山本耳かき店

「着物姿の女性にひざまくらしてもらいながら耳かきサービスを受けられるお店がある」
というのはテレビで何度かみたことがあった。

しかし、俺は耳かきにもひざまくらにもそう興味があるわけではないので、そういうものがある程度の認識でいた。

ある日youtubeを徘徊していると、そうした耳かき店の宣伝動画があり、耳かきのサービスも提供していることがわかった。

これが大変きもちよさそうなのだ。特にこのハンドマッサージ!(性的でない)

えーなにこちょういってみたいと思ってはいたが、どうせ女性と触れ合うなら風俗いくか・・・などといって訪問する機会がなかった。



社会人生活が始まって、やたら肩がこるようになったこの頃、ふとさきの動画を思い出して、ああそういえばあのお店!いってみようと思い立ったのが今日。秋葉原に漫画を買いに行くついでにサービスを受けてみようと思ったのである。

お店のサイト → ★★★

さきの動画では新橋店とあったのだが、お店のサイトに新橋店のことが書いてなかったので秋葉原へ向かった。

所在地は、とらのあなドンキホーテが立ち並ぶ、電気街の大通りに面した雑居ビルの2〜4F。1Fにはラーメン屋の博多風流があり、その厨房のドアのすぐ横に階段の入り口がある。ひと一人分ぐらいの幅しかなく、本当に合法のお店なのかと思いたくなるイカガワシサがある。いかにも秋葉原のお店というイキフン。仕事終わりのサラリーマンや、呼び込みのメイドさんなんかがたくさんいたしけっこう躊躇ったのだが、エロいお店にきているわけではないと言い聞かせ、エイヤと勇気をだして階段をあがる。

2Fの受付にはいると着物をきたお兄さんが柔らかな物腰で対応してくれる。今回は耳かきコース60分5000円を選択した。60分でないと、例のハンドマッサージをやってくれないからだ。

料金を支払うと、お兄さんが「3Fと4Fの踊場に椅子があるので待っててください」という。階段をあがると確かに椅子がある。丸い、小さな椅子。椅子しか置けないようなスペースの踊場に椅子がある。座ってみるが、どうもここは椅子のスペースであって人間のスぺースではないと感じるが、秋葉原だから仕方ない。


お兄さんに「準備ができましたのでどうぞ」と促されて階段をのぼると、お相手の女性の方がフロアの入り口で待っていてくれる。嬢、と呼びたいところだが、このお店は風俗店ではないため、女性スタッフには「小町」という名称が用いられている。


小町「こんばんは〜ようこそ〜」

俺「こんばんはどうも」

小町「二番目のお部屋にどうぞ〜」

フロアには、三畳ほどのプレイスペ・・・もとい小部屋があり、それぞれのスペースは腰丈のどの間仕切りがあるが、それより上はカーテンが垂れているだけなので、視界はさえぎられても遮音性は皆無。お隣さんの会話はつつがなく聞こえる。

各小部屋には、簡易な布団と小町が陣取るスペース、客用の座布団があり、その他いろいろと小道具が置かれている。


小町「当店をご利用されたことはありますか?」

俺「いえ初めてです」

小町「そうなんですか!ありがとうございます〜はじめにお茶をお入れするんですが、あったかいのと冷たいのどちらがいいですか?」

俺「あったかいので」


そうしてお茶を持ってきてもらい、小町が自己紹介。Aさんというそうだ(どうしても風俗レポベースでかいてしまう)。
人見知りな俺はこの時にはじめて正面からご尊顔を拝んだのだが、面長な美人さんで、安堵する。声のトーンがときたまおもいっきり変わるのはご愛嬌。
お茶が熱すぎないかなどと気を遣ってくれる。

Aさんから60分コースの内容を説明してもらって、さっそくサービス開始である。



まずはひざまくらをしてもらって耳へのサービス。耳ツボマッサージ→産毛処理→耳かきという流れ。

ひざまくらは母親以外にしてもらったことなかったのだけど、若い女性の足は柔らかでいいものですな!細めな足のぬくもりを感じつつ重い頭をAさんにゆだねる。

耳ツボマッサージは、なんとなく、ってことはないのだろうけれど、とりあえず引っ張られてはつままれるという感じで気持ちよくもない。その後の産毛処理では小型のバリカンを使用するのだが、耳介のみならず耳穴にバリカンを突っ込むので、すさまじいモーター音が頭蓋に反響する。狭い空間にいれこむため、刃が耳内をかすめる。

A「痛いですか?」

俺「大丈夫でーす」

嘘である。痛い。

そして耳かきが始まる。俺は顔にタオルかけられてるので何されてるのかは触覚でしかわからない。

A「深さや強さいかがですか〜」

俺「大丈夫でーす」

嘘である。痛い。痛いのでどうしても体が反応してしまったらしい。

A「あっ、痛かったです?」

俺「えーと、普段耳かきってしないんですね。だからちょっと敏感で・・・」

A「え?」

ミス!言葉の選択をミスった!いや、確かに俺は耳が敏感だけど、それは舐められるとかそういう契機で顕現するところなので、風俗店でないこの店はミスマッチな言葉であった!

俺「いや、その、つまり、これが痛いのか、こういうものなのかの判断がつかないんです」

A「なるほど〜わかりました。ムリはしないでくださいね〜」

痛い、といえばいいものを、言えないところが恋人ができないゆえんかぽっぽ、そんな具合でぜんぜん気持ちよくない耳かきが終わる。と、ここで最後にAさんが耳に「ふっ」と息をかける!カスだとか産毛だとかを除くためだろうが、これには俺大歓喜!めっちゃきもちいい!

もう片方の耳も同様にやってもらったあと、Aさんがとれた俺の耳垢を見せてくれた。なんだこのプレイは。

俺「へーたまってるもんですねー」

などと言ってみるが、別に耳垢なんか見たくもない。

耳かきが終わると、Aさんが「ちょっと顔の汗ぬぐってもらっていいですかww」という。

今日は雨だったが気温は高く、ムシムシしていたため、俺は屋内に入るや否やドバっと汗をかいてしまっていたのだ。これは恥ずかしい。

俺「ファイ、すみません、汗っかきなもんで・・・」

A「いえ、私もそうなのでわかります。夏とかTシャツの替えもっときますよね」

俺「ですね〜」

A「ねーおんなじですー^^」

あ、あ、Aさん優しい君は。

耳かきの次は頭部のマッサージ。小さな手ででかい頭をうんしょうんしょと押していくが、別に大して気持ちよくない。割愛。

次はいよいよハンドマッサージ!待ってました!
ひざまくらをやめてふつうの枕に頭をのせ、顔にタオルがかけられる。Aさんは俺の右に座してなにやらごそごそと準備。

A「では失礼しまーす」

きた!Aさんが俺の手をとる!柔らかく滑らかな肌が俺に触れる瞬間に走る電流!これぞスキンシップ!
俺の右手を両手でハンドクリームを塗りこみながらマッサージするAさん、柔肌に恍惚となる俺。なお勃○はしないもよう。
動画とはマッサージの手法は違うものの、女性に手を取られてほぐされるというのは大変に心地がいい。ドチドチする。彼女ができたら絶対やってほしい。いや、やってあげたい。
手のひらのみならず、指をひとつひとつスリスリしてくれるのがいい。また時折ふと感じるAさんの手のひらの柔らかみも恐悦至極でござい。
左手も同様にマッサージしてもらって、最後に肩もみをしてもらってサービス終了。肩もみは、まぁ、こんなものかという感じ。


ポイントカードをつくってくれるが、そこに「お仕事おつかれさまです!」などと書いてあり、完全に風俗嬢の名刺のデジャヴである。


各所に気遣いがみられたし、「一緒にアキバまわりたいですー^^」などといって気持ちよくしてくれたので、なかなかいいサービスだったと思う。

女性に手を触られて喜ぶなどとまるで中学生のようだが、実際、性的なことへの関心は中学でとまってるから仕方ない。
もしできるなら、耳かき抜きのサービスをしてほしい・・・

『幸せへのキセキ』

地元ではもうすぐ3月だというのに寒さも降雪の勢いも増すばかりで、雪寄せに精を出す近隣住民を尻目にぬくぬくと映画をみるのも是非もなし。


この『幸せへのキセキ』、 原題『we bought a zoo』のことを知ったのは、シガーロスのフロントマン、ヨンシーの最近の活動をネットで調べていたときだ。

2008年に『残響』でそれまでのシガーロスのキャリアを刷新し、2010年にはソロアルバム『GO』を発表したヨンシー。バンドの方でもソロの方でもなかなか新譜の気配がなかったが、本作の音楽を担当していたこと、そしてその音楽がサイコーに素敵なことを知って、ようしレンタルされたら見るぞ、と思っていた。


妻を亡くし、二人の子供を一人で育てるベンジャミンは、心機一転、引っ越しをすることにしたが、新居は閉館した動物園で、敷地内にはたくさんの動物がいた・・・といったあらすじ。主演はマット・デイモン。このマット・デイモンという俳優のことはどうも好きになれない。特にマットがしこたま酷い役柄を演じていたからでも、中学時代の憎い人間に似てるわけでもない。とかく顔が苦手なのだ。あの四角い顔・・・丸く反り返った鼻・・・ミッションインポッシブル3の悪役に似ている。あの俳優、フィリップ・シーモア・ホフマンも憎たらしい顔をしていた。おまけに本作のヒロインは、冒頭で出てくるラザニア女ではなく、アベンジャーズで紅一点のブラックウィドウを演じたスカーレット・ヨハンソン。これまた苦手である。あのバタくさい顔!ミートパイ食べたあとにチェリーパイ食べてそう!


その一方で、子役は素敵な役者ばかりだった。長男ディラン役のコリン・フォードは、ハンサムだけどいかにも悪ガキって感じで、作中ではグロめな絵を好む中二病全開な反抗期、しかも童貞で女の子にはさっぱり免疫がなくてめっちゃ可愛い(作中で彼が童貞だという言及は一切ないが、ぜったい童貞だと思う)。

長女のロージー役のマギー・エリザベス・ジョーンズはこれまた本当に素敵な子役。おませさんなところはキレのある動きや表情で実年齢以上に頼れる雰囲気を出しながら、クジャクと戯れたりおとぎ話を信じたりする無垢さもちゃんと表現できてる。それらにイヤミがないのだ。必要以上に子供っぽく見せようとしてないということなのか、とかく、可愛いのだけど後味すっきり。

そしてなにより、動物園の最年少スタッフにして、反抗期ディランの、恐らく初恋の相手であろう、リリーを演じるエル・ファニングとかいう天使が最高だった。あの有名なダコタ・ファニングの妹でその才覚が早くも認められているらしいエル。背が高くてなんだか野暮ったい、作中の台詞を引用すれば「ウブな田舎の娘」を素敵に演じている。ディランとリリーのツーショットシーンはどれも初々しい煌めきに満ちていて、みているとニヤつきが止まらない。俺もあんな風にピュアに迫られたい。あんな彼女ほしい。結婚してくれ。本作の監督は『あの頃ペニーレインと』のキャメロン・クロウだが、ペニーレインといいリリーといい、絶妙な可愛さを見つけてくるもんだと思う。


その他、ベンジャミンの兄ダンカンや、個性豊かな動物園の飼育員たちなどキャラの魅力は枚挙にいとまがないが、やはり何より素晴らしいのはその音楽だ。

新たに書き下ろしたらしいテーマ曲は作中で何度も何度も使用される。その木漏れ日の足音のようなピアノの旋律は、時に痺れるほど冷たく、時に羽根のように暖かくシーンを彩り、独自の表現空間を生んでいる。また、『GO』に収録されている曲も使用されており、ファンとしてはたいそう楽しめた。そうそう、この映画音楽はヨンシーひとりによるものでなく、アレックス・ソマーズも関わっているようだ。アレックスはヨンシーのパートナーで、ヨンシー&アレックスという名義で『ライスボーイ・スリープス』というアンビエントなアルバムを制作している。シガーロスの最新作『ヴァルタリ』は、聴く限りでは、ほとんどこのヨンシー&アレックスの続きみたいなものだ。

この映画におけるヨンシーの存在は大きい。何故といって、動物園を買ったという"実話"自体はインパクトがあるものの、妻を亡くした悲しみ、息子との衝突と和解、そして新たな出発へ〜といった物語の展開自体は、正直いってそれほど新鮮なものには思えなかった。しかしそれらが、ヨンシーのプリズムのような音楽にのせられることで良い意味で指向性をもたない輝きを持つようになった。ここが監督のえらいところで、『ペニーレイン』でもそうだったが、何かひとつのテーゼをぶち上げようとか、世間様に一言ものを申してやろうとか、見たことないスペクタクルを作り上げてやろうとかいう押し付けがましさ、説教くささがなく、「ただそういう輝く物語があった」ことを表現しようとしているのだなと思う。だから見ていて気持ちがいいし、マット・デイモンだって悪くないかもと思わせる。

そんなわけで、この邦題は大変に気に入らないのだ。悲しみを抱えた家族の物語だし、『幸せの〜』とか言ってしまえば消費者にとってはわかりやすかろう。「ああ、そういう物語ね」と思う。だがそんなB級ファミリー映画と並べられてはヨンシーが泣く。原題はロージーが子供らしい興奮と未来への希望と込めて誰彼かまわず発した言葉であり、また「そういう話があった」というスタンスを示すものである。外側からの表題をつけることはどうもそぐわない感じがする。いわんや幸せの〜なんて!(しかもだぜ、日本語字幕の予告編では、亡き妻と交わした"約束"を守るために動物園を経営したかのような紹介をしている。いかにも量産型の感動家族愛物語ではないか。そういう売り方をしたために、あまつさえ、「why not?(なぜいけないの?)」というところを「約束したんだ」と訳してる!ひどすぎる!)
↓問題の予告編

http://youtu.be/YPiTjzecp4c

そんなわけで、ちょっと日本での売り方には不満があるのだが、それはこの映画の非ではない。午前中から、春を待ち遠しく思いながら三回くらい泣かされたので、ぜひ紋切り型の宣伝に惑わされず見て欲しい。

『シン・シティ』

同タイトルのコミックスの原作をもつ、2005年公開のアメリカ映画。
三人の男が「罪の街」、シン・シティで繰り広げる三つのエピソードが描かれる。これらのエピソードは、物語同士の干渉はないが、同じ時間軸、世界観を共有しており、オープニングからエンディングまで一貫して一つの街の群像劇を見るという構成になっている。


この映画は全編、一部着色をされたモノクロ映像であることが特徴。非常に強いコントラストで描かれており、着色されるのは、血の赤や瞳の青など、モノトーンに映える強烈な色ばかり。自然な陰影とかいったものにはあまり重きをおかれず、耽美的といってもいい独特の雰囲気を持つ世界観だ。

この映画の予告編をテレビで見たとき、その強烈な映像に興味をもったのだが、なんだか血しぶきがとんでいたので怖くて見れずにいたことを思い出し、手に取った次第。


物語は三つとも、愛する女のために男が悪と戦うというもので、ハードボイルドな物語なのだが、車がルパンよろしく道路を跳ね回ったり、全身真黄色のいかにもアメコミなヴィランがいたりとコミカルな要素も多くある。特に、デヴォン青木演じるミホは、ああ!女殺し屋かくあらんや!といった具合でたいへん結構。



なに?あまり綺麗には見えないだ?そう思った君は美というものが分かっていない。どうせ干し柿よりもショートケーキ、おにぎりと味噌汁よりもフレンチのフルコースといった趣味だろう。何も分かっちゃいないんだ。この美しさが分からないようではまだまだケツが青い。


また、本編のエピソードは三つなのだが、もうひとり、エピソードの外で動く人物がいる。この人物の(ほんの数分の)活躍によって、エピソード毎に注目し、その接点を見つけて満足していた視界が急激にズームアウトし、この映画が「三人のタフガイたち」というよりも、「シン・シティという街」の物語であることに気付かされるのだ。この人物は、ポスターにも、恐らくDVDのパッケージにも描かれていないが、しかしこの映画内では、作品の方向性を決定的なものにする重要な人物であるように思う。パズルの最後のひとピースといった具合だ。


ところで、この『シン・シティ』というタイトルなのだが、シム・シティのもじりなのだろうか?という感じがしたんだけどどうなんだろうか。シム・シティというのは、一般的な名詞ではないと思うが、架空の都市、仮想の都市といった具合の意味らしい。文脈のない街、そこにポンとあるような街。罪の街シン・シティ・・・


ともかく、コミカルで、気の抜けたところもありながら姿勢はあくまでハードボイルド。どの男たちも、尊大な信念や正義を持っているわけじゃなく、ただ、それに値する女と意地に自らを賭して血を流すわけだ。その結果として、たとえば愛は強いだとか、暴力は悲しみしか生まないとか、そういう説教臭いことが語られるわけでない。ただ、「彼(彼女)はこの街でこう生きた」というだけなんだ。男の血沸き肉おどる武と、それを取り巻く女性の危うさ、この陰陽を特徴的な映像で抽出し、マッチョなかっこよさ全開でお届けするエンターテイメントだ。日本だったら、ルパン3世、いやカウボーイビバップとか、そういった作品に近いものがある。



首や腕が平気で飛んだりするので子供向けではないにせよ、思春期の高ぶりを忘れられない大人たちにぜひ。

ハソーン オックスフォードブーツ

ついに買ってしまった!!!!

ハソーンのネペンテス別注オックスフォードブーツ!!!!!

かっこよすぎる!!!!

古着屋の店員さんが履いていたオールブラックのラフアウトブーツがめちゃくちゃかっこよくて、嗚呼いったいあのブーツはどこで売ってるんだろうと思い煩っていたときに見つけたのがこのハソーンというブランド。
あのホワイツブーツのセカンドラインで、生産過程をより簡略化することでコストダウンをはかったブランド。日本ではこのオックスフォードのモデルしか見たことがないので、他にモデルが存在しているのかは不明。

現行品のほかに、いくつかのショップが別注をかけていて、今回購入したのは、渋谷や大阪に店舗をもつセレクトショップ、ネペンテスの別注品!


ちなみにこれが現行品↓


カラーバリエーションは、このラフアウトのオールブラックのほかに、ラフアウトのモカとライトブラウン、スムースレザーのブラックとモカがある。ブラック以外のソール(ビブラム#2021)はベージュになっている。詳細は各自ググられたし。

で、現行品とネペンテス別注の何が違うか、というところが重要なのだ。

仕様の違いは、分かる範囲で2点ある。一つはミッドソールが現行品がハーフなのに対して、ネペンテス別注はつま先までキチンと入っていること。

現行品


別注品



お 分 り い た だ け る だ ろ う か

現行品は赤い丸をしたところでミッドソールが曲線を描いてフェードアウトしているが、別注品はまっすぐとアッパーを支えているのが。
このことによって、トゥにかけてボリュームがなくなることがなく、よりイカツい印象になる。


もうひとつの相違点はコバ部分のステッチ。

現行品



別注品


これはハッキリと分かるかと。現行品ではコバ部分のステッチがシングルになっているのに対し、別注品では二重に入っており、そのぶんコバにボリュームが出ている。この部分はまさにホワイツブーツといった趣で、コストダウンのために省かれていた意匠と考えられる。

ミッドソールとコバの二つの仕様変更により、靴全体のボリュームが増量しており、ホワイツに負けない重厚なイメージのブーツが出来上がるわけだ。

着用画像をみてもらおう。友人のS田くんに履いてもらった。





んん〜〜〜〜ボリューミィ〜〜〜〜〜〜〜!!!最高!!!!

太めのデニムと相性バッチリなのはもちろん、細見のコーデュロイやミリタリーパンツ、チノパンにもハマってくれ、カジュアルであればテイストを問わず活躍してくれて、ソールを変えながら十年単位で付き合ってくれる、オトコのブーツなのである。


きっかけとなった古着屋の店員さんが履いていたのは、アイレットの数をかんがみると、恐らくはこのブーツではないと思うが、それにしたってこのハソーンが最強なのは変わらない。

現段階では革がめちゃんこ硬いが、ガシガシ履きこんでデレデレのブーツにしたい。

東京都現代美術館 『アートと音楽』展

運転免許の更新のために東陽町の試験場へ出向いた。
初回講習なのでみっちり120分講習を受けなければならなかった。眠らずに聞いてきたはずなのだが、今となっては講師の顔さえ思い出せない。つまらない割には120分がやけに早く過ぎたことと、講師の滑舌があまりよくなかったことは覚えている。


そのついでに、去年から気になっていた、坂本竜一が企画に関わっている、『アートと音楽』展を見に、隣駅の木場にある現代美術館へ。


現代美術館には以前、コム・デ・ギャルソンアーカイブかなんかの展覧会を見にきたことがあった。木場からでさえけっこう歩くのに、今日は一駅向こうから歩いたのでなかなかいい運動に。天気がよくて幸いである。


さてこの『アートと音楽』。展覧会にお約束の、初っ端のあいさつ文には「アートと音楽は別物と考えられているようだが、その融合はありえるのではないか」といった旨が書かれてあった。

俺が大学で、現代芸術や前衛芸術にばかり関心を向けていたせいか、「アートと音楽が別に考えられている」というような感覚はほとんどない。坂本が敬愛してやまないジョン・ケージやその師匠のヘンリー・カウエル、シェーンベルグの12音技法など、前衛的な音楽表現は既にアートの域に突入していると思っていたし、現代芸術では音響は十分に問題にすべき要素として取り沙汰されているように思えたからだ。
もちろん坂本がそんなことを知らないはずはないので、あまり現代芸術に親しみのない人たちに宛てていたといったところだろうか(まるで自分が現代芸術の渦中にあるかのような口ぶりである)。


ところで、このあいさつ文をみて、ツイッターで先日、似たような話題が持ち上がっていたのを思い出した。
それはこんな具合だ。つまり、音楽と芸術の差、音楽に対してはこれが良いのあれが悪いのと言いたがる人がたくさんいる一方で、絵画や彫刻なんて芸術については「よく分からない」で終わってしまうことが大概だよね、というような話。なぜ音楽は誰であってもある程度語れるような風潮があり、また芸術にはないのか?

掘り下げようと思えばどこまでも掘り下げられる話題で、深度によってはとてもこのブログの手に負えるものでないのだが、さしあたって思ったのが、音楽と芸術という二項対立よりは、芸術と批評、あるいは音楽とその他の表現活動と区切った方が分かりよいのでは、ということ。芸術と批評ということでいえば、絵画にしたって、ネットでよく見られる「○○かきましたー!」というようなものと、ゴヤだのフェルメールだのといったものとでは語られる層は異なっている。その者が有する語彙や知識が、自然と何を語ることになるかを決めていくことになろう。もちろん、アートという言葉が先行し、ハイカルチャーっぷりに怯むということもあるかと思う(ところで、「批評」と「好き嫌いと語る」ということは別のものであるはずだが、この峻別がなかなかどうして難しかったりする・・・)。

この音楽を「語りたがる」ということは、もっと色々なファクターが絡んでいると思うが、とりあえず置いておく。


ともかく、「音楽とアートの区別がある」という前提にはあまりピンとこなかったスタートだったわけだ。

展示されている作品についてひとつひとつコメントはしないが、気になったものだけ。

まず、一番最初に展示されている、セレスト・ブルシエ=ムジュノというアーティストの作品。底が鮮やかな水色をした、大きな円形なプールの中に、大小様々な白磁の器が浮かんでおり、人工の波にゆれてカンカラコンとランダムにぶつかって音をならすというものなのだが、こないだNHKでこの作品について坂本と誰だかが話していた。
いわく、「これといったブラックボックスのない、完全に種がバレてる作品なんだけど、全くの偶然性がつくりだされてる」とかなんとか。
確かにそうで、構造はいたってシンプル、歴史的コンテクストもこれといってないのだが、プールの水色と白磁の白のコントラストや音程の異なる音、フワフワと動く器と、飽きのない作品になっている(アートとアートたらしめているところの一つに、こういう作品の"意味"に関わらないようなセンスにあると思っている。別にプールの色は何色でもいいのだし、器だって浮きさえすれば100均でもいいはずなのだ)。


あと印象に残ったのは、カンディンスキーの絵画。この『アートと音楽』展は、「新たな共感覚をもとめて」という副題がふられている。共感覚というのは、一度に複数の感覚が喚起される感覚作用のことで、言ってしまえば「人体の神秘」である。共感覚は比喩や連想ではなく感覚のことなので、持っている人と持っていない人がいる。例えば、「ピストルズを聴くとユニオンジャックがイメージされる」とか「フリップ&イーノを聴くと凍った湖が見える」とかいったものは共感覚とは呼ばない。それは連想であり、個々人の記憶と連動するものだ。共感覚とは、「"郵便"という文字は紫色に見える」とか「玄関のドアを触ると口に醤油の味が広がる」とか、そういった極めて直接的な体験のことを指す。これは外部的に確かめようのないことだが、芸術の観点からは大いに関心を寄せられ、表現のソースとするアーティストは多くいた。ロシアの画家、カンディンスキーもその一人なのだ。

カンディンスキー本人はどうやら共感覚者ではないようなのだが、絵画というメディアと通じて、視覚のみならず聴覚や触覚に働きかけるような作品を目指していた。それがあのけたたましい抽象画をつくりあげたわけだ。

有名な画家なのだが実物を見たことがなかったので見られてよかった、という素朴な感想。
カンディンスキーのみならず、この展覧会には音を直接は発しない絵画やインスタレーションも展示されており、音楽の、空気振動以上の可能性を示唆しているわけなのだ。

俺は既存の規範や価値、思い込みなんかを破壊し、拡張することがアートの力であり価値だと考えてる。音楽に限らず、○○とは何か?その範囲と可能性への問いがアートに限らず知的営為を支えているし、生の現場を豊かにしていくものだと信じてやまないところだ。

『悪の教典〜序章〜』

悪の教典』ではない。私は『悪の教典』のつもりで借りてきたのだが、これはBeeTVで配信されていた『悪の教典』をもとにしたオリジナルドラマ、『悪の教典〜序章〜』全4話をまとめたものである。

ネタバレ有なので、このスピンオフを見る予定の人は要注意である。尚、俺は映画版は見ていない。





このスピンオフドラマは、映画版で描かれるクラス全員皆殺しの4ヶ月前、伊藤英明演じる蓮実が高校へ赴任する以前に働いていた証券会社での様子と、赴任した高校での行動がパラレルに描かれる。赴任先の方では、中越典子演じる、カウンセリング担当の水落が中心となって物語が進んでいく。


異常な教師が生徒に対して凶行に及ぶというテーマは、『告白』の成功体験があるためとても関心がある題材だ。だが、これはダメだ。ぜんぜんダメ。


事なかれ主義の校長、フェミ気味でヒスる国語教師、脳筋の体育教師、教師をナメた学級崩壊など、まぁありがちな設定はいいとしても、『悪の教典』自体が既にクラス全員皆殺しというシーンを見に来る映画だというのに、聖人蓮実の裏の顔だとか、一見あやしげな物理教師の釣井といった人物の物語での役どころなんかを出し惜しみしてもしょうがないではないか。みんな分かってるのだ。予告編にみんな映ってるんだから。分かってるんだよ!初めから!みんな!伊藤英明が悪者で誰か殺すんだろってことくらい!


それをなんだもったいぶって、清純気取った中越典子高岡早紀演じるアバズレ保険教師に昼ドラみたいなことさせたり、海外での、なんのトリックも伏線もない殺人を描いてみたり。


釣井の過去を描いて、前半の水落への執着接続させることでなんとか物語は厚みを得ているが、物理教師の家だというのに、用意してあったのか、すんなりバールが出てくるだとか、筋肉なさそうなのにフラフラとバールを振り下ろして人を殺せるのか(そこは物理教師なのでキチンと計算しているのかもしれないゾ)とかツッコミどころがある。また、蓼沼とかいうヤンチャ少年(彼は映画版にも出てくるようだが)も、特に伏線もなく、ただの時間稼ぎボーイにとどまっている。シーンによって照明のコントラストをハッキリとつけて叙情性を高める演出も、全体を見れば、リアリティ重視か表現重視かがどっちつかずになっているためそれほど印象に残らない・・・といった具合で、どうにも楽しみきれない。ラストで、遂に蓮実に殺されてしまった水落(中越)が、「彼に殺されたのは私だけじゃないだろう」などと黄泉の国から嘆くのはお笑いの域である。


何より気に入らないのは、途中々々に挿入されるエグザイルの曲だ!元は30分かそこらの尺で、それを一本につなげずに次回予告を挟んでいるために、視聴者は計3回、エグザイルのしょーもない曲を聴かされることになる。90分とか120分とかって用意で見るとすればこれは大変な興ざめだ。ぶちきれそうになった。


どうやら映画本編もエグザイルが主題歌ということで頭を抱えているのだが、しかしせっかくなので、本編がでたら借りて見ようと思う。「面白くなかったんちゃうんか」と思うかもしれないが、俺はそもそも『悪の教典』がみたかったのだ。こんなスピンオフドラマではない。むしろ、恨みはらさでおくべきか、といった勢いなのである。皆殺しの流れは是非みたいしね。

あと中越典子かわいかった。

『アベンジャーズ』

俺は小さい頃からスーパー戦隊仮面ライダーウルトラマンといったヒーローものを見て育った。このことは特に重要なことではないのかもしれないが、高校あたりで、ヒーローものについての関心度や引き出しでギャップを感じることがある。○○レンジャーの変身ポーズを知らなかったり、エメリウム光線ウルトラセブンが額から出すビーム)を知らなかったりするのだ。おいお前らチ○ポついてるのか、お前の"漢"はどこにあるのか。ヒーローものは男の子の永遠の夢だ。男の子はいつも、ヒーローが立ち上がり、敵と対峙するその瞬間の光で世界を照らして生きていくのだ。かの哲学者ボーヴォワールは「女に生まれるのではなく女になるのだ」という有名な言葉を残しているが、男の子もまた、男の子になるのだ!それはヒーローによって!マッチョ!アイガッタッビー!ア・マッチョッマーン!


いや、ジェンダーの話がしたいわけでなく『アベンジャーズ』の話だ。


『アイアンマン』から始まった「マーベル・シネマティック・ユニバース」の世界線の一つの到達点たるこの映画は、上映前から各種メディアで大いに取り沙汰され、興行収入も世界で10億円を超えたらしい。


マーブルコミックの作品が映画化されるより以前、日本にはマーブルvsカプコンという格ゲーがあった。キャプテンアメリカやハルク、スパイダーマンといったキャラが、日本の格ゲー界を代表するリュウだのチュンリーだのと戦う、それは夢のある格ゲーだった。俺の場合、マーブルへの入門はこうしたクロスオーバーから始まったわけだが、特異能力をもったヒーローたちが悪者と戦うシーンが格ゲーのシーンから脳内に逆輸入、逆向きのオーバーラップが起こって、そりゃあ楽しんだものよ。


アイアンマンもハルクもソーも、一つ一つが大事なヒーローだ。一人一人が○○レンジャーで、仮面ライダー△△だ。そんなヒーローたちが大集合の『アベンジャーズ』だが、日本にもこの手のクロスオーバーというのはよくある。○○レンジャーvs△△レンジャーだとか、ウルトラマンvs仮面ライダーなんてものも。そういった手合いはもれなく胸を躍らせてみていたものだが、この『アベンジャーズ』もまた、期待をまったく裏切らない出来栄えだったと思う。


何がいいって、まず序盤でヒーロー同士が戦うところがいい。こうした展開、序盤で荒々しい邂逅をし、中盤で混乱、終盤で団結して悪役を倒すという展開は日本のクロスオーバーものでも鉄板の展開で、安心して盛り上がれる。またみんなバカ強くて、各々の映画では敵無しなので新鮮な楽しみがある。特に、機械に身を包んだアイアンマンが生身のソーにリパルサーレイをぶち当てるところなんて爽快だ。


この手のクロスオーバーの悪役には気を遣うところだと思う、物語全体の方向性を決めると同時に各ヒーローの物語内に占める重要度が決まってくるように思うからだ。
その点、ロキを選択したのは良かったと思う。何故といって、ロキのあの小物感!悪役なのに危機感を煽らない!ぜんぜん負ける気がしない!でも一応神様でタフネスはあるし、ヒーローたちの引き立て役としておいておくには最適な選択だった。またロキが引き連れてきた未知の軍団というのも、これといった説明もなく、物語上で大きな意味をもたない、映像と時間の空白を埋めてヒーローを動かす歯車として機能するような連中に描くに留めたのも結構なことだったと思う。

また各々のキャラもちゃんと立っていていい。特にキャップ。さすがに70年も眠っていると知識が足りないか、アイアンマンに呆れられてるところが可愛い。その端正な顔立ちと時代錯g・・・素直なヒーロー像もあいまって、愛すべきキャプテンになっていた。


ところで、昨今のアメリカ映画は、ヒーローのヒーロー性、善悪二元論脱構築がどうも好みらしい。クリストファー・ノーランバットマンシリーズやスパイダーマン、ウォッチマンなど、アンパンマン的な勧善懲悪物語にはいい加減に食傷気味なのか、ヒーローが怪物を生むとか、怪物には怪物なりの正義があるとか、そういったテーゼがしばしば織り込まれているようで、本作も例にもれず、アベンジャーズへの活躍は賛否両論といった具合で幕は閉じる。

だが、そんな「物語」はどうでもいいのだ。

「日本よ、これが映画だ」のキャッチコピーはあまり評判がよくなかったようだが、俺は映画の一つの側面、エンターテイメントとしての側面を重視するならば、確かに「これが映画だ」なと納得してしまう。今年は『アイアンマン3』や『マイティ・ソー2』も公開されるという。楽しみにしてる。