アイドルと恋とファン

寒い。晴れ。こんばんは、森香澄です。

気合を入れて書こう!と思っていた内容でも、いざ書いてみるとあまりに凡庸な着地になりそうで当初の熱量が恥ずかしくなる、ということがままある。今日の日記もまたそんな予測が立ったので、少し肩の力を抜いてささっと書こうと思う。

それはなにかというと、アイドルの恋愛についてだ。アイドルの"恋愛禁止"は、明言はされていないものの実際は暗黙のルールになっており、大っぴらに彼氏(彼女)をアピールするアイドルは多くない。結婚した俳優さんなんかは比較的オープンに言うかもしれないが、アイドルとなるとタブー視されている面はあるだろう。これは、アイドルに彼氏(彼女)がいたり結婚したりすると、ファンの中には「裏切られた」「悲しい」「憎い」と感じる者がいるからだと思う。当たり前なようだが、つまり、ファンのそうした感情が先にあり、暗黙なルールを生んだとすれば(きっとそうだと思うのだが)、昨今しばしば話題になるアイドルの"人権"については、遡ってファンの感情から考える必要があるのではないか。アイドルとファンの二者から少し距離をとった場合、我々はこう考える。「まあでも、アイドルといっても人間だし、いつかは恋愛して結婚するだろう。何歳になっても処女のようにいてほしいのか?ファンは冷静になれ」と。こうした良識的な態度は、一見倫理的に正しいように見えるが、わざわざこんな日記を書くからには俺はこの態度にはやや反対なのである。

結論から言うと、「アイドルは恋愛してはいけないか」という問いにはNOなのだ。その理由は既に良識派が考えているとおりのそれであるが、少し問いを変えて考えたい。つまり、「ファンはアイドルが恋愛をすることを嘆いてはいけないか」という問いをたてると、これについては強いNOを宣言したい。ファンはアイドルの恋愛における幸せなど祝う必要はないし、心の底からの悔恨や憎悪や嫉妬を燃やしてよい。それをぶつけることも好きにしたらいい。止めるべきではない。それでもアイドル自身は人間なのだから好きに生きたらいいというのが俺の考えるところだ。なぜなら、アイドルとファンの関係はそもそも通常の倫理観とか人間同士の交友みたいなものとは異なる次元のものだからだ。他人が歌って踊ってるのを見て感動し、友達でもないのにその人のパーソナリティを決めつけ、性格がいいだの気遣いができるだの語りだす。パフォーマンスの刹那を切り取り視線がいいだの後ろのメンバーが慌ててるだのと取り沙汰し、数秒握手するために聴きもしないCDを何枚も買う。はっきり言って異常である。まともな神経じゃない。アイドルという文化を支えているのは、こうした人間のバグみたいなものであり、ハナから良識など介在しない関係なのだと思っている。既に当ブログでは、(少なくとも俺自身の感じ方として)ファンにとってアイドルとは神や精霊の類であり、永遠性を持っているものであると書いた(『神との距離』の記事参照)。だから、恋愛などという極めて人間くさい営みに身を堕とすことに失望してしまうのである。もちろんここには、性愛をまとった憧れと嫉妬が裏にいることは示さなければならない。だからファンは、アイドルに対して、自分の欲望をまた別の欲望で縛り付けるような、矛盾した、かつ狂気的な視線を注いでいるのであり、それは既に通常の、個人への配慮とかいったものの届かない地点での出来事なのだ。

ところで、ファンという異様な存在のことはひとまず是としたときに、アイドルの側がこうしたファンを甘受すべきなのかというとまた微妙で、さすがに気の毒という感覚もある。アイドルの名声なんて良性の憎悪にすぎないのでは、というのが俺の本音ではあるものの、全てを自己責任として清濁併せ呑め!と言いきるのも人間味がない。だから、ファンの異様な憎悪は是だが、これを拒絶することもまた是になると思っている。つまり、殴り合いになるしかないだろうということだ。拒絶し合うしかなくなるだろう。はじめからそうなるような関係なのだ。だから、アイドルって大変だよなあって思う。人の身でありながら神でなければならない。アイドルにならなくて本当に良かった(?)

他人の内輪を上からのぞくような気分

晴れ。真冬の装備だと少し暑い。こんばんは、ホン・ウンチェです。

今日は千葉の奥地まで出張で、5時起きで電車に飛び乗り、この記事を書き始めた21時半段階でもまだ家に着かない。来週もこの手の地方への早朝出張があってとてもいやだ。俺は早起きが苦手で、早起きをすると寿命が縮むような思いがする。関東を主として出張に出ることは間々ある。都会ではなく、住宅地とか、誰かの実家みたいなところに行くことが多い。都会が好きで田舎から上京した俺からすると頭痛がするような田舎で、毎日何が楽しみで生きてるのだろうかみたいなところなのだが、そんなところにも人がぎっしりと住んでいて、各々の生活を営んでいるようだ。それらの生活はそれぞれ幸せだったり不服だったりするんだろうが、そうした満足度のムラは都会でもきっとあるのだろうし、ま〜〜〜どこに住んでも自分次第なのかな〜〜という"気付き"めいたものをひらめいてみたり、いやいやそれでも、その地に住むための文脈とか相性っていうのはあるよなと我に返ってみたりしている。

地方に行くと、その場所では市民権を得ている地元の有名人とか、聞いたことない名前のスーパー、意外な特産品などを見るのも楽しい。特に関西まで出ていくとカルチャーが大きく違う感じがして楽しい。大阪でテレビをつけると、どのチャンネルをみてもたむけんが司会をしているし、ひな壇の先頭には月亭八方師匠がいて、後ろの方にはミサイルマンシャンプーハットがいる。関東では絶対に見ない景色であるし、ちょっとダラダラとしたノリも新鮮である。宮城にいくとそれはそれで地場のノリがある。夕方には「oh!バンデス」という激ゆる情報番組があり、駅前のデッキからの中継などをダラダラと流す。ちょっと他では見ないくらい高齢のじっちゃまがMCになっており、本人としてはうまくまわしたったぞ、という雰囲気でアナウンサーやレポーターとやり取りをするが、その自負がスケスケなのが薄ら寒く、それがまたローカル特有の旨味を生んでいる。俺の生まれた秋田にも、バリトン伊藤とシャバ駄馬男というローカルタレントがいて、ふたりで番組やったりCMに出てたりしている。バリトン伊藤はリーゼント?モヒカン?ヘアーにロカビリーファッションのビジュアルのたった外見で、強い秋田訛りでトークをする。特に笑いとかがあるわけではない。シャバ駄馬男は、その最高すぎる芸名と裏腹に、ビジュアルはちょっと若い風のただのおっちゃんであり、これといったシャバダバ感もない。この2人をテレビで見ていると、地元ながら不思議なローカル感に包まれ、「これはここでしか見れないなあ」と当時から思っていた。

もともと俺は旅行アンチである(東京が世界で一番いいところだと思っている)から、仕事でもないと遠出することはないし、できれば早起きして出かけるなんてことはしたくないのだが、したらしたなりの発見もあるというものである。不得手なことでもしたらしたなりに楽しいというこの感覚も、加齢と共に培われた、世界と自分の摩擦を減らすための処世術といった趣である。

懐かしがられたい病

晴れ。寒さやわらいだような。もうすこし寒さ続いても良い。こんばんは、長澤まさみです。

今日は、俺の奇妙な欲望について書こうと思う。俺は他人に懐かしがられるのが好きだ。「久しぶり!」「太ったな!」という笑顔のファーストコンタクトが好きだ。「当時お前はこんなことしてたよな」と思い出を話し合うのが好きだ。そんなことが嫌いな人はいないだろうが、時々そういう衝動を抑えられなくなる時がある。

小学生の時(そんな幼い頃からなのだ)、通っていた保育園を唐突に訪問したことがある。かつて世話をしてくれた保母さんたちが温かく迎えてくれると思ったからだ。大きくなって!と褒めてくれて、さあ、おやつを食べながら話をしようと言ってくれると思ったからだ。当たり前だが現実はそうではなく、既に当時の保母さんは園にはほとんどいなかったし、見知らぬ小学生が突然やってきても何もすることはなく、怪訝そうな顔をして狼狽こちらの様子を伺うのみだった。「この園に通ってたんです」と俺は元気に言った気がする。「ああ、、そうなの、、、、」と返答をもらい、とりあえず帰ってくれみたいなことをやんわりと言われて帰ったような思い出がある。中学の時は、小学校の時に通っていた地元のサッカークラブチームの練習に急に顔を出してみたりした。当時のコーチたちは残っていたので、おう!久しぶりじゃねーか!と迎えてくれたが、その挨拶の後に特に話はしてもらえなかった。高校を卒業し、大学へ進む際には、小学校で4年間担任してくれた先生の家に合格の報告をしに行った。これは俺の独断行ではなく、親の「お前が挨拶したい人がいるなら協力する」という声かけから実施されたことだ。これまた突然行ったので先生はエプロン姿で大変驚いており、もちろん褒めてくれたが、それはあの頃の先生としてというよりも、いち社会人としてのコミュニケーションという色合いが強かったように思う。大学の時は定期的に高校の同級生に遊んでもらって昔話をした(他に友達はいなかった)。社会人になると、自社製品の割引券を配るという建前で大学のゼミに顔を出して、後輩に驚かれたりもした。

なぜそんなことをしたのか、懐かしがられたい欲望が抑えられなくなったからだ。そのチャンスだと思ったからだ。他人が懐かしいと思って俺を見る時、そこにあるのは暖かな好意だ(と信じていた)。かつて毎日顔を合わせていた二人が再会するときの驚きや感慨は、記憶が醸成された香気である。継続的に関係していた頃の記憶が、時間と共に様々なエネルギーを蓄え、再会を機にその蓋が開かれると、高い濃度のふわっとエネルギーが拡散する。俺はこの、高濃度のエネルギー拡散を求めて、傍迷惑なアポ無し訪問をやってしまうことがある。孤独に耐えられないときに。どうしようもなく自身の存在を確認したくなるときに。本来、継続的な関係(友達とか、家族とか、同僚とか)が良好に保たれていれば、単発的なエネルギーの拡散は起こらないし、必要がない。相互のエネルギーのやり取りを常にしているから、存在の現前性が水や血液のように他者と自分をめぐり、わたしと世界を繋ぎ止めてくれる。しかしそうした、世界との紐帯をあまり持たず、しかも孤独を受け入れきれてないとなると、定期的に自身の存在を確認せずにおれなくなる。その方法は人によって様々だろうが、俺にとっては、懐かしがられることであった。俺は、俺を懐かしいと思って微笑んで眺める相手を通して、その人の記憶の中の自分を確認する。確かに俺は存在していた、他者に受け入れられていたんだ、と安心するのだ。こうした欲望に駆られた前述のような奇行について、なぜ20余年前まで遡っても覚えているのか。それは、動機の切実さとは裏腹に、残ったのは強い後悔だからだ。やらなければよかった、こんなことしなければよかった、と必ず思う。俺は、他者の中に俺が生きていることを確かめたかったのに、代わりにわかったのは、彼や彼女がそれほど自分に関心を払ってはいなかったということだけだ。他者への甘えが過ぎる、そう諭されて肩を落として帰るだけなのだ。

実はこの悪癖について自覚したのはつい最近だ。数年前に仲良くしていたが疎遠になった知人が、会える距離の店で働いていることを知ったので、急に会いたくなったのだ。それまでろくに連絡もしてなかったくせに、またアポ無し突撃をしようと画策していたところで、はたと過去の愚行を思い出し、もう切れた糸なのだと足を止めたのだ。俺はこの人と再び関係を始めたいわけではなく、単に懐かしがられたいだけなのだとようやく気づいた。もうひとつきっかけがある。先日、後輩のNが昼休みにこんな話をしてくれた。「こないだ、SさんとHさんが飲んでたみたいで、Sさんから飲みに来いってLINEきたんですけど、僕スノボいってたんで無視したんすね。そしたらHさんからも、シカトすんな!ってすぐLINEきてめんどかったっすわー」と。このSとHというのは、既に弊社を退職した同年代の社員で、俺やNとも仲が良くてしばしば飲みに出る間柄であった。この話を受けて、思ったのは「俺には連絡してこないのか、、、」という失望だった。あんなに仲良かったのに、、、と。確かにこの後輩Nは人当たりがよく人畜無害で、アクの強い俺とは対照的である。しかし、、、(ちなみに、この「今飲んでるからお前もこいよ」に対しても、懐かしがられることに匹敵する強烈な欲望がある。言われたい。自分が必要とされていると感じたい。俺が受け入れられているのだと確信したい)。この話には続きがあり、Nの話を聞いた後、たまたま弊社の社長から「Hは元気にしてるのか。お前は歳が近いだろう。どうしてるのか聞いてみろ」といわれた。Hは社長のお気に入りで、弊社の若手でも期待の社員だった。そこで俺は数年ぶりにHにラインをし、動向を聞いたのだった。お互いの近況を報告し合う中で、Hは「またみんなに会いたいな」と言った。俺はすぐに同期を招集したい!という気持ちになったが、先の例と同じように、自身の悪癖を思い返してその言葉をやり過ごした。俺はHと再び仲良くしようとは思っていない。ただ、その場のファーストタッチでは、俺が恋焦がれるあの笑顔、懐かしさを満ちたエネルギーの拡散を感じられるかもしれないと欲にかられたが、後悔しかしたことがない試行をこれからも繰り返すのはあまりに愚かと思った。

俺がこうしてこの悪い癖を自覚できたのは、いまは人生の中で最も友達が多く、継続的な友好関係を築けているから、世界における自分の居場所を以前よりも感じられているからだと思う。「懐かしがられたい」なんて奇癖を想像もできない人からすれば、サワガニも釣り上げられない細い糸、わずかな繋がりではあるが、それでも、過去の関係にとらわれて微かな温もりを慰みにするくらいなら、足が霜焼けても前に進むべきだという決意ができたからかもしれない。いま春がきておれは綺麗になった、でありますように。

欲ゆえに死ぬならば

さむい!昨日はもっと寒かった!こんばんは、キム・チェウォンです。ルセラフィム日本デビューおめでとう。

これくらい寒いとようやくヘビーアウターを着ようという気分になる。というかようやく着られるという感じだ。俺はダウンものを持っていなかった。これはいい機会と思ってennoyの中綿シリーズに抽選応募したものの全滅、しくしくと古着のエルエルビーンのダウン(化繊)を買ったのである。こういうアウトドア系の中綿アウターは久しぶりに着るが、やはり暖かく柔らかく、ポケットもたくさんあって大変良い。やはり次の冬はちゃんとヘビーアウターを買おう。アウトドアものは今回買ったエルエルビーンに任せるとして、ウールものが欲しくなってくる。ピーコートとかダッフルコートとか。ダッフルコートはかなり迷ったのだが、あと一歩手が伸びなかった。ピーコートも欲しいが意外とサイズが小さい作りなのでデブには辛いつくりである。あと、ピーコートは、当たり前ながらネイビーが多いのだが、デニムにネイビーを合わせるのがあんまり好きじゃないのでブラックのものがほしい。ラベンハムとかマッキントッシュとかのイギリス流キルティングも悪くない。ウールじゃないけど。

俺はミニマリストにはなれそうもない。憧れもないが、あまりにモノが多いのでもっと少なくてもいいなとは思う。モノによって煩わしい思いをしたくないというのがミニマリストの主だった思想の一つなようだが、モノによる煩わしさは人間の文化的豊かさの一側面だとも思っているので、俺は毎日着る服や寝るもの食べるもので大いに悩んでいたい、欲の渦に身を任せていたい。そういえば、食事についての頓着があまりない人もよくいる。なんでもいい、最悪食べなくてもいいのだと。それもまた俺には辿り着けない境地である。俺は食べることは大好きで、それは手段ではなく目的である。なんなら腹が減ってなくても食べたければ食べる。結果として太りに太り、もはやその辺に売っている服は入らなくなってしまい、大きいサイズを探して通販をする羽目になっている。

それにしても、欲を満たすには金がかかる。服を売って服を買い、靴を売って靴を買う生活である。アリとキリギリスならだんぜんキリギリスの俺なので、冬が来たらさっさと死んでゆく所存ではある。

ジーンズ哀歌

晴れ。少し暖かい。でもまだ寒くなるみたい。冬、もう少しやってたいです。こんばんは、new jeansハニです。

先日、髪を切ってもらいながらoceansを読んでいた。ファッション誌でよくある街角スナップ特集号だったのだが、そこに掲載されているファッション愛好家たちのデニム着用率の低さに驚いた。oceasというとデニム、もしくはインディゴ染の服というイメージがあったので、街角スナップとはいえそういうスタイルが多くなると思っていたのだが、実際はスラックスめいたワイドなパンツ、チノ、ワークパンツ、ミリタリーパンツなど、デニム以外のパンツが多かった。デニムでも、インディゴよりもブラックデニムが多いようにも感じた。実際、ジーンズショップは苦戦を強いられているようだ。ライトオン、ジーンズメイトマックハウスみたいなカジュアルチェーンは売上がどんどん縮小し、"ジーンズ離れ"的なコラムもネットに飛び交っている。それでもここ1年くらいは、90年台リバイバルで、バギーシルエットやフレアシルエットのものや、普通の洗剤で何度も洗ったようなのっぺりした色落ちのものなんかも人気のようだが、それはジーンズの人気というよりも、ジーンズを含んだ"時代な空気感"みたいなものを若い世代が新鮮に感じているということだろう。

ここへきて、俺がいま念頭においているデニムパンツとは、単に生地や形のことではなく、少し狭い枠で捉えられたスタイルであることを反省しなければならない。つまり、昨今の、少しメタ的な視点から扱われるコスプレ的なものではなく、90年代のアメリカ人への憧れや古着への好奇心と地続きになっているような、鮮度よひも憧憬が先立つようなスタイルを想起している。と、書き始めてなんとなくわかってしまったが、そりゃ、現代は情報技術が発達して、海外はもはやすぐ隣であるし憧れるべきスターも見当たらないし、ジーンズを泥臭く履けというほうが時代錯誤な気がする。

俺はジーンズが好きで、夏以外はだいたいジーンズを履いている。いろんなブランドのものを履いたが、最近ではworkersというところのものをよく履いている。シルエットと履き心地、価格のバランスがいいからだ。クラシックだが懐古趣味すぎず、右綾なのに柔らかい。バキッとしたら色落ちにはならないが、それがかえって、心地よい。ジーパンブランドではないが、"普通"な感じが好きで愛用している。ジーンズには各自の趣味やこだわり、その変遷があるだろうし俺も暫定的な着地にすぎないのだが、まあいまはそんな感じである。サイズは断然レギュラーフィット、太くも細くもないぐらいがいい。トップスも同じくらいのサイズ感で合わせる。スウェットにミリタリージャケットなんかも羽織っちゃって、もう浜田か所ジャージしかしてないようなコテコテアメカジおじさんである。別に俺が好きなようにしていればいいのだが、最近はどこに行ってもオーバーサイズとか、Y2Kとか、古着をデフォルメしたようなものばかり売っていて時代の齟齬を感じるおじさんでもあるのだ。

成人式によせる思い出、旧いアルバムめくり

晴れ。もっと寒くても良い。こんばんは、古川琴音です。

昨日は成人式で、街には振袖姿のご婦人がみられた。俺はこの手のイベントごとを盛り上がってこなせたことはない。俺の地元では成人式はその世代が成人になる年の夏にやる。深い理由は知らないが、推察するに、豪雪地帯のため、冬にやるとそもそも集まることができないこと、どうせ夜に飲み会をするのであれば未成年飲酒を防ぐために20歳と21歳がいる状態でやった方がいいこと、が理由だとおもう。だから俺の同級生たちは振袖を着ていない。結婚式に着るようなドレスを着ていたと思う。雪国でも夏は暑いのでスーツでも汗だくだ。気合の入った御仁は袴を着ていたが、概ね軽装で過ごしていたと思う。仲のいい仲間も特にいなかったので、すでに埋まっている席にもつけず、市長の話とかは立って聞いた気がする。いちおう、夜の同窓会には参加したが、すごく盛り上がってスイートなイベントもあったり・・・・ということはなく、何を話したかもあまり覚えていない。中学のクラス単位でやる席が終わると、仲の良いメンツで散り散りに酒席に興じるフェーズに入るが、なにせ心の友と言えるような存在が地元にいない俺はどの場所にも呼ばれず、21時くらいには家に帰った。

おもえば学校の卒業式もだいたいこんな調子だった。中学では俺は部活に入っておらず、後輩という存在がいなかった。野球部とかの連中が後輩たちに揉まれてる中、当時いちばん仲が良かった西野とふたりで校門をでた。西野はバスケ部だったが、あまり人と深く関わる方ではなく、寄りつく後輩もなく帰っていた。「ああいうのさあ、めんどいよな。俺は苦手だわ」とは当時の西野の言葉だ。校門から少し歩くと、路傍に女の子がふたり、我が校の制服を着て立っている。「ほら、早く!」「あの、、、西野先輩、写真撮ってもらっていいですか!?」15年前の当時でさえ"漫画みたい"と言ってしまいそうなシチュエーション。顔を見合わせる俺と西野。俺が口を開く。「あ、ああ、撮りなよ!俺は平気よ、撮りな撮りな!」女子生徒の顔も見ず、少し歩いた先で、曇る空を見上げて西野を待っていた。本当に長く、静かな時間だった。やがて歩いてくる西野、ボタンの減った学ランと照れ笑いをたずさえて「なんか、ごめんな」と俺に声をかける。「ぜんぜんいい!全然!」と声を張る。そこから、親の車の待つ駐車場までは、やけに俺が喋ったような気がするがあまり覚えていない。西野と別れ、母の車に乗る。「やけに早いのね、お友達と話したりとかないの?」「もうやった。」「そう、じゃあ帰りましょ」そうして中学の卒業式は終わった。この母親の「やけに早いのね」はここから3年後、高校の卒業式でも聞くことになるが、高校の時は後輩がいて、部活の同期ともそれなりにワイワイ話し込んでから帰った気がするのであまり嫌な気持ちはない。いまだに親交のある親友の桜田はこの時期の友人である。大学の時も、卒業式にはやはり母親が来た。別に父親がこういうことに非協力的だということではないのだが、とくに大学については、東京にくると体調がよくなくなると言うので母親が来ていた。学生数の多い大学だったので卒業式も大仰に行われたが、終了次第真っ直ぐに帰ってきたので「あんた飲み会とかないの」と三たび驚かれたものだ。蕎麦屋でカツ丼セットを食べて帰った。いまも仲良くして連絡をとる大学の友達というのはいない。父親は「大学でこそ人生の友達が見つかる」と言っていたのだが。

おっと成人式の話だった。そんな青年期を送った俺で、成人式のあたりはこのまま1人で死んでいくんだろうかと思っていたが、いまはその当時の数倍の友達がいるし、生活の不安もなく暮らしている。二十歳なんてチンチャエギであるからして、鬱屈した新成人当時の俺には、とかく前向きに社会をやってほしい、それだけが人生を拓くのだと、もし戻れるのなら言ってあげたいなあと思ったりもした。

年末年始あっさりふりかえり

晴れ。さむい。こんばんは、有村架純です。

俺は昨日から仕事初めで、既に2日間も労働している。小売業に従事して9年ほど、お盆と年末年始を人並みに休んだことは一度もない。休みは別にとるし、みんなで休んだところでどこも混むので構わないのだが、もの寂しさが払拭されたことはない。なんとなくみんなと同じように過ごしたい。俺は尖っているようでその実、みんながそうしているようにそうしたいタイプである。

さて、年末は30日まで仕事をしていたのだが、ことしら31-1日はたまたま土日なため、大晦日の元日は休みとなった。31日に新たな実家となった仙台へ向かった(親のいる場所が実家である)。弟だけいるはずだったが、兄夫婦と姪も立ち寄っており、ずいぶん久しぶりに兄弟が揃った。姪は立って歩けるようになっており、抱っこしても泣かなくなっていた(体を捩って全身全霊で嫌がっていたが)。兄夫婦は、嫁さんの実家へ向かうためすぐにマンションを発った。その後、同じく仙台へ移住している伯母に3年ぶりくらいに会う。伯母は生命エネルギーがめちゃくちゃ強いタイプで、幾分か歳をとったようだがまだまだ元気である。夜は紅白でトワイスやルセラフィム、IVEを応援し、1時前に就寝。

1日は肉を焼いた。焼いたと言っても俺ではなく母親が焼くのをただ座って待っていただけだが。我が家ではおせちはあまり食べない。男ばかりの3兄弟で、数の子だの黒豆だのが望まれるはずもなく、とにかく肉と米を要求してきた成果である。昼に肉、18時ごろに魚の煮付けを食べて、俺は一足早く帰京した。もう両親と歳を越すことも何度もないだろうということで慌ただしくも帰省したが、まあよかったと思う。仙台は適度に遠くて小旅行感もあるし。

今年は去年よりもさらに色々と慌ただしく、反動の強い年になると予想している。振り落とされないようについてこいよ👊👊👊👊