トイストーリー4、あるいはトイストーリーという物語について

トイストーリー4は、公開前のはるか昔、「つくられるらしいよ」という段階から既に、必要あるのか、やらなくていいのでは、”3”の余韻を大事にしたい、という消極的な意見が多く聞かれた。

 

とはいえ、トイストーリーはディズニー・ピクサーを代表する看板作品。”2”も”3”の続編も知名度が高く、(アラジンやリトルマーメードといった往年の名作も実は続編があるのだが、評価はおろか存在さえ知らない人も多い、、、俺も見てないが、、、)ファンたちに広く受け入れられてきた作品だ。

かくいう俺も、トイストーリーは1の公開当時から見ていたし、”2”での新しい出会いに心ときめかせ、”3”の大団円に涙を流したクチだ。4の公開決定とティーザー予告などを見れば、どうしたって心が躍る。”3”の先にどんな物語があるのか?ボー・ピープはどんな形で登場するのか?あの新キャラはなに?

 

そして公開されてみると、どうも様子がおかしい。大名作トイストーリー、絶対に外さないコンテンツの続編のはずが、鑑賞者の顔が優れない。晴れやかな意見もあるが、どんより曇り空な声が多く聞かれる。何かがおかしい。

 

劇場で観賞後、俺は、今までにない気持ちになった。

たかが映画、しかも子供向け映画である。一度みれば、物語の骨子はつかめるし、込められたメッセージの妥当性、演出の巧拙など、おおまかな感想くらいは持てるつもりだし、今までもそうだった。

ところが、”4”を見た後は、賞賛も落胆もできない、何も言えない、「評価保留」をすることにしたのだ。これまで映画を見た後にはなかったことだ。

いや、正直に告白すると、”4”のあの衝撃的なラストシーンについて、見た瞬間、見終わった直後、俺は、自分が今まで積み重ねてきたトイストーリーの世界、ウッディというキャラクター像について、すべてを覆されたように感じた。もっと言ってしまえば、「裏切られた」とさえ感じたのだ。しかし、そうした衝動的な感情と同じくらい、「なぜ?どうして?」と、分析的な疑問が湧いてきた。これは冷静さというよりも、むしろディズニー・ピクサーへの希望、トイストーリーを愛したいという祈りのような情動だったかもしれない。

 

観賞後、仕事を適当にしながら、会社のデスクで考えていた。なぜ?どうして?ウッディとはなんだったか?トイストーリーとはどういう物語だったのか?

最後に過去作をみたのはもう覚えていないくらい昔だ。考察のスタートは文献にあたることである。そこで、トイストーリー1~3を再度見て、さらに”4”ももう一度観賞してから、1年半ぶりにこのブログを更新することにした。

 

 

では、”4”の物語の流れを追いながら、感想を書いていこう。

既に”1”~”4”をすべて見た前提で書いていくので、

ネタバレなどには一切配慮しない。未観賞の人は注意されたい。

また、”4”単体だけでなく、トイストーリーとは何だったかを書いているので、長い。今どきのネットに向かないコンテンツである。

 

 

 

 

”4”は、”3”の9年前、ボー・ピープがほかの人に譲られていく日から始まる。

アンディの妹、モリーが成長し、もはやボーに興味を示さなくなり、ボーはもらわれていく。

ウッディは(いつも彼がそうするように)ボーを助けだそうとする。みんな一緒にいよう、大丈夫だと呼びかける。しかしボーは、ウッディの助けを拒否する。これがおもちゃの運命、わかっていたことだと。自分はアンディではなく、モリーのおもちゃだから、と。ウッディ、なんとここで、一瞬、ボーの段ボールに乗り込み、一緒に逃避行しようとするのだが、彼を探しに来たアンディを見て、ボーに背中を押され、彼女と別れる決意をする。「アンディにはあなたが必要だから。」と。

その後、”3”を経て、ボニーと仲良く暮らしていたウッディだが、どうもボニーの自分への関心が薄い。他のおもちゃはたくさん遊んでもらっているなかで、自分が遊んでもらう回数は減った。そこへ、ボニーお手製のおもちゃ、フォーキーがやってくる。フォーキーはゴミから作られたため、自分をゴミだと思っている。どうにかして自分を捨てようとするフォーキーだが、彼がボニーの大事なおもちゃだとわかっているウッディは、彼をゴミからおもちゃへ育て上げるべく奮闘する。フォーキーは勢い余って、ボニー一家のワゴンから外へ飛び出すが、ウッディは彼を取り戻すため同じく外へ飛び出す。

フォーキーを取り戻す道中、子供と遊ぶことを夢見るおもちゃ、ギャビーギャビーや、持ち主のない”迷子”のおもちゃとなったボー・ピープとの出会いを経て、ついにボニーの元へフォーキーを届けるが、ウッディは最後に、ボニーのところへ戻ることをやめ、ボーと二人で流浪の旅に出ることにする。

おおまかな話の流れはこんなところである。

”4”の最大の焦点、ある人は涙し、ある人は怒った、この物語を決定づけるポイントは、ラストのウッディの選択である。

ただでさえ自分への興味が薄れているうえ、フォーキーというかけがえのないおもちゃを手に入れたボニーに、もはやできることがなくなったと感じたウッディは、ボーの手を取り、仲間たちと離れることを決意する。

「新たな旅立ちだ」「するべきことを離れ、やりたいことを選んだウッディの背中を押したい」という肯定的な意見もある一方で、否定的な意見も聞かれる。

この否定的な意見(すなわち、俺が最初に感じた感想)について考えたい。

なぜ我々は、この最後のシーンについて「ウッディらしくない」と感じたのだろうか。

 

ここからしばらく過去作の話をするので、既にみたという人は下へスクロールしてほしい。

 

”1”を思い出そう。20代後半の世代が、幼少時代にワクワクしながら、笑い転げながらみた、好奇心とユーモアにあふれたあの映画は、バズとウッディの出会いから始まった。

ウッディは、自分がアンディの一番のおもちゃだという強い自負があるが、一方でおもちゃの宿命である”飽きられ”が視野をかすめている。ウッディの立場をおびやかすバズに対して、ウッディは敵意むき出しで、机と壁の隙間に落として閉じ込めようとする。そのドタバタの中で悪童シドに捕まり、そこから力を合わせて脱出するという流れだった。この中でバズは、自分がスペースレンジャーではなくおもちゃだと自覚し、新たな”役割”に目覚めることになる。アンディの部屋に戻ったウッディは、愛しのボー・ピープから祝福のキスの嵐をうけ、バズを仲間と受け入れて物語が終わる。

”3”や”4”を見てから”1”を見ると、冒頭にアンディがウッディと楽しそうに遊ぶシーンで涙することになるのだが、それはさておき、”1”で確認できたのは、ウッディが、アンディのおもちゃとして強い自負を持っていること、ボーとはめちゃくちゃ仲いいことだ。特に前者については、(当時は感じなかったが)病的なまでの執着を感じる。

さて、次に”2”を振り返ると、実はアンティークとしてとんでもない価値を持っているとわかったウッディ。コレクターに拉致されて、設定上の仲間であるジェシー、ブルズアイ、プロスペクターと共に日本に売り飛ばされそうになるが、自分はアンディのおもちゃであるとしてこの誘いを拒否し、ジェシーともどもアンディのもとへ戻る。

”2”では、おもちゃの新しい側面に焦点があたる。「子供を喜ばせること」ではなく、それ以前の「商品」としての側面だ。そもそも買われなければ遊べもしない。そんなおもちゃの存在価値は、もはや飾られることしかない。不人気キャラだったプロスペクターが、箱付きでようやく価値があることになるあたりもリアル。

ウッディは、結果的にはアンディのところへ戻るが、一度は日本へ行くことを決意している。理由としては(ジェシーやブルズアイにほだされたこともあるだろうが)、おもちゃが持つ二つの”役割”を天秤にかけたのだと思う。「子供を喜ばせる存在」として、どんなに楽しい時間を過ごしても、子供はいつかおもちゃに飽き、捨てられる。そんな辛い道を選ぶよりも、「アンティークアイテム」として、多くの人に愛された方が素晴らしいことだと、一時的にではあるが、ウッディはそう判断したのだろう。

しかしバズの説得に判断を翻し、最初の”役割”を選択しなおすのである。そしてジェシーとブルズアイにも、失われていたおもちゃの”役割”を再び与えることで生きる道を示したのであった。

”3”では、ウッディたちは、運命的な選択を迫られる。大学生になったアンディは、もはやおもちゃを必要としなくなった。「子供を喜ばせる存在」であったおもちゃたちが、その相手を失ったらどうするのか。

サニーサイド保育園はひとつの回答だ。ひとりの子供に執着しては、必ずいつか捨てられる。そうであれば、子供しかいない場所で生きればいい。自分たちがアンディに捨てられたと勘違いしたジェシー達は、サニーサイド保育園をユートピアだと感じたが、年少組の子供たちとの過酷な遊びと、保育園を取り仕切るロッツォの圧政に苦しめられる。当初、アンディのもとへ戻ることを無意義だと主張していたジェシー達だが、アンディが自分たちを大事に思っていたこと、捨てようとしたわけではないことが分かると、保育園からの脱出を決意する。その後、ウッディの活躍でアンディの家にもどり、おもちゃたちはボニーのもとへ渡される。

”2”で、おもちゃの”役割”についての信念を固定化したウッディと仲間たちだが、”3”ではこの信念、つまり「子供のそばにいて喜ばせること」について揺さぶりがかけられる。子供は大人になり、おもちゃは捨てられる。子供が離れていってしまうことについてジェシーは既に経験済みの事象であり、だからこそ日本へ渡ろうとしていた。「誰かのおもちゃであること」は常にこうした不安がつきまとう。いつか必要とされなくなる日が来た時に、おもちゃたちはどうするのか。おもちゃの本分は子供を楽しませることであるにも関わらず、だ。

結果的に、”3”でおもちゃたちは、屋根裏部屋にしまわれることにした。アンディのおもちゃとして生きることを全うするため、なにもすることもないまま、いつかアンディに、またはアンディの子供に遊んでもらう日を夢見て、暗い屋根裏で眠ること。これがおもちゃたちの選択だった。普通に考えて、これはなかなか過酷なことだ。当てのない希望だけを糧に過ごす暗闇の毎日は、苦しくつらいものになる。アンディと共に新天地へ赴くことになったウッディも、彼は彼でつらいものがある。これまでずっと一緒だった仲間たちと別れ、自分だけがアンディのそばにいることの罪悪感もあるだろう。そこでウッディは、ボニーに譲り渡されるという方法で、上記の長く続く不安を回避した。ウッディだけがアンディについていくこともできたが、仲間のおもちゃたちと一緒にボニーに譲られることを選ぶ。ラストシーンで、アンディがボニーと遊ぶシーン、二人の想像力がおもちゃたちを動かすシーン、そしてその後のウッディの別れのセリフには何度見ても泣かされてしまう。

 

さて、長くなったが、上記3作を踏まえて、ようやく”4”の話である。”4”のラストシーンでのウッディの選択がなぜ「らしくない」と感じるのか。二つの理由を考えた。

ひとつめは、彼が仲間のおもちゃ達と離れるというアイデアを持っていることが驚きだったのだ。いつだってウッディは仲間と一緒にいることを重んじた。”3”で屋根裏部屋にしまわれるときも、「みんな一緒なら大丈夫さ」と繰り返していた。シドの改造おもちゃ達に活路を与え、ジェシーに新しい居場所を用意し、ロッツォでさえ助けたあのウッディが、仲間を離れて、久しぶりに会った元カノとよろしくトンズラするなんて、あまりに身勝手だと感じてしまう。

ふたつめは、過去3作を通じて、ウッディが「誰かのおもちゃ」であることに固執してきたことと合致しない点だ。”2”でも”3”でも、ウッディには、アンディのおもちゃであること以外の、魅力的な選択肢が用意された。その先にはもしかしたら豊かな未来が待っていたかもしれない。しかしウッディは、「自分はアンディのおもちゃだから」という理由によってそれらを断る。サニーサイド保育園では、園児たちとの新しい暮らしを想う仲間たちに向かって、「アンディが俺たちを大学に連れて行きたいとか、屋根裏にしまいたいとか、そう願うならそうするのが仕事だろ!」とまで力説している。ここまで、「誰かのおもちゃ」であることにこだわっているウッディが、”4”ではずいぶんあっさりとボニーを離れてくれるじゃないの、という気持ちになるのだ。

 

”4”で、ボニーが初めて幼稚園へ行く日、彼女を見守ろうと提案するウッディはまるで保護者のようだ。こっそりボニーについていき、フォーキー誕生に立ち会い、ボニーの幼稚園デビューを後押しする。彼女が生んだフォーキーに対しても、もはやバズと出会ったときのような敵意はなく、フォーキーが一人前のおもちゃになるために世話焼きに奔走する。これらの献身について、ウッディは「内なる声がそうしろというんだ」と語る。

当然、鑑賞者たる我々は、これがボニーへの思いやりである一方で、ウッディが自分の存在理由を保持するための行動であることに気付く。ボニーにとって必要な存在であり続けないといけないという強迫観念めいた思考に支配されているウッディに、ボーは「迷子なのはあなただ」と指摘する。

その後、ギャビーギャビーとの会話の中で、ウッディはアンディとの日々を思い返す。フォーキーと引き換えに、彼はギャビーにボイスボックスを渡す。声を失うのだ。「子供の友達」としても「アンティーク」としても大きく価値を失うが、ボニーのため、そして恐らくはギャビーのためにも、これを決意する。

そしてウッディは考える。自分の”役割”について、未来について。ついに自分が必要とされなくなる局面がきた。実は、この問いかけは既に”3”で為されていたものだった。ジェシーがエミリーに、ロッツォがデイジーに、デューク・カブーンがリジャーンに捨てられたこと、そしてアンディが大人になりおもちゃ達と離れること。子供とおもちゃの別離という避けがたい運命について、”3”でウッディはアクロバティックに回避して見せたが、今回はそうはいかない。

”3”までのウッディ像を強く信じるファンは、こういう結末を望んだかもしれない。ウッディはボーと別れ、仲間たちとボニーのもとへ戻る。ウッディは遊んでもらえたり遊んでもらえなかったりするが、他の仲間たちと仲良く暮らし、また新しい持ち主(アンディの子供だと最高)のところへ譲られていく、と。

もしこうしたエンディングだったら、俺は初見でスタンディングオベーションをしただろう。しかし、しばらくしてこうも考えるかもしれない。「面白かった。しかし、”3”で終わっていてもよかった」と。

過去作を見直し、もう一度”4”を見たことで、俺は感想を固めた。ウッディの決断は、ある意味では確かに、これまでのキャラクター像を壊すものかもしれない。しかし、また別の意味では、”4”から過去の作品たちを逆照射することで、トイストーリーという物語の抽象度をあげ、奥行きを持たせることができたのではないか。あの選択がなければ、もしかしたら単なる懐古趣味の映画だったかもしれない。トイストーリーという物語が前に進むためには、あのエンディングが必要だったと考えるようになった。

 

ところで、最近のディズニーは説教臭く、思想が強いことで有名だ。

アナ雪はじめ、ズートピア、アラジンの実写化でのジャスミンソロ、アベンジャーズエンドゲームでのトム・ホランド護衛隊など枚挙に暇がない。昔のアニメのわかりやすい物語構造やハッピーエンドを愛する者にはのど越しが悪すぎるのだが、これについて少し書いておきたい。

やはり欧米諸国におけるポリティカル・コレクトネスの高まりと、これへの同調圧力のすさまじさが影響しているだろうな、海外は日本よりずっと大変なんだな、と同情する気持ちもある一方で、ディズニーが担う使命について考えたりもする。ディズニーがこれまで、あらゆる作品で作り出してきたわかりやすい物語構造(囚われの姫君と勇敢な王子、勧善懲悪、幸せなキスをして終わり)、これこそが現代の差別の根源であり、正すべき悪例だという考えがある。おとぎ話とは、時代を越えればえてしておぞましい怪談に見えるものだ。また、物語はわかりやすくシンプルであれば受け入れやすいものだが、現実はそうシンプルではない。眠れる姫君にキスをすれば強制わいせつ罪なのである。

ディズニーは、数多のおとぎ話を世に送り出し、人々に夢を与えてきた。それは一方では、その夢にそぐわない現実を捨象する営みでもあった。だからディズニーは、新しいおとぎ話を作り出す必要に迫られたのだと思う。時代に沿った、新しいフォーマットを持った物語を創造しなければならない。ディズニーが提供してきた夢を”アップデート”しなければならない。我々は既に、旧フォーマットの物語にすっかり慣れ親しんでしまっているから、新しいフォーマットの物語に強い違和感を感じる。我々観賞者も、新しい時代の物語を受け入れる準備をしなければならないのだと思う昨今である。

新しい世界の物語を創造する中で、トイストーリーも例外ではない。今まで、アンディの部屋でウッディの帰りを待つだけだったボーは、腕がとれても気にしない勇敢でたくましい女性にアップデートされた(”4”のボーのなんと美しいこと!戸田恵子の熟練の演技もあいまって、素晴らしいキャラクターになったと思う。女性推しというフェミサイドへの目配せはうっとおしいものの、キャラクターとしては、頼りになって物わかりもいい、本当に魅力的な仕上がり。俺は”4”のボーだいすき)。物語全体でいえば、”4”のラストシーンによって、トイストーリーという物語が逆説的に骨子を得たような気がした。

ある人は、「”4”は親が子離れする物語だ」と語っていた。言い得て妙だ。だがそれは、ウッディだけの時間軸に注目した感想で、実際はもう少し射程が広いように思う。”4”単体でみれば、ウッディやボーの対極で物語を支えるのがギャビーだ。ギャビーは、アンティークショップに訪れる少女ハーモニーと遊ぶことを夢見る。ギャビーにはそうなる自信もあったのだが、結果、ハーモニーに気に入られることなく置いていかれてしまう。失意のギャビーだが、その後、迷子の少女を勇気づけ、彼女のおもちゃとして生きていくことになる。まさに”1”から続くおもちゃの本分を最後に体現したキャラであった。

誰かに必要とされることは、生きていく上で大きな力になる。そのためでないと動けない人もいるくらいだ。おもちゃ達は、必要とされるために生まれた存在であり、皆、いかに自分が必要とされるかを考えている。”2”では、子供ではなく大人たちに、”3”では不特定多数の子供たちに必要とされることでおもちゃ達は存在理由を探っていた。人に必要とされたとき、そこには状況に応じた”役割”が生まれる。トイストーリーでは、おままごとでの役割分担であったり、子供の慰め役だったりするが、我々人間の世界ではどうだろう。友達、恋人、家族、親子、上司、部下etc....社会生活では、いつだって我々は何かの”役割”を担うことで生きている。ウッディが率いてきたトイストーリーという物語は、「”役割”の物語」と言い換えると「人が人に必要とされることの物語」だと読めるようになってきた。そして”4”は、「新たな”役割”の物語」であると。

それを象徴するのがフォーキーである。ゴミから生まれたフォーキーは自分をゴミだと信じてウッディの手を焼かせるが、実はそれはフォーキーの”役割”なのである。「僕はご飯を食べるためにつくられた、それが終わればゴミになる。」それが彼の存在理由であり、ウッディ達が子供と遊ぶことと同列の観念として彼の中にある。そんなフォーキーは、ウッディによって、自分がおもちゃだという自覚を持ち始め、ボニーのそばにいるという新しい”役割”を見出すことになる。そしてウッディは、誰かのおもちゃとして、その子を助けるという”役割”から降りることを選択する。「必要とされることの物語」の最後に、その旗振り役だった彼は、必要とされないことを選ぶのだ。”役割”から降りること、より身近に(あるいは社会的に)言い換えるなら、○○らしさからの脱却を目指したかたちだ。

最初、”4”のラストを見たときに、プロスペクターやロッツォといったこれまでの悪役と、言ってることが同じじゃないか?なんかいい感じに描かれてるが、いまのウッディなら悪役に賛成するのでは?と思ったりもしたんだが、過去作を見直してみると、みんな、何がしかの”役割”の下で如何に生き延びるかに腐心しているのであり、ウッディの選択とは根本的に違う。ただ、”4”の中では、ウッディが今までの”役割”を降りたあと、何をしたいのかがイマイチ描かれてない。エンドロールではほかのおもちゃが子供に行き渡る手伝いをしていたから、ウッディはこれからは裏方にまわって、子供の幸せを間接的にサポートするという生活をしているのかもしれないが、そこがどうも決定的なのかもわからないので、結局元カノが好きだからじゃん!?と思ってしまう。

とはいえ重要なのは、”役割”から降りるという選択肢を提示する、ということなのだと思う。これまで、おもちゃの”役割”を絶対のものとして作られてきたトイストーリーの世界で、新しいおもちゃの生き方を示してみせること、それを、おもちゃのリーダーだったウッディにやらせること。これこそが”4”が新作たりえたポイントだと思う(また”4”の愛らしいところは、今までの信念を否定しているわけではないところ。ギャビーの美しい退場は、今までのおもちゃの生き方をも肯定していることを示している)。

 

さて、上記のような解釈は、”4”の全体を見たときの語りである。しかしながら、実際のところ、”4”に対する不信というのは(トイストーリーのファンであればあるほど)、作品全体というより、ウッディ個人への不信なのではないか。作品の機能として、かような動きをするウッディに対して一定の理解はするが、心情としてついていけない、という不信こそが、”4”の喉越しを悪くしているのではないか。上記の通り、”4”では、どうしても「持ち主に興味持たれなくなったから元カノになびいた」ように見えてしまう。ボーがいう「広い世界を見たい」というのもよくわからないし、そもそもウッディはこれまでの作品で、空港にも行ったしゴミ捨て場にもいった、おもちゃが破壊される恐怖のシドの部屋にも、天国と地獄が入り混じる保育園にも行った。その辺のおもちゃには経験できないほどの世界を見て、その上で持ち主のそばにいることを、また、仲間たちとみんな一緒にいることを選んでいたのではないか。なのにどうして、と感じる。 ウッディの心情を理解しようとするとき、キーになるのが、「内なる声」である。ウッディは自分の”役割”の保全と、容赦ない現実の間で葛藤するが、なぜかバズにはその葛藤がよく理解できないらしい。

ところで、バズというやつは本当にいいやつだ。”1”でおもちゃとして目覚めさせてくれて、シドから救ってくれたウッディに、一生恩義を感じている。”2”ではウッディを救いに行くとき、「彼は命懸けで私を助けた。だから私もそうする。」と語る。いやいや元はと言えばウッディが嫉妬してバズを殺そうとしたのが発端じゃんか、とツッコみたくなるのだが、バズがそう思ってるなら仕方ない。身体能力も高く、判断も冷静。完璧である。あまりに老練、あまりに熟達。使えるキャラすぎて面白みがなくなってきたからか、”3”では、おもちゃに必ず備わっているリセット機能という器質的特徴を掘り起こして、スペースレンジャーに逆戻りさせられた。そして”4”では、なぜか急激にバカになっている。ウッディが使った「内なる声」という凡庸な比喩に、「それはなんだ?誰の声だ?」とマジレス。挙句、自分の音声再生機能を「内なる声」として認めるようになる。これではスペースレンジャーに毛が生えた程度の知能しかない。リセットを重ねて頭がおかしくなったのだろうか。

そんなバズだが、”4”でも全力でウッディをサポートする。夜通しフォーキーの見張りをするウッディを気遣ったり、ダッキー&バニーの騒がしい二人をまとめてアンティークショップを脱出したり、最後にはウッディの心情を察して背中を押したりと大活躍である。過去作を見返して感じたのだが、バズは”1”でスペースレンジャーでないことを知って以来、葛藤や絶望といった感情がない。”2”ではウッディよろしくアンディの下に帰ることを絶対としているし、”3”でも、アンディには早々に見切りをつけ、保育園でみんな一緒にいることが大事だと説く。当然ながら、バズもまたおもちゃであり、ウッディが抱える葛藤にいつかは直面するはずなのだが、スペースレンジャーの余裕からかそのような様子は見られない。

思うに、バズというキャラはトイストーリーの中では特別で、おもちゃとしての設定からスタートして、ここと地続きになったキャラである。”1”の前半でスペースレンジャーとしてみんなの手を焼いたバズだが、”2”以降でウッディの恋女房を全うしたバズと、あのスペースレンジャーのバズと別人なのではなく、同じキャラが考えを改めただけなのだということを思い返してほしい。元はと言えば、ザーグ抹殺という任務を愚直にこなす男である。もしかしたら、今も、「ウッディを助ける」という任務の最中なのかもしれない。だから、おもちゃとしてのアイデンティティを半ば放棄したようなたたずまいなのかも。

閑話休題。”4”のラストシーンで、バズはウッディに、「内なる声を聞け」と告げる。そこでウッディは、自分が”役割”に囚われていたことに気付く。そしてその”役割”がすでに失効し、岐路に立たされていることにも。このことは、見方によっては、やはりファンへの裏切りである。過去作の、子供のため、仲間のために奮闘するウッディが、自分の”役割”に意固地になっている頑固野郎ということになってしまう(実際、ウッディはボーに「俺は古いタイプのおもちゃだからな」と自嘲気味に告白する)。そして、そのウッディの気付きは、きっと事実なのだろうと思う。仲間への固執、持ち主への固執は、ウッディの美しさであり、また弱さでもあった。物語の主人公というのは概して破天荒で頑固で、現実にいたら絶対に関わりたくないタイプが多い。だからこそ物語を推進し、読み手の感動を呼ぶというものだ。 ”4”は、そうした旧体制的な物語像の超克でもある。主人公は判断し、選択する。たとえそれが過去の自分と矛盾するとしても、である。なによりも現実の我々がそうするように。

現実での生活で、常に一貫した選択をしろというのは難しい。環境も変わるし、心境も判断材料も変わる。過去の判断が常に正しいわけでもない。同じ状況でも、経験の蓄積が判断を変え、判断の変更が未来を変える。 そうして、より良い未来、より多くの人が幸せになれる未来を選択できるような変化を、成長と呼んだり進歩と呼んだりするのだろう。初見から”4”に肯定的だった意見では、「ウッディの成長に感動」という意見が多かった。俺は子供なのでなんのことがよくわからなかったが、きっと上記のようなことを言っているのだろうと考えるようになった。 やはりウッディは、元カノとよろしくこいて無責任にもいなくなったわけではなかった。最後までボニーを想い、仲間を想った。

しかしバズの、「ボニーは大丈夫」という言葉に背中を押され、自身の変化を、その痛みとともに受け入れることができたのだ。それを受け止める仲間の温かさ。 ”4”が、いま、この新しい時代に新しいトイストーリーとして現れたことを歓迎したいと思うようになった。

 

そんなわけで、俺としてはすっかり”4”容認派にまわってしまったし、2回目に鑑賞したときは心の中で拍手喝采だった。

このブログを書く上で見直した過去3作品もどれも素晴らしかった。いい映画だなあトイストーリー。