『かいじゅうたちのいるところ』

この映画を見たのは少し前だ。1ヶ月・・・2ヶ月前だったかな。

同タイトルの絵本を読んだのはもう10何年も前になる。
俺も多くの幼稚園児たちがそうしてもらうように、夜に絵本を読み聞かせてもらっていて、『かいじゅうたちのいるところ』もその中のひとつだった。

この絵本は、少年マックスがヤンチャしてたら部屋に閉じ込められ、さめざめとしていると部屋が海になり森になり、そこにいる怪獣たちと遊んで、寂しくなったから、引き止める怪獣をふりきって部屋に帰ってくるっていう話。

少年ぽっぽは、あまりこの本が好きじゃなかった。マックスがなんでそんなヤンチャしてるのかも、なんで怪獣がいきなり出てくるのかも、なんでいきなり仲良くなれるのかも、楽しく遊んでたのにどうしてイヤなおうちに帰ってきたくなるのかもわかんなかった。絵本を「わかる/わからない」で語るのもナンセンスな気がしないでもないが、換言するなら、そういう欲求がなかったんだろうな。反抗したい、どっか知らないとこでワイワイやりたいみたいな。当時おれはいい子だったから(今もだけど)、マックスのことを割りに冷めた目で見てて、なんだその着ぐるみはって思ってたような。

当時から俺は仮面ライダーとかウルトラマンとかジャンパーソンとか、そういうのが好きだったし、テレビ番組だったら「どっちの料理ショー」が好きだった。絵本だったら、『三匹のヤギのがらがらどん』とか、『カングルワングルのぼうし』なんかが好きだった。特に『カングルワングル』は大好きで、木の葉っぱがホットケーキなんだ、みたいな記述があってその葉っぱたべたいなーなんて思いながら読んでた。それに、『カングルワングル』は絵がすごくサイケなんだ。大きな帽子をかぶって顔が見えないカングルワングルっていうキャラクターもすごく魅力的だった。寡黙で優しくて寂しがり屋で。『がらがらどん』では、三匹目のヤギ、つまりヤギ三兄弟の長男が、橋の主トロルに向かって、戦国大名よろしく、大音声をあげて名を名乗り、駆け出すが早いかトロルを串刺しにしてしまうシーンなんか最高にスリリングだった。

要は、当時の絵本の好みは、勇猛さor食欲の二極化がなされてて、『かいじゅうたちのいるところ』にはあまりスポットが当たらなかった。


ところが、だいぶ前だが、『かいじゅうたちのいるところ』が映画化されると聞いて、在りし日の思い出がその正直なところを上手く補修され、優しい輝きを帯びてよみがえってきたわけだ。それで、予告編なんか見てみると、少年マックスの着ぐるみをみて「そうそうこんなだったw」と往年のファンの振りをしてみたり、実写で動かしてる怪獣たちの表現に新しさを感じてみたりして、頭のスミにひっかかってる映画だった。

で、2012年度下半期は、爆発や銃弾だけじゃない映画も見ようという個人的なめあてがあったので借りてみたのだ。


結果、久しぶりに泣いた。クッソ泣いた。前述の通り、原作になった絵本はごく短い筋のもので、2時間前後の映像作品に耐えられるような物語は持っていない。どうするのかと思ったが、怪獣たちによりスポットをあて、マックスを狂言回しのように使うことで、大人が見るに耐える作品になっていた(むしろ子供には退屈?)。

映画ではマックスの家庭はどうやらシングルマザーのようだ。母親はヤンチャなマックスに手を焼きながら、新たな恋人との逢瀬を楽しんでいる。しかしマックスはどうもそれが気に入らないらしく、恋人が家に招かれてきた際、わざとその目の前で母親を罵倒し、テーブルにのっかってみる。あの狼の着ぐるみを着て、だ。カンカンに怒った母親はマックスを厳しく叱責するが、いよいよ耐えられなくなったマックスは「僕は悪くない」といいながら家を飛び出す。その内に、原っぱが林になり森になり、そこを抜けると海に出る(原作では部屋が変化してく安部公房みたいな話だった)。結ばれていたボートをこいでいくと怪獣たちがいる島に到着、マックスが怪獣たちを見つけると彼らはなにやらモメていて・・・と物語が進んでいく。

あらすじを書いていくとキリがないが、キーワードとして感じたのは、予告編に出てくる、「inside all of us is a wild thing」。マックスは怪獣たちの島に行く前、姉の友人たちをけしかけて雪合戦をするが、友人のあんちゃんが勢いあまってマックスを泣かせてしまう。楽しかったその場は一転、なんとも後味の悪いものへと変わってしまう(俺なんかは、カレーを作るときにアレもコレもと入れた結果クソマズい茶色い液体になってしまったときなんかこの時とそっくりな気持ちになる)。この異様なテンションとそれを打ち破るイヤ〜な空気のアップダウンは、怪獣たちの島に行っても何度も何度も味わうことになるのだが、その担い手が巨大な体躯と馬鹿力を持つ怪獣たちなのだからその規模がすごい。マックスを放り投げる、泥団子で剛速球をなげる、巨木をなぎ倒す、木で編まれた球形の住居をぶち壊すとやりたい放題。うっかりマックスの可愛い頭が木の実と間違えて飛んでいっても不思議じゃない。またこの怪獣たちがみんな、ヒトクセもフタクセもあるようなやつばかりなのだ。やたら猜疑心が強かったり、引っ込み思案のくせに自己顕示欲が強かったり、優しいのに不器用でモメごとをつくってきたり。

冒頭の雪合戦はなにも意味なく配置されてるのでなく、またこの作品の契機であるマックスの家出も、喜怒哀楽のアップダウンをアクセル踏んで突っ切る怪獣たちによってパラフレーズされている。

怪獣という存在およびそのひとりひとり(いっぴきいっぴき?)は、人間存在の「過剰」を表象している。


人間と動物を分ける指標は何かという問いのお定まりの回答として、理性があげられる。人間には理性がある。本能を制御し、冷静に活動できる。一方で動物はどうか、おぞましい牙に垂れるいやらしい唾液、鼻につく体臭に敵意むき出しの目、ああ恐ろしや、我々から遠ざけねばなるまい。人間にとって動物は、そのどれもがトゥーマッチだ。他者を傷つけるため、不快にするために先鋭化してる。これがひとつの「過剰」と見える。

じゃあ怪獣は本能的な世界のことかというと事情はそう簡単ではない。動物にしたら、人間の方がトゥーマッチだろう。一発で殺すための火器を発明したり、山を切り崩して都市にしたり。この「過剰」さは理性の過剰さだ。人間の動物からの乖離の方こそよっぽど「過剰」なのではなかろうか。

「過剰」にまつわる別のものとして、アポロン的とデュオニュソス的という対の概念を考えよう。アポロン的なるものは、理性的であり秩序だっているものであり、例えばパルテノン神殿なんかがそうだ。他方、デュオニュソス的なるものは、混沌、狂乱の中で経験される。山の中で豚をかっさばいて血しぶきをあげる、トランス状態になりながら踊り狂う、そういう世界観のことだ。バタイユなんかは、エロティシズムとデュオニュソス的なるものの親和性を考えていたし、それはタブーを打ち破る「過剰」であり、生に対する死の胎動でもあるわけだが、この点から、ラスコー壁画なんかを関連させて、先の人間/動物のメルクマールについても示唆を与えている。


し か し だ。

俺は、この映画の怪獣たちが表象している「過剰」は、こういう二項対立で捉えるものではないと考える(じゃあなんでこんな要らない説明したのかという話だが、いいじゃないか、そういうことがあっても)。

ここでいうのは、エゴの「過剰」さだ。私が生きるということそれ自体が持ってしまう「過剰」さだ。他者との関わりの中で自己の世界に土足で入ってきながらも自己の包摂されようとしない他者が持つ「過剰」さだ。

怪獣たちはいつも、楽しんでいたはずなのにいつの間にかモメてしまうが、その根本的な原因となるような大事件が過去にあったわけではない。彼らはいつもそうなのだ。彼らはみんな自分たちなりの方法で幸せを目指すが、その中でどうしても包摂しきれない、協調からこぼれ落ちる「〜でないもの」がある。これは我々の実生活で、しばしば個性とか多様性とか言われるもののモナド的なレベルでの正体だと思うのだが、とにもかくにも、このエゴイスティックな産物がどうしても歯車を錆びさせ、あの、うっかり泣かせてしまった雪合戦の辛酸を喚起するのだ。

あの怪獣たちはわたしたちだ!現代、特に都会に生きるこのわたしたち!
だから怪獣たちはマックスが来たことを好機と捉えた。マックスをハリボテの王に仕立て、自分たちの支点にした。マックスがようやく彼らの世界の消失点になった。彼らの世界を、その中心に立つことで同心円状にした。ようやくだ。彼らのエゴがぶつからずにすむようになった。マックスが来る前、怪獣たちは個別に住居を持っていたが、マックスの呼びかけによって、みんなで住む大きな家をつくることになる。これは象徴的な変化であり、メインキャラクターの怪獣であるキャロルの悲願たるユートピアの実現でもあった(彼はずっとみんな仲良く暮らしたかった)。

ところが今度はマックスが世界を失い始めた。彼はみんなで住める家をつくろうと言ったが、キャロルにこっそり自分だけの部屋が欲しいと頼んだ。マックスの世界の極が消失したからだ。ヒーローを守るのは誰だ?監視者を監視するのは?みんなの居場所になった王様の居場所はどこか?マックスはいよいよエゴとの戦いに疲弊する。王は他者のエゴを引き受けなければならぬ。しかし子供のマックスに、無邪気に言い出しただけのマックスにそれが出来ようはずもなく、ユートピアは、それが「ここ」になるやいなやたちまちディストピアに変わってしまう。

結果、ふたたび怪獣たちは険悪ムード、そのまま問題が解決しないままマックスは元の世界へ帰っていく。元の世界へ帰ることによってマックスは再び世界の極を取り戻す。母親から始まる世界を取り戻すわけだ(ところで、俺はこのラストには不満だ。原作通り、自分の部屋に戻ってくるべきだった。そうしたらもっとこのエゴの話がすんなりできたのに!)。


怪獣たちはこれからも仲良くなったり喧嘩したりするだろう。しかし彼らはきっと一人にはならないだろう。彼らは世界が崩れかかってるもの同士が寄りかかりあってようやく日常を運営している。それは我々の姿でもあるように思う。他者はいつだってわたしに様々なことを強いてくるし、遠ざけるにこしたことはない。だがそれでも他者なしにわたしは生きていけない。怪獣なしには生きていけない。

この映画は前向きにも後ろ向きにもつくられていない。ただ、そうしてある、ということだけだ。淡々として、かいじゅうたちがいるところ、なのだ。


最後に、俺が初見で号泣したシーンをのせたい。
マックスが怪獣たちと遭遇し、口からでまかせに自分を王様だといい、ノリ気になった怪獣たちと「かいじゅう踊り」をするシーン。言い忘れていたが、この映画の音楽はあのヤーヤーヤーズのカレン・Oと愉快な仲間たちで構築されており、どこか北欧ノリ。非常によい。
このシーンの何がいいって、音楽が最高すぎるっていうのが一番なんだけど、本当にみんな楽しそうなんだ。さっきまで喧嘩してたのにだぜ。本当はみんなこうしてたいんだ、それがかりそめだとしても楽しくありたい、そういう切実な願いが伝わってくるんだ。