『凶悪』

この映画のことは、マンオブスティールを見に行った映画館に掲示してあったポスターで知った。ピエール瀧リリーフランキーが悪そうな顔をしている、それだけでずいぶんそそられてしまって、ロクにあらすじも知らないままに見に行ってきた。いつもの通りネタバレ配慮はしない。

公式サイトからあらすじを引用する。


スクープ雑誌「明潮24」の記者として働く藤井修一(山田孝之)は、東京拘置所に収監中の死刑囚 須藤純次(ピエール瀧)から届いた手紙を渡され、面会に行き話を聞いてくるよう上司から命じられる。
面会室で向かい合った須藤は、「私には、まだ誰にも話していない余罪が3件あります」と話しはじめる。その余罪とは、警察も知らず闇に埋もれた3つの殺人事件だった。そして、これらすべての事件の首謀者は、“先生”と呼ばれる木村孝雄(リリー・フランキー)という不動産ブローカーであり、記事にしてもらうことで、今ものうのうと娑婆でのさばっている“先生”を追いつめたいのだと告白される。
半信半疑のまま調査を始める藤井だったが、須藤の話と合致する人物や土地が次々と見つかり、次第に彼の告発に信憑性がある事に気付き始める。死刑囚の告発は真実か虚構か?先生とは何者なのか?藤井はまるで取り憑かれたように取材に没頭していくのだが…


こちらが予告編


ノンフィクション小説を原作に持ち、社会派サスペンス映画として完成したらしい本作。

あらすじや、「死の錬金術師」などという煽り文句を見ると、この”先生”のことは『虐殺器官』のジョン・ポールのように思えてくる(実際そういうものを期待してしまった)のだが、そんなに突飛なアイデアのものではなく、土地を持っていたり保険金がかかっていたりする爺さんたちをヤクザに殺させて利益を得ている大悪党というものだった。「死の錬金術師」は洒落めかした比喩ではなくほとんどそのままの表現であったわけだ。

物腰柔らかに見えて人を人と思わない残忍さと、「燃やしてみたいんだ♪」といって死体を焼き払ってみせる先生の無邪気な狂気をリリーフランキーはよく表現してたと思うし、馬鹿で粗暴だけど情には厚い、ザ・ヤクザな須藤のキャラクターにも、ピエール瀧がばっちりハマっていたと思う。老人という弱者への殺傷や、汚れた金銭のやり取り、セックスといったインモラルな営為をごく淡々と、当たり前のようにやってみせるというのは、狂気の表現としてはありがちといえばありがちだけど、タバコの煙やアルコール、安っぽくて汚い住居、山や野原の枯れた草木、主人公含めた登場人物の表情、ほとんど会話のみで進行する中でごくたまに鳴らされる不気味なBGMなど、作品全体を包む、乾き、疲弊しきったムードが、先生と須藤の笑い声の邪悪さを引き立てていた。


そんな先生とヤクザの悪行三昧を藤井が追うわけだけど、この藤井というキャラクターがなかなか曲者だ。とにかく表情がない。ずっと真顔だ。そして登場時からなぜか疲れ切っている。池脇千鶴演じる嫁と、認知症にかかった母親の三人暮らし。嫁は姑をホームにいれたいが藤井は了承しないし、かといって嫁を労うようでもない。藤井が先生の事件の取材に没頭する中で嫁のストレスは限界に達し、離婚を突きつけられてしまう。

とにかく何やら事情がありそうな行動が多い藤井なのだが、その理由を本人がぜんぜん語らない。母親をホームにいれないのだって「罪悪感があるんでしょ」と嫁に指摘されてもウンともスンとも答えない。作品終盤で須藤に対して感情を見せることになるが、いきなりキレ出すので「あ、え?」と思わなくもない。公式サイトのプロダクションノートにあるように「狂気に感染していく」と言えば聞こえはいいが、ちょっと感受性強すぎなのかな、といってしまえばそれまでという気もする。


元がノンフィクション小説で題材も重たいものなだけに、フィクションとして収まりのよいメッセージ性や、エンターテイメント性の強いどんでん返しなんかを織り込まかったということかもしれない。藤井が事件を追うといっても、思わぬ証拠を見つけるとかトリックを見破るとかではなく地味に足で聞き込みをしてみたり現場を掘り起こしてみたりするだけだし、映画の半分は先生と須藤の悪行、いわば過去の回想シーンになるので、その全景をどうやって藤井がつかんだかはよくわからない。先生と須藤の二人の悪党のプリズムとして藤井を解体することで、この作品自体を掘り下げるキーにもなるんじゃないかと思うものの、如何せん手がかりが少ないか。


もっとも、藤井からズームアウトしてみても、この映画には、フィクションとした意地か、”テーマ性”めいたものも見え隠れするにはする。

この作品には藤井の家族、先生の家族、須藤の家族、被害者の家族といくつかの家族が登場するが、それぞれみんな何かしらの失調を抱えている。そうした失調と改善、理想への志向の中で人間模様が錯綜していくという家族の問題。

先生の被害者はみな、もう死ぬしか人生のイベントが残っていないような老人であること、またその中には、家族がその高齢者によって苦しめられている事情があること、そういった状況下の殺人がどれだけ責められなければならないものなのかという罪の問題。

罪のカラミで言えば、藤井の取材で明かされる真実と裏腹に崩壊する家庭から見える、死んだ人間を弔うことと生きた人間の幸福に腐心することのバランスや、贖罪のありようといった、自己と他者の生き死にの問題。

悲痛な事件を取り上げて食い物にするメディア、ジャーナリズムのあり方についての問題提起。

どんどん事件に没入する藤井や、「私だけはこんな人間(先生)じゃないって思ってたけどね」と前置いて認知症の姑への暴力を吐露した藤井の嫁を代表させて、人間には誰にでも先生のような凶悪さが眠っている、特別な事例じゃないんだとする狂気の問題がひとつ。
etc...


しかし、繰り返しになるが、まずはノンフィクションありきということにしているためなのか、このどれかに先鋭化してフィクションに落とし込むということが成されていない。そのうえに、どれも、どうもありがちな問題であり、その解決策や持論が展開されるわけではないので、どこで掘り下げてもなんとなく空回りしたような気分になる。複層性のある物語であるといえばそういえなくもないが、殺人やセックスの映像の迫力に負けてストーリーテリングがややなおざりになっているような気がした。


今日の一番の盛り上がりどころは、冒頭で殺される女性が範田紗々だったことに気付いたところだったかもしれないな。範田紗々だ!って思ったからな。それと、池脇千鶴もあんな疲れた嫁役をやるほど老けたんだな、という感慨もあった。どうしようもないわたくしである。