『かぐや姫の物語』

スタジオジブリ最新作、監督は『平成狸合戦ぽんぽこ』や『火垂るの墓』を監督した高畑勲

予告編はこちら

http://youtu.be/giUFDnL1fG8


公式サイトの方に、高畑勲からのメッセージがのせられているので参照されたい→ http://kaguyahime-monogatari.jp/message.html

要するに、ずいぶん前にかぐや姫を映像化しようという試みがあった際に、自分も案を出したけれど没になった。その案というのは、かぐや姫が地球にやってきた理由のことであり、そのことを盛り込んだ作品を、今回作り上げたのだ、ということが書かれてあるのだけど、はてさて。


メッセージにも書かれてある通り、ほとんど原作から展開を変えることなく話は進む。

竹取の翁が竹で赤子を見つけて持ち帰ると、天からの授かりものだとおばあさんと二人で大喜び。山の子供たちと楽しく遊びながら凄まじいスピードで成長する娘。このときまだかぐや姫という名はなく、その成長スピードから付けられた”たけのこ”というあだ名で呼ばれている。竹取の翁はその後、”たけのこ”を見つけた竹藪で、金貨や、豪華絢爛な着物をたくさん見つける。これにより、”たけのこ”は都で地位の高い人間として幸せになるべきだと考えた翁は嫗と”たけのこ”を連れて都へあがる。はじめは豪華な暮らしに楽しげであった”たけのこ”だが、山での自由な暮らしを離れて貴族としての所作や芸事を学ぶ暮らしに退屈さを感じ始め、裳着の宴会を抜け出し単身山へ戻る。しかしそこにかつての姿はなく、一緒に遊んだ子供たちもいない。茫然とするかぐや姫だったが、ひとりの老人に、「季節が巡ればはまた花がさき、人も戻ってくる」と告げられ都へ再び戻る。その後、5人の貴族や帝の求婚をかわす中で、自分が月の住人であり、とある罪の罰として地球におろされていることを思い出す。翁と嫗に「自分は生きるためにおろされたのだ。しかし帰りたいと思ってしまったので帰らなければならない」と言い残し、抵抗も空しく、かぐや姫は月の軍勢に連れられて帰る。翁と嫗はその場で泣き崩れ、物語は終わる。




この作品はその作画が大変特徴的で、作品のうまみのほとんどがここにあると言ってもいいし、この絵の世界観にどれだけハマれるかが個々人の好き嫌いにつながるだろうなと思う。
かぐや姫という誰もがしってる作品を土台にして、この豪華版にほん昔話なタッチがどれくらいウケたのか、というのは、いま世間でどれだけ「かぐや姫の物語」が話題になってるかをみて察してもらえたらいいと思うけれど、凄まじい労力がかかってるであろうことはなんとなく分かったし、こうした表現の世界をきちんと良いとわかる感性も必要だろうなとは思った。

予告編で見られる赤ん坊の動きの表現や、豊かな色彩の自然、桜の下でかぐや姫十二単を振り乱しながら笑う喜びの表現、都から山へ戻るときの夜叉のごとき描写など、随所に、繊細で目の詰まったアニメの世界が見られた。そうした表現は題材がかぐや姫という古典であったことを踏まえ、より抽象化した無垢な表現物としてかぐや姫を呈示したかったのかなぁなんて考えながら見ていた。
上映時間137分。やや長めの尺で、延々と自然の豊かさと都の閉塞感をかぐや姫の悲喜こもごもの表情とオーバーラップさせて展開される。物語冒頭から、かぐや姫と同じように時間を過ごしてきた観客は終盤ではかぐや姫と同じように疲れた表情になっていたりするけれど、ラストの月の軍勢の到来は「ついに来た」と思わせる凄みがあって大変よかった。特にBGMが最高だった。



おそらくこうしたアニメ表現の方がこの映画のメインなのだろうなと思いつつ、公式サイトでこれだけ2時間以上も使って表現された、高畑のいう「竹取物語の本当の物語」についても考えなければならない(それに、実は俺はこの物語の部分に感動したんだ)。


かぐや姫は、「生きる」ために地球に下ろされたのだ。リンクを貼った予告編で流れる歌は、花や虫と共に自然にのびのびと生きる人たち姿が歌われており、かぐや姫が”たけのこ”であったときに山の子供たちといつも歌っていた。実は彼女にとってこの歌はそこで初めて覚えたものではなかった。彼女は故郷である月でこの歌を知った。かぐや姫がそうなるように、前に地球に下ろされた天女(?)が月で歌っていたのだ。彼女はそれを聞いて、ああなんてすばらしい世界なんだろう一度行ってみたいと思ったのだった。これが、物語上の罰と対応するところの、彼女の罪だった。


では、なぜそもそも生きたいと思うことが罪であり、また地球で、多くの人間と同じように「生きる」ことが罰になるのだろう、というところが考えどころだ。
月の世界からやってきた軍勢は、仏様を中心にして華やかな天女たちが幸せの音楽を奏で、光に満ち、弓矢は花に変え、地上の人間の気力をすべて奪ってしまうような代物だった。極楽浄土、天国の顕現であり、即ち死の世界でもある。古代ギリシャから、精神の安寧というのは目下人々の大きな目標だった。哲学の多くはこれに奉仕したし、宗教の多くも精神の安寧をもたらすが故に受け入れられてきた。古代ギリシャの哲学者セネカの著作『心の平静について』にはこのような記述がある。


われわれが追及しようとするのは、どうすれば精神が平坦で楽な道をたどれるか、どうすれば精神がみずからと穏やかに折り合い、みずからの特性を喜びをもって眺め、その喜びを断たずに、有頂天になることもなく、かといって鬱屈することもなく、静謐な状態を保ち続けられるかという問題である。この状態こと、心の平静というものであろう。岩波文庫『生の短さについて』)


セネカが所属していたストア派という学派は、とにかく節制につとめ、自身の欲望を反省し、心を穏やかに保つかということを志向する学派であるが、だからといってこうした平穏なる精神への憧れがスポット的なものであったわけではない。この時代の多くの哲学者もまた、イデアやあるいは中庸などといった概念を用いてこれをめざしていたのだ。
ところで、こうした穏やかな境地、永遠の安寧というのはしばしば死とパラレルになっている。ドイツの哲学者、ショーペウンハウアーの『自殺について』を見てみよう。


我々の現存在は、かなたへと消えてゆく現在以外には、それへと足をふみしめるべき何らの基底をも基盤をももってはいない。それ故にそれは本質的には不断の運動をおのが形式としてもっているので、我々が絶えず希求している安静の可能性はそこにはない。(中略)早い話が、幸福な人間は誰もいない。ただ誰もが自分の思いこんだ幸福を目指して生涯努力し続けるのであるが、それに到達することは稀である。よしまた到達するとしても、味わうものは幻滅だけである。(中略)それにしても、動物と人間の世界にかくも大袈裟で複雑で休みのない運動を惹き起しかつはそれを回転し続けているゆえんのものが、飢餓と性欲という二つの単純なばね仕掛であろうとは、まことに驚嘆のほかはない。尤もほかになお退屈というやつが少しばかりこの二者のお手伝いをしているのではあるが岩波文庫『自殺について』)


ショーペンハウアーの主張はシンプルだ。この世で確かなものなんてほとんどない。あらゆるものが「今」を通じて「過去」になり消えていく。その中で確かなものは自分の存在だけだが、それがあったとて、次から次へと湧き出ては満たされない欲望に追われてテンテコ舞いだ。生きてる限りはこうした空虚が続くのだからいっそ死んでしまってもいいだろう、なに、怖いことはない。死ぬのはそんなに悪いもんじゃない。仏教の輪廻転生みたいなもんさ。といった具合で、とにかく生きていたら辛いと説いているのだ。ショーペンハウアーにおいては、その捉え方はともかく心の平穏は明らかに死とオーバーラップしているし、このことは我々の実感としてもしばしばたどり着いてしまう結論である(ショーペンハウアー自体は死以上に心の平穏を手に入れる方法があると言っている)。


さて、極楽浄土の月の世界は、人間が2000年以上も求め続けてきた桃源郷なのであるが、かぐや姫はどういうわけかそこでの暮らしよりもつらく険しい生の世界へ足を踏み出そうとしたのだ。月の世界ではそんな物騒なものは置いておけないというわけで、かぐや姫はいかに「生きる」ことが大変か、そして月がどれだけ素晴らしいものかを知るために地球へ下ろされた。金銀財宝に豪華な着物を与えれば竹取の翁が都へ赴くこと、その先で人間世界の大変さ、おぞましさが待っていることをご存じだったお釈迦様の思惑通り、かぐや姫は現世に嫌気がさし、月へ帰ることを望んでしまった。それ見たことかとお釈迦様が迎えにくるのだけれど、かぐや姫はNOを突きつける。

かぐや姫、というか高畑勲は、それでも生きることを望むのだった。ただしそれは都で人間関係のしがらみの中で生きるのでなく、月であの人が歌っていたように、山の子供たちが歌っていたように、虫や花と共に自由に泥にまみれ自由に狩り、四季の巡りと共に生きることを望むのだった。つらいことがあって心が乱されても、美しいもの楽しいことはたくさんある。この現世は生きるに値する場所なのだとかぐや姫は結論づける。その甲斐むなしくアッサリと連れていかれてしまうのだけど、観客には、いや少なくとも俺には伝わったぞ!といった具合である。


確かに生きていれば大変なことだらけで、報われるわけでもなく、いったい何のためにこんなことをと思うことはたくさんある。しかし我々は月に行くわけにもいかないのだから、それでも生きていくしかないし、楽しいことだってあるじゃないか!そういう前向きな作品に心打たれることが多い最近なのだけど、その着地が豊かな自然と共に〜といったものだったのはさすがジブリという感じでやや呆れてしまったのはナイショだ。



ところで、物語上の大きな罪と罰は「生きる」ことをめぐる考えの相違だったわけだけど、俺にはもう一つの罪と罰があったように思えた。

それはかぐや姫ファム・ファタルであるという罪と月へと旅立つ(=死)という罰のことだ。

かぐや姫は人を魅了することを運命づけられていた。その容姿は人を惑わし、人を動かし、男を殺す。誰に嫁ぐことのないまま貴公子を翻弄し、帝を翻弄し、竹取の翁の人生も大きく変えた。そして最後にはすべてを捨て、人々を失意の渦に陥れた。かぐや姫は何かをしたわけではない。ただ生きていただけなのだ。生きていたこと自体が罪になってしまった。それが宿命の女(ファム・ファタル)。だから、というわけではないが、かぐや姫は月へ連れていかれなければならなかった。地球に下ろされたままではいけなかったのだ。作中、かぐや姫に求婚した貴公子が死亡したという報せを聞き、「どうしてこんなことになったんだ!」と嘆き悲しむシーンがあるが、それは彼女自身がそういう星の下に生まれてきてしまったから、彼女がそういう存在だからというよりない。彼女がどれだけ生きることを楽しもうが、その存在が罪であり、破滅は広がる一方であるからして、そのけじめをとらなければならなかったのだ。

ああ、悲しきかぐや姫、安息の日々を。

『モテキ』

わかる
















だけでは記事にならない。久保ミツロウ原作の漫画「モテキ」の映画版。ある程度は原作準拠で進められたテレビドラマ版とは異なり、原作者みずから映画のために書き下ろしたストーリーで物語が展開していく。

あらすじはウィキペディアから丸コピペする。ウィキペディアのあらすじはよくまとまっていることがあって、こういうのを書くのは意外と骨が折れたりするのだ。


藤本幸世、31歳。1年前にやってきた“モテキ”の後も実家で暮らしていたが再び上京し、墨田が興したニュースサイト・ナタリーの面接を受けて正社員として採用された。ライターの仕事を覚えながら生き甲斐を感じて働いていた頃、ツイッターを通じて雑誌編集者である松尾みゆきと知り合い、意気投合する。彼女に付き合っている相手がいると知りながらもデートを重ねるが、同棲までしている事から積極的になれなかった。そんな時期に、みゆきの友人である枡元るみ子に告白をされて一夜をともにする。一度はるみ子を好きになろうと思う幸世だがみゆきへの思いを断つこともできず、るみ子を振ってしまう。その後取材でみゆきの彼氏である山下ダイスケに会って、彼が他の女性と結婚している事を知る。幸世は感情を高ぶらせてみゆきの元へ駆けつけ、気持ちを伝えるが拒絶されてしまう。ダイスケが主催するフェスの当日、ダイスケは離婚することをみゆきに伝えるがみゆきは気が浮かず、取材に来ていた幸世を見つけると逃げ出してしまう。幸世は彼女を追いかけて、そしてキスを迫る。

予告編



1年前にやってきた“モテキ”というのはテレビドラマ版のことを指しているが、本作品では時系列は引き継ぎながらほとんど独立した物語になっている。あれだけ宣伝されていた公開当時、俺だってこの作品の存在は知っていたのだけれど、あまりに女性向けっぽいタイトルのレイアウトやコンセプト、どうやら森山未來長澤まさみの乳を揉むらしいという嫉妬メラメラ展開の噂、そもそも恋愛映画に興味がないということでまったく見る気がなかった。のだけれど、何やらかなり面白いという噂をいまさら聞いたのと、そういえば夙川ボーイズのこともこの映画経由で知ったのだったということを考えあわせて見てみることにしたのだ。

予告編をみると、4人の女性から言い寄られる非モテ野郎の図を予想するのだけれど、実際は長澤まさみ森山未來との話に少し麻生久美子が絡んでくる、くらいで、真木よう子仲里依紗は外野からの参加となっている。

主要なキャラクターは鮮やかだったし、俳優とのマッチングもよかった。

主人公の非モテこじらせサブカル男子、幸世は、31歳という年齢を考えるとちょっと引くほどに子供じみていて、自意識とプライドが高い。「これいいよね」といえばいいものを自分の主張をさり気なく織り交ぜてみたり、なんでも都合のいい方向に考えようとしてみたり、自分を舞台役者に見立ててドラマチックな空想を描いてみたりと、いちいち"こちら側"の空気感をまとわせている(森山未來自身、音楽や映画、読書と多趣味で文化的な人物であってなんとなくオーバーラップするのだが、本人は既婚であるうえに、ダンスも習っていて、物語序盤でPerfumeと一緒に踊っても引けを取らない体の利きっぷりを見せ、"あちら側"であることを思い知らせてくるのである)。そんな幸世が、ツイッターで出会ったみゆきに惚れるの、わかる。
みゆきは可愛くて人慣れしていて、愛想よく屈託なく笑顔を振りまけて、遊ぶことにも慣れている、幸世からみたらまぶしくてまぶしくて仕方ない存在だったろう。そんなみゆきに手を握られてキスしてセックスまでしたら、彼氏がいても惚れてしまうの、わかる。みゆきがどんな人物かとか、サブカル趣味があうとか、そういうのは本当はどうでもよくて、非モテがかわいこちゃんとニャンニャンしたってだけで惚れるの、わかる。どう考えても高嶺の花なのになぜかイケると思ってしまうのも、わかる。モテない自分にめっちゃすり寄ってきてくれる麻生久美子を、どういうわけか好きになれずに遠ざけるのも、わかる。


で、そんなみゆき、初対面でも堂々と飲み会で華をふりまいて、男どもをヒラリヒラリとかわしながらも、ハイパーイケイケお兄さんにゾッコンになって辛くなってるの、わかる。みゆきの彼氏を演じる金子ノブアキ、物語上ではかませ犬になってるけれど、すげーいけすかなくて良かった。濃い顔、チャラいファッション、気さくな人柄、仕事バリバリ、不道徳に女遊びもすると、幸世が嫉妬と劣等感を募らせるのに最高のキャラだし、ちゃんと実写の上でそれが活きているのがよかった。
みゆきに話を戻すと、本編では、みゆきの心理描写はわりとあっさりめに描かれてるのだけど、この女、どうしたって自分にコンプレックスあるし、だからるみ子とも仲良くなったんだろう。みゆきが幸世に対して好意を抱きながらあと一歩ダイスケを捨てきれないのは「幸世じゃ(自分が)成長できないから」だという。この成長とかいう曖昧な言葉を平気で使う人間には虫唾が走るが、要するに自分を支えさせられない、もっと言えば甲斐性がないってことなんじゃないか。そもそも幸世のことをなんで好きになったのかはよくわからないんだけど、恋する理由を問うのは野暮ってものか。俺が言えない。長澤まさみは、天真爛漫で太陽みたいな女の子が似合うけど、悩むのはあまり似合わない涙をこぼしながらその細長い足を腕の中に畳み込んでいる様子はどうも違和感がある。もっと闇があるところを見せてほしかった。


そんなみゆきと友達のるみ子、33歳の設定だが、こちらもなかなか拗れている。いわゆる、重たい女として描かれるるみ子、きっとモテてこなかったんだろうなというのは初登場のシーンからわかる。みゆきとは異なって、自分の受皿を探してる状況、自分が成長しなくていいような相手を探していた。そんな33歳が自分の仕事や趣味に付き合ってくれた幸世にいきなり恋するの、わかる。サブカル野郎に合わせて普段きかない音楽にトライするのもなんともかいがいしい。そして、この映画の見せ場の一つの、麻生久美子迫真の、重たさ大爆発の演技、スゴイ。麻生久美子の薄めな顔を暗黒丸出しのカタストロフとのコントラストが衝撃的だ。嗚咽というか絶叫に近い泣き声は、明らかに自らの悲哀を嘆いていて、その身勝手さが身につまされる。「B'zをやめて神聖かまってちゃん聴くから」などと訳のわからないことをいって幸世を引き留めようとするもあえなく玉砕。失意のどん底かと思いきや、手慣れたオッサンに抱かれて牛丼を食べたら復活しやがった。なんともげんきんな女だなと思ったけれど、これもひとつの生き様である。


で、そんな陰陽ことなるメンヘラを引き立てるのが、仲里依紗真木よう子になるわけだが、仲里依紗は若くして子供をもってあげく離婚、水商売をして生計を立てているけれど、そういう苦労は多くて知識のない女性が、割と的確だけどやけに上から目線というか、諦観めいたアドバイスをする感じ、わかる。いいキャラクターだったからもっと出番欲しかったけど、謎のキスだけしてフェードアウトしてしまった。
真木よう子はというと、部下が私情で大事な仕事を台無しにしかけたのにその私情の相談にのってやるという、いい人なのか無責任なのか分からない姉御っぷりを発揮している。そういえば真木よう子自身の恋愛事情とかは全く描かれていなかった。ただただアドバイスをするマシーンと化していた真木よう子、でもちょっとでも真木よう子が悩んで女の顔みせるところみたかったし、セリフにも力強さが出たのではないだろうか。



キャラクターの魅力はもちろんだけど、この映画はやはり音楽を含めたミュージカルじみた演出が醍醐味だ。選曲も、夙川ボーイズや女王蜂、フジファブリック大江千里ももクロ岡村靖幸などサブカルネオンがぴっかぴだし、本編をカラオケの画面に見立ててコメディに心理描写をするのも面白かった。中盤の苦悩パートでほとんど出てこなかったのは少し物足りなかったけど、その分、ちょっとやりすぎ感さえあるラストシーンも気持ちよく見られた。ただ、ラストシーンは、物語自体はきちんと着地をしていなくて、みゆきがイケイケのダイスケにするのか非モテの幸世にするのかは描かれない。単純にみれば幸せなキスをして終わりなんだけど、ダイスケもダイスケで一応けじめをつけようとしてるわけで、おいお前どうすんねんという気持ちがある。「物語はちと不安定」で終わらせたかったのはわかるけど、一応映画なら安定したところも欲しいのではないか。


ラストの耽美によりすぎたところは目をつぶるとして、この映画をみて登場人物たちに感じたのは、いくつもの「わかる」ともう一つ、清々しいまでの身勝手さだ。幸世は手前の非モテで自分の首を締めながら、つまめる女はつまんでおくクズっぷり。みゆきはみゆきで、自分が浮気相手のくせにさらに浮気をしてみせる度胸と、浮気相手にキレ出す頭のトび方。麻生久美子はさんざん自分のために惚れて自分のために抱かれて自分のために泣いて自分のために立ち直ってる。どんだけ楽しい人生なんだみんな。

恋愛では、考えても仕方ないこと、ルーツを探っても見えてこないものがたくさんあるようで、とにかく現前する状況と心情に対してあれやこれやと立ち向かっていくしかないこと、その中で各々のエゴと他者への配慮がつばぜり合いして、音楽でも聴かないとやってられないこと、不安定でもなんだかキラキラして綺麗なこと、そういう手前勝手でサイコーな感じがよく表現されてたと感じたし、とにかく長澤まさみと付き合いたいと思った冬の夜である。

『GIジョー バック2リベンジ』


予告編のパワードスーツを期待して見たのにあっという間にぶっ壊れて、悪役もあっという間に捕まってでつまらん尽くしだったGIジョー。その続編ということで、またニンジャバトル以外に見どころもないだろうと思いながら見たのだ。


予告編


こういった爆発!格闘!大活劇!っていう感じの映画は感想を書くのが大変なので、ネタバレ込であらすじをなぞりつつ書き進めていこうと思う。


前作でGIジョーの仲間入りをし、悪の組織コブラコマンダーと武器商人デストロを見事逮捕した、チャイニング・テイタム演じるデュークは今作ではGIジョーの指揮官に就任、そつなく任務をこなしていた。ところが、こちらも前作で策略によって大統領になりすましていた怪人ザルタンの罠によって、GIジョーは全滅、デュークも戦死してしまう。

死んだと思われていたコブラの戦士ストームシャドー(イ・ビョンホン)が、逮捕されていたコブラコマンダーファラン・タヒール)を解放、新たな悪人ファイヤーフライ(レイ・スティーブンソン)も加わって、再び世界征服を目論むコブラに、生き残ったGIジョーはブルース・ウィリス演じるGIジョーOBのジョー・コルトンを招聘して立ち向かう・・・・!


といったあらすじなのだけど、視聴体験としては、まず、前作での登場人物がいつの間にかほとんど消えてしまい、とってつけたような状況説明の後に作の主人公が速攻で死んでしまう展開に、呆気にとられるところから始まる。前作終盤で、マスクまで付けてキャラ付けされたデストロでさえ、セリフの一つも表情のアップもなく退場する。どういうことなのだ・・・仕方ない、助っ人参戦したブルースに期待するか〜と思いきや、見せ場と言える見せ場は予告編で見えるそれでほとんどだったりして、ものすごく影が薄い。薄いのは頭だけにしてほしい。ただでさえハゲ枠はドウェイン・ジョンソンでお腹いっぱいなのだから。


そうなってくると期待をかけるのはハイテク兵器でのドンパチと、スネークアイズ(レイ・パーク)とストームシャドーのニンジャ対決になるわけだが、これらも、もう少しおかわりが欲しいなぁという気分がある。

各所で(予告編でのバイクミサイルのような)おもしろ兵器が登場するものの、多くはお定まりの銃撃戦だし、なぜかGIジョーがコブラの兵器の扱い方を知ってたりするのも謎。終盤にドウェイン・ジョンソンとレイ・スティーブンソンが繰り広げる肉弾×銃撃みたいなアクションはゴリマッチョ同士ですごく腹が膨れる割に満足感がないし、それ以外でも全体的に、かっこつけようとしてかっこついてない。


ニンジャ対決の方はというと、とにかくスネークアイズの立ち居振る舞いがかっこいいのとストームシャドーの湿気のある狂気が魅力的なのだけど、物語中盤でストームシャドーが心変わり、スネークアイズと仲直りしてしまうために二人が戦うシーンは一度しかない。このニンジャ絡みで登場する建物や人物がどれもこれもうさん臭くて、イマドキここまで偏った日本描写、というかオリエンタル描写をするのかというくらい勘違いはなはだしい。恐山のイタコよろしく祈祷しながら怪しげな薬を処方するババアの横で最新鋭の機械がウィーンガシャと動いてるシーンなどは完全にお笑いだ。機械に祈ってどうする。

絶壁でロープにぶら下がりながら敵ニンジャと戦うシーンもなにやってるんだかよくわからないし、新たに登場したストームシャドーの従姉妹だというジンクス(エロディ・ユン)も、ずいぶん重そうに刀を扱うのであまり強そうに見えない。レイ・パークスターウォーズでダースモールとしてあんなにかっこよかったし足もよく上がるのだから、もっとスネークアイズの出番が見たかった。


参考


まぁ、あまり期待しないで見たからそんなにガッカリはしなかったけど、コブラコマンダーはまた逃げたし続編つくるとするならもっとましなものにしてくれという感じがある。ところで、GIジョーって映画以前にアニメがあって、アメコミとかが好きな人はそのアニメとの比較をしてみせるのだけど、俺はコブラコマンダーの甲高い声と謎の区長でコ〜〜〜〜ブラ〜〜〜〜〜と叫ぶってことしか知らないのだ。


参考


若本御大が二役やってるな・・・
 

『凶悪』

この映画のことは、マンオブスティールを見に行った映画館に掲示してあったポスターで知った。ピエール瀧リリーフランキーが悪そうな顔をしている、それだけでずいぶんそそられてしまって、ロクにあらすじも知らないままに見に行ってきた。いつもの通りネタバレ配慮はしない。

公式サイトからあらすじを引用する。


スクープ雑誌「明潮24」の記者として働く藤井修一(山田孝之)は、東京拘置所に収監中の死刑囚 須藤純次(ピエール瀧)から届いた手紙を渡され、面会に行き話を聞いてくるよう上司から命じられる。
面会室で向かい合った須藤は、「私には、まだ誰にも話していない余罪が3件あります」と話しはじめる。その余罪とは、警察も知らず闇に埋もれた3つの殺人事件だった。そして、これらすべての事件の首謀者は、“先生”と呼ばれる木村孝雄(リリー・フランキー)という不動産ブローカーであり、記事にしてもらうことで、今ものうのうと娑婆でのさばっている“先生”を追いつめたいのだと告白される。
半信半疑のまま調査を始める藤井だったが、須藤の話と合致する人物や土地が次々と見つかり、次第に彼の告発に信憑性がある事に気付き始める。死刑囚の告発は真実か虚構か?先生とは何者なのか?藤井はまるで取り憑かれたように取材に没頭していくのだが…


こちらが予告編


ノンフィクション小説を原作に持ち、社会派サスペンス映画として完成したらしい本作。

あらすじや、「死の錬金術師」などという煽り文句を見ると、この”先生”のことは『虐殺器官』のジョン・ポールのように思えてくる(実際そういうものを期待してしまった)のだが、そんなに突飛なアイデアのものではなく、土地を持っていたり保険金がかかっていたりする爺さんたちをヤクザに殺させて利益を得ている大悪党というものだった。「死の錬金術師」は洒落めかした比喩ではなくほとんどそのままの表現であったわけだ。

物腰柔らかに見えて人を人と思わない残忍さと、「燃やしてみたいんだ♪」といって死体を焼き払ってみせる先生の無邪気な狂気をリリーフランキーはよく表現してたと思うし、馬鹿で粗暴だけど情には厚い、ザ・ヤクザな須藤のキャラクターにも、ピエール瀧がばっちりハマっていたと思う。老人という弱者への殺傷や、汚れた金銭のやり取り、セックスといったインモラルな営為をごく淡々と、当たり前のようにやってみせるというのは、狂気の表現としてはありがちといえばありがちだけど、タバコの煙やアルコール、安っぽくて汚い住居、山や野原の枯れた草木、主人公含めた登場人物の表情、ほとんど会話のみで進行する中でごくたまに鳴らされる不気味なBGMなど、作品全体を包む、乾き、疲弊しきったムードが、先生と須藤の笑い声の邪悪さを引き立てていた。


そんな先生とヤクザの悪行三昧を藤井が追うわけだけど、この藤井というキャラクターがなかなか曲者だ。とにかく表情がない。ずっと真顔だ。そして登場時からなぜか疲れ切っている。池脇千鶴演じる嫁と、認知症にかかった母親の三人暮らし。嫁は姑をホームにいれたいが藤井は了承しないし、かといって嫁を労うようでもない。藤井が先生の事件の取材に没頭する中で嫁のストレスは限界に達し、離婚を突きつけられてしまう。

とにかく何やら事情がありそうな行動が多い藤井なのだが、その理由を本人がぜんぜん語らない。母親をホームにいれないのだって「罪悪感があるんでしょ」と嫁に指摘されてもウンともスンとも答えない。作品終盤で須藤に対して感情を見せることになるが、いきなりキレ出すので「あ、え?」と思わなくもない。公式サイトのプロダクションノートにあるように「狂気に感染していく」と言えば聞こえはいいが、ちょっと感受性強すぎなのかな、といってしまえばそれまでという気もする。


元がノンフィクション小説で題材も重たいものなだけに、フィクションとして収まりのよいメッセージ性や、エンターテイメント性の強いどんでん返しなんかを織り込まかったということかもしれない。藤井が事件を追うといっても、思わぬ証拠を見つけるとかトリックを見破るとかではなく地味に足で聞き込みをしてみたり現場を掘り起こしてみたりするだけだし、映画の半分は先生と須藤の悪行、いわば過去の回想シーンになるので、その全景をどうやって藤井がつかんだかはよくわからない。先生と須藤の二人の悪党のプリズムとして藤井を解体することで、この作品自体を掘り下げるキーにもなるんじゃないかと思うものの、如何せん手がかりが少ないか。


もっとも、藤井からズームアウトしてみても、この映画には、フィクションとした意地か、”テーマ性”めいたものも見え隠れするにはする。

この作品には藤井の家族、先生の家族、須藤の家族、被害者の家族といくつかの家族が登場するが、それぞれみんな何かしらの失調を抱えている。そうした失調と改善、理想への志向の中で人間模様が錯綜していくという家族の問題。

先生の被害者はみな、もう死ぬしか人生のイベントが残っていないような老人であること、またその中には、家族がその高齢者によって苦しめられている事情があること、そういった状況下の殺人がどれだけ責められなければならないものなのかという罪の問題。

罪のカラミで言えば、藤井の取材で明かされる真実と裏腹に崩壊する家庭から見える、死んだ人間を弔うことと生きた人間の幸福に腐心することのバランスや、贖罪のありようといった、自己と他者の生き死にの問題。

悲痛な事件を取り上げて食い物にするメディア、ジャーナリズムのあり方についての問題提起。

どんどん事件に没入する藤井や、「私だけはこんな人間(先生)じゃないって思ってたけどね」と前置いて認知症の姑への暴力を吐露した藤井の嫁を代表させて、人間には誰にでも先生のような凶悪さが眠っている、特別な事例じゃないんだとする狂気の問題がひとつ。
etc...


しかし、繰り返しになるが、まずはノンフィクションありきということにしているためなのか、このどれかに先鋭化してフィクションに落とし込むということが成されていない。そのうえに、どれも、どうもありがちな問題であり、その解決策や持論が展開されるわけではないので、どこで掘り下げてもなんとなく空回りしたような気分になる。複層性のある物語であるといえばそういえなくもないが、殺人やセックスの映像の迫力に負けてストーリーテリングがややなおざりになっているような気がした。


今日の一番の盛り上がりどころは、冒頭で殺される女性が範田紗々だったことに気付いたところだったかもしれないな。範田紗々だ!って思ったからな。それと、池脇千鶴もあんな疲れた嫁役をやるほど老けたんだな、という感慨もあった。どうしようもないわたくしである。

『悪の教典』


スピンオフのクソドラマから半年以上、ようやく本編をみた。


あらすじは改めて書くまでもないので、すぐに感想を。



おおむね面白かったし、見せ場の皆殺しシークエンスも十分時間をとられて蓮見無双を楽しむことができた。撃たれて死んでいくか弱い生徒たちが、真横に吹っ飛んでみたり、どてっぱらに風穴あけられてみたり、土下座しながら死んでみたりとバリエーション豊かに散っていくのもよかった。

が、しかし、スピンオフドラマで感じた演出のアラ、ツッコミどころは相変わらずだ。


まず、まずさ、映画全編にわたる男の裸への執着はなんなの・・・映画が始まるやいなやショタの薄い胸板や滑らかな臀部が映し出されて期待不安を感じたよね。この物語には二人のインモラル教師が登場する。ひとりは、女子生徒(水野絵梨奈)の弱みを握ってセクハラを働く体育教師(山田孝之)、もう一人は中性的な美少年の生徒と禁断の愛を演じるホモ教師(平岳大)。で、女子生徒へのセクハラのシーンはぼかすだけなのに、どういうわけかホモの方は、裸の美少年が口淫に身もだえる様子がしっかり映し出されている。笑わせるな。それ以外にも伊藤英明のマッチョな裸体が何度となく登場しては見る者の劣情を煽るため、ヘテロセクシャルを自認する俺も、そっちも悪くないかという気になってくる(なるわけないだろ調子にのるな)。


気になったところはまだいくつもある。いくら夜遅い電車で、少ない乗客が寝ているとはいえ、公共の場で人を殴打、首を吊るす大仕事をやってのければ誰か気づくだろうよ。

あと、皆殺しシークエンスの前に殺した不良生徒のケータイを持ち歩いて、山田孝之から寝取って情婦にしていた女子生徒に見つかるなんてとんだドジをやらかすし、おまけにその女子生徒を殺し損ねるとはどんな詰めの甘さだ。そもそも、そろいもそろって即死するなか、学校の屋上から落とされ、頭からコンクリにぶっけて即死しないあの女子高生のタフネスさはなんなのだ。

皆殺しシークエンスでは、この女子生徒を突き落す前にパンツを脱がして、セクハラしていた体育教師の冥土の土産にするシーンがある(これが唯一のお色気で、ちょっとうれしかったゾ)が、体育教師がパンツをうけとってすぐに匂いをかぐのも意味不明だし、その匂いでセクハラしていた生徒だとわかるのも凄まじい。どれだけク○ニしたんだ。どんな匂いなんだ。教えてくれ。山田孝之は犬っぽいしな。嗅覚が鋭いのかもしれない。


物語中盤から脚光を浴び始める、アーチェリー部の少年(西井幸人)はとてもよかった。彼は文化祭準備の最中に好きな女の子に告白を試みるわけだが、どうも告白するまでもなく二人は両想いらしい。蓮見の凶行が始まってから、少年は逃げ切れたにも関わらず愛する女子を守るために学校に戻り、女子は女子で愛する男子のために、傷だらけになりながら脱出を試みる。結局、二人は逢瀬するも蓮見にみつかり、射殺されてしまう。

けど、このシーンもひっかかるところがあって、少年たちは校庭にいて、蓮見は三階にいる。かなりの距離があるにも関わらず、猟銃の一発で死んでしまう。なぜだ。散弾銃だったら、有効射程はそんなに広くないのでは。
そもそもこの蓮見がもってる散弾銃は高性能すぎる。ガラスを突き破っても的確に生徒の体を貫き、ほとんど即死だ。蓮見の射撃の腕も目を見張る。


この作品を通じて蓮見の主要な凶器になっているあの殴打用の武器もよくわからない。コンビニでもらえるような白いビニール袋に土か何かを詰め込んでハンマーのようにしたDIY精神あふれる牧歌的な武器なのだが、作中ではことごとく一撃で対象を気絶させる活躍をみせる。そんなにすごいのかあれ。とてもそうは見えないけど。



ラストには、作中つうじて蓮見に疑念を抱いていた三人組のうち二人が生還するのだけど、この二人ぜんぜん好きじゃなかったし、そりゃ生き残るか、ぐらい押せ押せで目立ってたので何も驚きがない。ひとりはなんだか口数の少なめで勘の鋭い女の子(二階堂ふみ)で、もう一人はこの子に片思いしてるっぽい不良一歩手前の少年(浅香航大)。この少年、策略をもちいて蓮見から逃げおおせるのだけど、それに際して二階堂ふみと素肌を擦り合わせるので大変うらやましい。しかし、せっかく生き残っても、女の子の方は、三人組のもう一人の男(染谷将太)(殺害される)に未練たらたらで生き残った彼は片思いのままなのだ。ざまあない。



ところで、見終わってから気づいたのだけど、原作小説を読まず、ウィキペディアも見てないっていう人がこの映画をみたとき、そもそもどうして蓮見はこんなことをするんだろう、何がしたいんだろうっていう疑問を抱くんじゃないだろうか。オーディンがどうのっていうくだりでなんとなく暗示されてるものの、明確に誰かの口から語られるわけじゃないし、サイコパスだって言われても、快楽殺人者でもないなら邪魔者を排除する必要はなかったわけで。確かにこの映画は蓮見の策略と惨殺をみせる映画かもしれないけど、だからって物語をなおざりにしていいわけではないよね。ありきたりでも一応のケリはつけておかないとならない。

続編を匂わせる終わり方をしたから、もしかして続編でその辺も明らかになるのかもしれないけど、見たいものは見られたし、別につくらなくてもいいかな・・・

伊藤計劃『虐殺器官』

『ニシノユキヒコの恋と冒険』が映画になるらしい。主演が竹ノ内豊で、周りを固めるのは麻生久美子や本田翼、成海璃子尾野真千子など錚々たる美女たち。なんということだ、絶対に見ない。EDになってしまう。

『ニシノユキヒコ』がどれだけ人気のある作品なのか俺は知らないのだけど、そこそこ有名らしい?という感触はある。題材は女性ウケがよさそうだし、文学作品としても面白かった。


文学作品として面白い、というのは、端的にいって「読みの奥行きが広くとられている」という特徴に言い換えられると思う。「地図のように、無限の読み方ができないと作品ではない」といったのは安部公房だが、今や「作者の意図」とかいった読みの終着点はずいぶんとナリをひそめ、代わりにテクストを通じて読み手が多様な世界を展開する契機がもたらされた。それに、時代の要請を待たずとも本を読む楽しみは作品へ向かうことよりむしろ作品を咀嚼することの方が、昔からずっと優先されていたのではないか、なんて。

その意味で『ニシノユキヒコ』は、構造の複雑さが読み手を迷路に誘い込んで、各々の経験を喚起しながら軽やかにテクストと旅ができる作品だったと考えるのだ。



今回読んだ『虐殺器官』は、『ニシノユキヒコ』とはずいぶん毛色が違うけれど、やはりテクストの深さによって文学的地位を確保している作品だ。伊達にゼロ年代以降のSF小説の傑作といわれるだけのことはなく、その読みの奥行きの広さたるや相当な代物だ。この作品の奥行きを担保しているのは、『ニシノユキヒコ』のような、パースペクティブの補完・欠如によるそれよりも、方々へ飛び散った書き手の思索の果実や問題意識の波が、様々な色の糸として壮大な物語を織り上げている点にある(別に『ニシノユキヒコ』といちいち比較する必要なんてまるでないのだけれど)。



文庫版の裏表紙にかかれているあらすじ紹介にはこう書いてある。

9・11以降の、"テロとの戦い"は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう・・・彼の目的とはいったいなにか?大量殺りくを引き起こす"虐殺の器官"とは? ゼロ年代最高のフィクション、ついに文庫化!

「ああ、また監視社会とそのアンチテーゼで描かれるユートピアディストピア小説か」というのが第一印象だった。オーウェルが描いた未来はまだ来てないのかと。

だが読み始めてすぐにその軽率な判断を後悔することになる。人体損壊の緻密な描写や、戦争のただなかにいなが冷静極まりない主人公の語り口、激しい戦争のシーンと静かな内省のシーンの緩急など、どんどん読み進めたくなってしかもしっかり読み応えのある、通り一辺倒でないSF作品だった。

とはいえ、この作品を通じて何を語るべきか考えあぐねている。『虐殺器官』には管理社会と戦争を媒介にして、罪と罰のこと、自由のこと、資本主義経済のこと、宗教のこと・・・大量の哲学的思索が織り込まれており、しかもそれらが一つの方向性をきれいに向いているわけではないからだ。だから、それぞれの話題を語ろうとするとブツ切りになってしまって、どうもまとまりが悪い・・・。


まず、さしあたって語ってよさそうなのは、この作品全体の雰囲気を形作る"肉”の表現だ。銃弾に撃ち抜かれた人間の有様はもちろん、主人公が任地に赴く際に使用する、人工筋肉でできた「侵入鞘」、痛覚処理による身体感覚の変化、主人公の共感覚めいた感性による種々の描写etc・・・このことは小松左京に「テーマ性に欠ける」と評されたらしい『虐殺器官』のテーマの一つだったと思う。生き死にの問題、魂、罪と罰そういった抽象概念が身体、具体的な肉体が引き受けることになる、そういう存在として身体が、人間があるのだということ。タイトルから既に、器官の名のもとに、肉体への志向が始まっている。読者は一貫して、きわめて触覚的な描写を読み進めながら肉の生温かさや柔らかで弾力のある質感を思う。そうした手触りがこの作品のイメージを支えている。こうした表現には、作者のガンとの戦いが少なからず影響を与えているだろが、私的投影の産物とだけ見るには、この作品の深層に積まれたテクストへの敬意が足りない。

本作でニーチェが引用されるのは一度だけ、しかも「誰かが神は死んだといったそうだ」くらいのもので、その哲学的思索を本格的に引用して一席設けようということはまずしない。しかしこうした身体へ、固体へ最終的なよりどころを求めていくことはかなりのところニーチェ的と言えるだろうし、罪と罰や赦しといった営みに宗教が絡んでくるあたりは実存主義的だ。ただ、大量のテクストを下敷きにしながらお説教がましいことはせずにその描写で物語ろうとしたのは、抽象概念でどうこうするよりも、手触りとして、物質として、即物的な終着点として身体を求めているからだと読めた。


こうした肉体への関心でもって大胆にアプローチされるのが言葉の問題だ。言葉は作中で何度となく論じられ、作品の深部に位置する重要な話題だ。
言葉の問題は、様々な学問の関心事であり、こと現代の哲学ではほとんどそのことで終始してるようにさえ思える。作中では言葉に関する、明らかに哲学のテクストを下敷きにした記述がみられる。重要だと思われる、主人公の語りを抜粋引用する。

(・・・)ほんとうのところ、ことばによって現実が規定されていて、人間にはそれぞれのことばによる別の現実があり、ぼくらはことばというフィルタを通してしか物事を認識できない、という考え方は魅力的ではある。とはいえ、それはぼくにとっていつも違和感をおぼえる説のひとつだった。高校の英語教師はエスキモーの雪の話を得意げに語ってくれたものだが――そのときの数が二十だった――ぼくにとってことばは、実体としてぼくの外にある塊であり、確かな実在物として感じられるがゆえに、それがぼくという人格に影響を及ぼしているとはどうしても思えなかったのだ。 (122ページ)

事物、世界の認識やそれにかかわる思考に対して言葉が先立っているというのは、比較的最近の考え方で、国境をまたぐまでもなく、すぐ隣に住んでいる人間とでさえ全く世界の捉え方が違うという現代人の実感を支えるに十分な説得力のある論だろう。ほとんど神様にとって代わってるようだ。信じているものが違うのだから仕方ない、と。いい加減に他者に対してつっけんどんではやっていけなくなってきた世界の折り合いのひとつかもしれない。

主人公が、というかこの作品全体の思潮としては、こうした考えとは違う立場のようで、言語は進化の過程、言い換えると生存のための適応の過程で生まれてきた"器官"のようなものだとする。この"器官"という表現はなかなか秀逸で、論理の上でもうまく機能するし、グロテスクな内臓と通じる言葉を用いることで、言葉と肉体との関連性を印象付けることができる。

言葉を物質的なものとして捉えるという考えは、伊藤計劃独自のものというわけではないが、あまり脚光をあびないながら魅力的だ。ソース不明で申し訳ないが、人が他人を思い出すときには、その顔を思い出すという話をきいたことがある。たとえば伊藤計劃には、PNでない本名が戸籍に登録されており、そのほかに住所、生年月日、血液型etc・・・といった概念によって個人が管理されている。しかし実際には、想起という営みは伊藤計劃という人物の具体的な身体(顔)によるわけだ。あるいはこういう話もある。「ラジオ」という語によって、我々はその概念や、"一般的な"ラジオや「イデア」を見るわけではなく、ある具体的な、"あのラジオ"を見る、思い浮かべるものだと。上で引いた『虐殺器官』の引用のすぐ後に、アインシュタイン相対性理論を数式や言葉でなくイメージとして獲得したという逸話が語られることは示唆深い。言葉を定義で話そうとすると、すぐにその実体(=意味)が霞んでしまうということがある。言葉の定義は再び言葉によって定義されなければならないという円環を打破する論として、こうした言葉―実体説が機能するということはある。また、「虐殺器官」に関わるタネ明かしも、こうした言語へのスタンスありきでなければならない。

言葉と人間の二つの哲学的思索について、どちらが優れているかはともかく、『虐殺器官』においては徹頭徹尾、肉に根差した視野を持つ。この視野はすなわち個々人の具体的な生のレイヤーでもあり、未来から翻って現代を見つめるSFのお家芸が今回この作品で提示してきた態度だろう。



本当はさらに、罪と罰および赦しのことや自由のことも話題にするべきなのだが、もうつなげる自信がないのでこの辺で。こと、資本主義経済やそれにまつわるユートピアディストピア性については、俺の手にはどうも負えないようなのだ。。。

川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』

モテたことがないので分からないが、モテる人にはモテるなりに悩みがあるらしい。そういえばテレビで、「僕いつもフられるんすよww」とコメントする俳優なんか見たことがあるような気がする。

そんな彼のことはともかく、モテる男の珍道中を描いた、川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』を読んだ。

唐突だけど、俺は文庫本の裏表紙にかいてある短いあらすじ紹介の文章が好きだ。これを書いた人は既に中身を読み切って、短くしかもスッキリと物語を伝えようと心を砕くわけで、そう考えたらなんだか贅沢な文章だ。

『ニシノユキヒコの恋と冒険』の文庫本の裏表紙にはこう書いてある。


「ニシノくん、幸彦、西野君、ユキヒコ・・・・。姿よしセックスよし。女には一も二もなく優しく、懲りることを知らない。だけど最後には必ず去られてしまう。とめどないこの世に真実の愛を探してさまよった、男一匹ニシノユキヒコの恋とかなしみの道行きを、交情のあった十人の女が思い語る。はてしなくしょうもないニシノの生きようが、切なく胸にせまる、傑作連作集。」


ニシノユキヒコが10代の頃から60にもならずに死ぬまでかかわってきた、年代も性格もバラバラな女性たちが、思い思いに語ったエピソードで成り立っているオムニバスのような作品である。十人がしゃべり場よろしく座談会をしているわけではなく、ひとりひとりが一つの章を持っている。エピソードは、ニシノユキヒコの死後から始まり、次の章から、最も若い頃から時系列にそって展開され、一番最後に、締めくくりのような形で大学生時代の思い出が語られて幕を閉じる。


出だしで既に死去していることが語られることで、ある偉人の伝記を読むような気分で物語を追うことができる。このことは、ニシノユキヒコと一定の距離をとることでもある。彼は私ではないし、それはひとつの歴史としてあったことで、それ以上でも以下でもない、と。

裏表紙の紹介文にもあるが、作中で、女たちは様々な呼び方でニシノユキヒコを呼ぶ。正確に言えば、ニシノユキヒコの呼称が、様々な記述のされ方をする。それぞれの章は、その女性が自ら文章にしたものなのか、口で語ったものなのか、ただひとり夢想したものなのかは分からず、苗字と名前、漢字と記述が入り乱れるその記述のバラつきの理由も特に説明されるわけではない。

月並みに考えれば、呼称を変えることで、その人に"とっての"ニシノユキヒコであることを示そうとしていて、一つのエピソードを一つの光源として、多角的にニシノユキヒコという人物を捉えようとしているのだ、と言うことはできる。あるいは、こうだ。片仮名で記述することは、しばしばその言葉の抽象性を際立たせる作用を持つ。例えば、よく漫画なんかでロボットや異星人の「無機質な」喋り方を片仮名で表記したりするが、そうすることで、言葉から肉を奪い、その意味のみを抽出する効果がある。と、すると、『ニシノユキヒコの恋と冒険』と題されたこの物語で登場するニシノユキヒコという「意味」はなんだろうか、と考えるようになる。

様々に呼び分けられるニシノユキヒコを考えながら、前半で俺は「これらのニシノ、幸彦、西野君なんて、もしかしたら同一人物じゃないのかもしれないぞ。うっは俺ってば読みが冴えてる!」なんて思ったのだが、読み進めるとちゃんと、前の彼女が登場したり、イベントが重なっていたりして、エピソード毎が関連するように書かれてあるのに加え、ニシノユキヒコについて同様の特徴が語られるため、この「ニシノユキヒコ複数人物説」はやや無理筋かもしれない(とはいえ、最後まで、エピソード毎のニシノユキヒコが同一人物であるという記述は出てこないため、全くあり得ないという読みではない)。


ニシノユキヒコについて語られる同様の特徴というのは、ハンサムである、物腰が柔らかである、女の扱い(駆け引きからセックスまで)が上手い、浮気性だ(自分に彼女がいようが、相手が既婚者だろうが関係ない)、どこかつかみどころがない、彼からは愛されていないと感じる、などである。ともかく、基本的には申し分ない男なのだが、どこかしっくり来ない感じがする、そうだ。

そんなニシノユキヒコ、俺にしてみたら何が大変なのかよくわからないが、彼は彼で苦労があるようだ。彼は本当は一人の女性を永遠に愛したいと願っているらしい。だがそれが出来ない、そうすることへ踏み切れず苦悩していることが語られる。「僕はどうすれば本当に誰かを愛せるのだろう」というようなつぶやきが何度ニシノユキヒコの口から漏れ出たことか。

彼のそんな苦悩の源泉はどうやら家族関係にあるらしい。ニシノユキヒコにはいくぶん歳の離れた姉がいたが、その姉は子供を早くに失くし、自身も自殺をした。ニシノは姉をどれだけ愛していたのか知らないが、そのことは彼の心の"淵"として語られる。



イギリスの医学者ジョン・ボウルビィの本に書いてあったことだが、こんな実験があるそうだ。
猿だかチンパンジーだかの赤ん坊を母親と隔離し、「ミルクを出す装置と、木や金属の骨格を持った母親人形A」と、「ミルクを出さないが柔らかな毛布で出来た母親人形B」を並べて置いた部屋にいれておくと、ほとんどの猿だかチンパンジーだかは、人形Bから離れなかったそうだ。こういったことをボウリビィはアタッチメント(愛着)理論と呼び、人間にとっても重大なことなのだとした。

アタッチメント、多くの場合は母親を出発点にするが、そこが世界の中心であり、いつでも戻ってこられる安全基地として機能して初めて、人間はその外へ向かっていける、おおざっぱにいえば前向きに生きていけるというわけだ。



さて、ニシノユキヒコにとって、姉へのアタッチメント(愛着)が世界を安定させるだけのものとして機能していたとしたらどうだろう。姉を亡くし、世界が不安定になった彼は、新たな支柱を求めて女性を転々とするも、それが(姉が自殺してしまったように)永遠に続くとは限らない不安にかられるや否や、自分の世界を預けるだけの勇気を失くしてしまい、挙句女性の方から捨てられてしまう。セックスを媒介にした安心と絶望の自転車操業を繰り返しついに安寧を得ることなく死んでしまったニシノユキヒコ、女性たちが口々に「可哀想」と語る彼の人生は、こちらから見るほど華やかではなかったのかもしれない・・・






と、いう読み方だけでは、この作品を一面からしか読み込めていないと思う。この作品はニシノユキヒコに抱かれた女たちの語りによって成り立っており、いわゆる「地の文」が存在しない。全て登場人物のセリフであり、それは登場人物のパースペクティブを持つ。

この作品は、ニシノユキヒコという人物の物語であると同時に、彼に関わった女性たちの物語でもある。彼女たちの語る物語と、その語りそれ自体が層をなして作品全体を紡いでいるメタ性が重要だ。この作品で思い出を語る、そろいもそろってスレて、「不道徳」で、ダウナーで、内省だけはやたら得意そうな女性たちの物語だ。彼女たちを思わないではこの作品を閉じることはできない。

彼女たちはみなセックスについても恋についても淡々としていて、まるで「全てわかっている」ように語る。ニシノユキヒコのことも、自分自身のことも。果たしてどこまで彼女らの語りを信じていいのか?

みな、ニシノユキヒコに恋をし、抱かれ、そして彼から「去った」。どうやら彼女たちはみな、それが確然たる自分の意思であったのだと言いたげなのだが、ニシノユキヒコにまんまと慰みものにされただけだろうと言ってしまえばどんな顔をするだろう。


ところが、実を言うと、ここで俺の読みは歩みを止めてしまっている。ここから先を語るには、彼女らの(俺から見るとあまりに軽い)貞操観念や、セックスすることと愛することの同調と差異について思いをめぐらせないとならないからだ。以前、性愛について竹田青嗣を引用しながらブログを書いたことがあったが、ああいった感覚はこの作品にはそぐわない。もっとカジュアルなものとして、より身体感覚に近いものとして捉えないとならないのではないかと考えている。

それが出来ないから、俺は、既婚者がニシノユキヒコと不倫することになんら悪びれる風でもないことや、セックスを力みなく語るさまに苛立つことくらいしか感想を持ちえなかったし、共感や反発といったレイヤーで鑑賞することがかなわなかった。端的にいうと、ニシノユキヒコのことも、その女性たちのことも「何もわからなかった」というのが、恋愛やセックスという切り口で鑑賞した際の素直な感想だ。



ところで、この、なんだろうな、セックスを何気ないことの風に語ることのかっこよさってなんだろうな。俺がかっこいいって思ってるわけじゃないけど、やけに腹立たしいんだ。語ってる方がいい気になってるからだと思ってるんだけど、これは僻みなんだろうか?川上弘美が、こうした女性たちの語りについて、どこまで「狙っていて」、どこまで「マジ」なのかわからないけれど、なかなか策士である。


俺が幸福を祈りたいのは、ニシノユキヒコよりも、むしろ彼女たちの方なのだ。性の語り手たちに幸あれ。世界を見つけられますように。