんどうなことになったなぁ、とか
そういや昼飯も食っていないなぁとか色々な思いを巡らせつつも振り返ることにしたのである」


このコピペは色んなバージョンあるけど、いちいち全部抜き出す必要もない。
この三つの文章はいずれも同じ内容を描写しているが、書かれ方が異なっている。言い換えれば、この三つは、同じ「物語」と異なったナラティブを持つ。
文学作品を読むというのは、つまりナラティブを味わうことであり、「物語」を消費することを意味しない。だからこそ夏目漱石でもトルストイでも、何度でも読み返すという行為が可能になるのだし、ネタバレとかいうものも失効するわけだ。


ところで、このナラティブと「物語」の構図は文学固有のものであるが、こうした見方はアニメや映画でも同じことだと考えている。もっとも、アニメや映画は映像媒体なので「ナラティブ」という語を使うことには違和感を覚える。しかし俺は、実はこれについての適切な用語があることを知らない(教えて欲しい)ため、「現れ」という手前勝手な呼び方をしている。

映像作品における「現れ」は文学におけるナラティブみたいなもので、その演出(これが適切か?)とか作画とかそういう、「物語」を表現するものの総体であり、我々が鑑賞しているものそれ自体を意味する。

例えば機動武闘伝Gガンダムでは、「さらば師匠!マスターアジア、暁に死す」というサブタイトルの回がある。マスターアジアというのはこの作品のメインキャラで、こいつが死ぬというネタはそりゃあもうインパクトがあるはずなのだが、なんとサブタイトルでネタバレである。

しかし、そのネタバレによってこの回の面白さが減じられることは何もない。それどころか、どのように死ぬのか?何を語るのか?そういうところに安心して意識を集中していられるからかえって面白くなるくらいだ。

俺がナラティブとかの話を学んだとき、「物語を消費するだけならアニメの方がよっぽど手っ取り早いじゃないですか」っていう言われ方をしてたのだが、それはやや不当で、文学にナラティブがあるようにアニメや映画にはそれ特有の表現があって、「物語」のみを消費しているものでないと思う。

あらゆる作品は、ナラティブや「現れ」なしに「物語」を表現し得ないのであり、その作品を鑑賞するということはひっきょう、そうした表現のありようを受け止めることになるため、ネタバレという、単に「物語」にのみ関わってくる問題は作品の本質的な部分を減じるものでないわけだ。

らき☆すた』や『けいおん!』なんかの日常系アニメについて、「内容が薄っぺらい」とか「起承転結もなく退屈」という感想を言う人たちがいるが、彼らは作品をめぐるこの二つの構造を素通りしたために、鑑賞の姿勢を間違えている。日常系アニメは、これまでのアニメ、ガンダムとかなんでもいいけど、そういう作品にあったような形の「物語」を放棄したジャンルで、そこでは「現れ」がより大きな位置を占めることになる。だからこそ、『らき☆すた』や『けいおん!』について言えば、京アニの緻密な作画や過剰な演出(いちいち髪が揺れるとか)が重要になってくる。そうしたジャンルに対しての好き嫌いはあれど、単に「物語」のみに着目して語ることは日常系アニメにも、あるいは彼らが賛美する古きよきアニメに対しても不当なことだ。



しかし、「物語」信仰に理がないわけでない。いくら「現れ」が大事だとしても、我々は作品を語るときには「物語」を語ることが多々ある。ガンダムとはいかなる作品であったか?けいおん!の最終回で泣いてしまうのは何故か?そうした問いは「物語」に回収されるし、それが「現れ」とどのような関係を持っていたのかを明瞭に区分することは難しいだろう。文学についても、『カラマーゾフの兄弟』の意味を考えようとすればどうしても「物語」に当たらなければならず、そこではナラティブは半ば等閑視される。

さきの日常系アニメへの批判と対照的に、こんなことを言う人もいる。「ごちゃごちゃ難しいこといわないで黙って楽しんだらいいのに」「余計な意味づけなんかしてたら面白くないジャン」。彼らはナラティブ主義者である。ナラティブそれ自体を語ることは難しい。ナラティブは読み手によっては翻訳できない。つまり、芥川が200文字かけた表現はその200文字によってしか成り立たないのであり、こちらで手を加えて語るということはできない。もっとも、何故その200文字を費やしたかを考えることはできるし、あるいは作品の構造を分析することもできる。たぶん、いま文学批評とかアニメ批評とかやろうとすればこういう形で、「物語」から距離をとりつつ作品を紐解くスタイルがスマートなんだけど、これってかなり専門的で、そういう勉強をしないとできないと思うから、素朴に鑑賞するってだけなら「黙って楽しむ」ってのは一番真摯といえば真摯。

「物語」がその作品に触れようとする契機になることも大いにあるだろう。面白そうなあらすじだから読んでみよう、見てみようというモチベーションは、これまた素朴な態度としてよく分かるし俺もそういうときがある。そういう人たちが、自分のモチベーションのためにネタバレを忌避するのも分かるが、しかしいま書いてきたように、実は作品の面白さとかいうのは「物語」にはあまりない。「物語」が面白くても作品がつまらない例なんていくらでもあるのだし。


そんな具合で、俺はこのブログでのネタバレは基本的には厭わないし、みんなそういう風に鑑賞する態度ができたらもう少し視野も広がるだろうと思う。