『かぐや姫の物語』

スタジオジブリ最新作、監督は『平成狸合戦ぽんぽこ』や『火垂るの墓』を監督した高畑勲

予告編はこちら

http://youtu.be/giUFDnL1fG8


公式サイトの方に、高畑勲からのメッセージがのせられているので参照されたい→ http://kaguyahime-monogatari.jp/message.html

要するに、ずいぶん前にかぐや姫を映像化しようという試みがあった際に、自分も案を出したけれど没になった。その案というのは、かぐや姫が地球にやってきた理由のことであり、そのことを盛り込んだ作品を、今回作り上げたのだ、ということが書かれてあるのだけど、はてさて。


メッセージにも書かれてある通り、ほとんど原作から展開を変えることなく話は進む。

竹取の翁が竹で赤子を見つけて持ち帰ると、天からの授かりものだとおばあさんと二人で大喜び。山の子供たちと楽しく遊びながら凄まじいスピードで成長する娘。このときまだかぐや姫という名はなく、その成長スピードから付けられた”たけのこ”というあだ名で呼ばれている。竹取の翁はその後、”たけのこ”を見つけた竹藪で、金貨や、豪華絢爛な着物をたくさん見つける。これにより、”たけのこ”は都で地位の高い人間として幸せになるべきだと考えた翁は嫗と”たけのこ”を連れて都へあがる。はじめは豪華な暮らしに楽しげであった”たけのこ”だが、山での自由な暮らしを離れて貴族としての所作や芸事を学ぶ暮らしに退屈さを感じ始め、裳着の宴会を抜け出し単身山へ戻る。しかしそこにかつての姿はなく、一緒に遊んだ子供たちもいない。茫然とするかぐや姫だったが、ひとりの老人に、「季節が巡ればはまた花がさき、人も戻ってくる」と告げられ都へ再び戻る。その後、5人の貴族や帝の求婚をかわす中で、自分が月の住人であり、とある罪の罰として地球におろされていることを思い出す。翁と嫗に「自分は生きるためにおろされたのだ。しかし帰りたいと思ってしまったので帰らなければならない」と言い残し、抵抗も空しく、かぐや姫は月の軍勢に連れられて帰る。翁と嫗はその場で泣き崩れ、物語は終わる。




この作品はその作画が大変特徴的で、作品のうまみのほとんどがここにあると言ってもいいし、この絵の世界観にどれだけハマれるかが個々人の好き嫌いにつながるだろうなと思う。
かぐや姫という誰もがしってる作品を土台にして、この豪華版にほん昔話なタッチがどれくらいウケたのか、というのは、いま世間でどれだけ「かぐや姫の物語」が話題になってるかをみて察してもらえたらいいと思うけれど、凄まじい労力がかかってるであろうことはなんとなく分かったし、こうした表現の世界をきちんと良いとわかる感性も必要だろうなとは思った。

予告編で見られる赤ん坊の動きの表現や、豊かな色彩の自然、桜の下でかぐや姫十二単を振り乱しながら笑う喜びの表現、都から山へ戻るときの夜叉のごとき描写など、随所に、繊細で目の詰まったアニメの世界が見られた。そうした表現は題材がかぐや姫という古典であったことを踏まえ、より抽象化した無垢な表現物としてかぐや姫を呈示したかったのかなぁなんて考えながら見ていた。
上映時間137分。やや長めの尺で、延々と自然の豊かさと都の閉塞感をかぐや姫の悲喜こもごもの表情とオーバーラップさせて展開される。物語冒頭から、かぐや姫と同じように時間を過ごしてきた観客は終盤ではかぐや姫と同じように疲れた表情になっていたりするけれど、ラストの月の軍勢の到来は「ついに来た」と思わせる凄みがあって大変よかった。特にBGMが最高だった。



おそらくこうしたアニメ表現の方がこの映画のメインなのだろうなと思いつつ、公式サイトでこれだけ2時間以上も使って表現された、高畑のいう「竹取物語の本当の物語」についても考えなければならない(それに、実は俺はこの物語の部分に感動したんだ)。


かぐや姫は、「生きる」ために地球に下ろされたのだ。リンクを貼った予告編で流れる歌は、花や虫と共に自然にのびのびと生きる人たち姿が歌われており、かぐや姫が”たけのこ”であったときに山の子供たちといつも歌っていた。実は彼女にとってこの歌はそこで初めて覚えたものではなかった。彼女は故郷である月でこの歌を知った。かぐや姫がそうなるように、前に地球に下ろされた天女(?)が月で歌っていたのだ。彼女はそれを聞いて、ああなんてすばらしい世界なんだろう一度行ってみたいと思ったのだった。これが、物語上の罰と対応するところの、彼女の罪だった。


では、なぜそもそも生きたいと思うことが罪であり、また地球で、多くの人間と同じように「生きる」ことが罰になるのだろう、というところが考えどころだ。
月の世界からやってきた軍勢は、仏様を中心にして華やかな天女たちが幸せの音楽を奏で、光に満ち、弓矢は花に変え、地上の人間の気力をすべて奪ってしまうような代物だった。極楽浄土、天国の顕現であり、即ち死の世界でもある。古代ギリシャから、精神の安寧というのは目下人々の大きな目標だった。哲学の多くはこれに奉仕したし、宗教の多くも精神の安寧をもたらすが故に受け入れられてきた。古代ギリシャの哲学者セネカの著作『心の平静について』にはこのような記述がある。


われわれが追及しようとするのは、どうすれば精神が平坦で楽な道をたどれるか、どうすれば精神がみずからと穏やかに折り合い、みずからの特性を喜びをもって眺め、その喜びを断たずに、有頂天になることもなく、かといって鬱屈することもなく、静謐な状態を保ち続けられるかという問題である。この状態こと、心の平静というものであろう。岩波文庫『生の短さについて』)


セネカが所属していたストア派という学派は、とにかく節制につとめ、自身の欲望を反省し、心を穏やかに保つかということを志向する学派であるが、だからといってこうした平穏なる精神への憧れがスポット的なものであったわけではない。この時代の多くの哲学者もまた、イデアやあるいは中庸などといった概念を用いてこれをめざしていたのだ。
ところで、こうした穏やかな境地、永遠の安寧というのはしばしば死とパラレルになっている。ドイツの哲学者、ショーペウンハウアーの『自殺について』を見てみよう。


我々の現存在は、かなたへと消えてゆく現在以外には、それへと足をふみしめるべき何らの基底をも基盤をももってはいない。それ故にそれは本質的には不断の運動をおのが形式としてもっているので、我々が絶えず希求している安静の可能性はそこにはない。(中略)早い話が、幸福な人間は誰もいない。ただ誰もが自分の思いこんだ幸福を目指して生涯努力し続けるのであるが、それに到達することは稀である。よしまた到達するとしても、味わうものは幻滅だけである。(中略)それにしても、動物と人間の世界にかくも大袈裟で複雑で休みのない運動を惹き起しかつはそれを回転し続けているゆえんのものが、飢餓と性欲という二つの単純なばね仕掛であろうとは、まことに驚嘆のほかはない。尤もほかになお退屈というやつが少しばかりこの二者のお手伝いをしているのではあるが岩波文庫『自殺について』)


ショーペンハウアーの主張はシンプルだ。この世で確かなものなんてほとんどない。あらゆるものが「今」を通じて「過去」になり消えていく。その中で確かなものは自分の存在だけだが、それがあったとて、次から次へと湧き出ては満たされない欲望に追われてテンテコ舞いだ。生きてる限りはこうした空虚が続くのだからいっそ死んでしまってもいいだろう、なに、怖いことはない。死ぬのはそんなに悪いもんじゃない。仏教の輪廻転生みたいなもんさ。といった具合で、とにかく生きていたら辛いと説いているのだ。ショーペンハウアーにおいては、その捉え方はともかく心の平穏は明らかに死とオーバーラップしているし、このことは我々の実感としてもしばしばたどり着いてしまう結論である(ショーペンハウアー自体は死以上に心の平穏を手に入れる方法があると言っている)。


さて、極楽浄土の月の世界は、人間が2000年以上も求め続けてきた桃源郷なのであるが、かぐや姫はどういうわけかそこでの暮らしよりもつらく険しい生の世界へ足を踏み出そうとしたのだ。月の世界ではそんな物騒なものは置いておけないというわけで、かぐや姫はいかに「生きる」ことが大変か、そして月がどれだけ素晴らしいものかを知るために地球へ下ろされた。金銀財宝に豪華な着物を与えれば竹取の翁が都へ赴くこと、その先で人間世界の大変さ、おぞましさが待っていることをご存じだったお釈迦様の思惑通り、かぐや姫は現世に嫌気がさし、月へ帰ることを望んでしまった。それ見たことかとお釈迦様が迎えにくるのだけれど、かぐや姫はNOを突きつける。

かぐや姫、というか高畑勲は、それでも生きることを望むのだった。ただしそれは都で人間関係のしがらみの中で生きるのでなく、月であの人が歌っていたように、山の子供たちが歌っていたように、虫や花と共に自由に泥にまみれ自由に狩り、四季の巡りと共に生きることを望むのだった。つらいことがあって心が乱されても、美しいもの楽しいことはたくさんある。この現世は生きるに値する場所なのだとかぐや姫は結論づける。その甲斐むなしくアッサリと連れていかれてしまうのだけど、観客には、いや少なくとも俺には伝わったぞ!といった具合である。


確かに生きていれば大変なことだらけで、報われるわけでもなく、いったい何のためにこんなことをと思うことはたくさんある。しかし我々は月に行くわけにもいかないのだから、それでも生きていくしかないし、楽しいことだってあるじゃないか!そういう前向きな作品に心打たれることが多い最近なのだけど、その着地が豊かな自然と共に〜といったものだったのはさすがジブリという感じでやや呆れてしまったのはナイショだ。



ところで、物語上の大きな罪と罰は「生きる」ことをめぐる考えの相違だったわけだけど、俺にはもう一つの罪と罰があったように思えた。

それはかぐや姫ファム・ファタルであるという罪と月へと旅立つ(=死)という罰のことだ。

かぐや姫は人を魅了することを運命づけられていた。その容姿は人を惑わし、人を動かし、男を殺す。誰に嫁ぐことのないまま貴公子を翻弄し、帝を翻弄し、竹取の翁の人生も大きく変えた。そして最後にはすべてを捨て、人々を失意の渦に陥れた。かぐや姫は何かをしたわけではない。ただ生きていただけなのだ。生きていたこと自体が罪になってしまった。それが宿命の女(ファム・ファタル)。だから、というわけではないが、かぐや姫は月へ連れていかれなければならなかった。地球に下ろされたままではいけなかったのだ。作中、かぐや姫に求婚した貴公子が死亡したという報せを聞き、「どうしてこんなことになったんだ!」と嘆き悲しむシーンがあるが、それは彼女自身がそういう星の下に生まれてきてしまったから、彼女がそういう存在だからというよりない。彼女がどれだけ生きることを楽しもうが、その存在が罪であり、破滅は広がる一方であるからして、そのけじめをとらなければならなかったのだ。

ああ、悲しきかぐや姫、安息の日々を。