孤独でいる訓練

晴れ。具合が悪くなるほど暑い。こんばんは、山岡雅弥です。

 

先の日曜に投稿されたとあるツイートが盛り上がっていたようだ。例の結婚式の話だ。ツイッターでの話題を一歩遅れてブログで展開するというのはインターネットの中でも比較的キモい仕草に入ると思うが、やや考えるところがあるので書かせてもらう。話題のツイートはこちらだ、、、と思ってツイートURLを貼ろうと思ったが、6月28日19:56段階では発信者(以下かえる氏)のアカウントごと削除されているようだ。すんでのところでスクショを撮っていた(やばい)ので、死者に鞭打つようで申し訳ないが引用させてもらおう。

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特に理解が難しいことを言っているわけではないので改めて内容を述べることはしないが、「祝賀行事には原理的にすべて加害性がある」というのはなかなかキャッチーなパンチラインだ。俺も哲学をかじった身として、「(任意の対象)とは原理的にすべて(任意の観念)を孕んでいる」という言い回しは非常にぐっとくる。読むものをハッとさせ、真理に触れたような気になる叙述である。このツイートはそれなりの共感と大いなる反発を招いたようだ。「気持ちがわかる」「披露宴なんて楽しくない」「仲良くもないのに祝ったふりをして」というのが共感のそれで、反発というのは、まぁ、敢えて例示するまでもないだろうが、要するに「行かなきゃいいだろ」ということなようだ。これはあまりにその通りすぎて掘り下げようもないのだが、披露宴には大概招待状があり、それを受け取った者は自身の意思で列席の可否を選択することができる。誰も来なかったら新郎新婦も流石に困るだろうが、ミクロな視点で言えば一人来なかったとてなんの問題もない。行かなければ何も傷つくことはないしお金も払わなくていい。適当な理由をつけて謝りのLINEでも入れておけば100点の引きざまだろう。この人は何がそんなに気に入らないのか?

ここからは完全に俺の想像というか俺自身の感覚で書くのだが、まず、こんなこと書く人は披露宴を欠席することなんて出来ない。欠席して嫌なやつ思わられたらどうしよう、友達も来るのになんで来なかったん?とか聞かれたらやだなぁ、とか考えて、半ば強制されているような気持ちで出席に丸をするのである。だから、披露宴に出席しないという選択肢はそもそも自分の中にないことが大体なのだ。次に、この人自身が、他人を祝う場において不愉快だと感じた場があったのだろうということで、「傷つくであろう誰かへの配慮」というよりは「私への配慮」として表現されている感情なのだろうと思う。披露宴について、祝意の押しつけが苦しいという一見トンチンカンな主張も、本人にとっては一切の矛盾なく成立している。もちろん、ここでも粗を探そうと思えばいくらでもできる。後からグチグチ言うなんて自分の意志はないのかとか、断れないのが自分の弱さならその先も受け入れるべきだとか、まぁ、どうとでも言えるのだ。埋められない空隙があるのだ。

ところで、実は俺は、結婚披露宴を祝えるかとかにはあまり関心がなく、この話題を取り上げたのにはもう少し観念論的なところに興味があるからだ。つまり、俺は「祝賀行事には原理的にすべて加害性がある」のではなく「多様な解釈がただそこにあるだけ」だと考えており、ここがかえる氏の決定的な誤読だっただろうと思っている。何か当たり前なことを言っているように読めるかもしれないが、この手のややひねくれた人間は当たり前のところを見落としがちで、安易に外部に帰責するきらいがある。観察する対象や事象について、そこに何かの意味や価値が"在る"と断じることで、世界をわかりやすくし、自分と世界との折衝を行ったりするのだ。こうした観察法は、映画や漫画などの表現物に対する批評や糾弾、他者との関わりなどあらゆる場面で応用され、かつ自分自身の納得感に満ち、解決策にも届きやすい方策なのだが、俺は、これはあまり得策ではないと思うように"なった"。この方法には解釈が抜け落ちがちだからだ。そもそも、意味とか価値とかいうものは極めて観念的かつ文化的に表現されるものであり、とある事物や事象に"在る"ものではないというのが俺の考えだ。我々人類が培ってきた文化、育ってきた環境、教育、時代的な思潮などを総合して、その対象を解釈することで初めて事物や事象は、あくまで我々にとってのみ意味づけられ、価値づけられる。意味とか価値というのは、その対象のではなく、それを観察する我々の持ち物だ。つまり、祝賀行事に加害性が"ある"のでなく、かえる氏が祝賀行事を被害的に"解釈"したにすぎない。実際のところ、どんな祝賀であれ誰かを傷つけうるということ自体に大きな反論はないだろう。めでたいはずの誰かを祝えないなんて気持ちは誰しも経験があるだろうし理解できる。ただ多くの人はそれを解釈の問題として消化していて、自分の外部に持ち出したりはしないだけだ。解釈というのはたいへん自由だ。実際、意味や価値というのは(共感を得ることを度外視すれば)基本的には「言ったもん勝ち」である。『吾輩は猫である』を悪魔崇拝の本だと糾弾することもできるし、『恋空』をインドカレーのレシピ本だと言っても構わないだろう。抜け落ちた陰毛を生涯の宝としてもいいし、一万円札で鼻をかんでもいい(よくない)。解釈は「わたしにはこう感じた」以上の根拠を求めない。その直観こそが世界の始まりであり、わたしという個人をつくる骨組みになる。エルンスト・マッハという物理学者兼哲学者がいた。速さの単位であるマッハの語源となった人物だ。マッハは、個人が世界を認識するというのは、客観的なあり方ではなく、極めて主観的、物理的、感覚的な視野において行なわれると考えていた。

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このイラストはマッハの考える世界の始まりである。わたしの目が、座っているわたしの体とその向こうの景色を映している。これが世界のすべてであり、"ここ"以外は全て理念的な了解に過ぎないと考えている。だから、究極的には、他人と自分が見ている景色が同じということは証明できないし、意味や価値なんて曖昧なものが自分の外部に"在る"なんて考え得ないわけである。そこにはわたしが直観したなにかと、それの文化的な解釈しかないわけだ。

ここからが大事なのだが(前振りが長すぎる)、ある解釈と別の解釈がかちあったらどちらが優先されるべきなのか?冒頭の例に戻るならば、結婚披露宴という場がある者には喜びを、ある者には悲しみを与える場合、この事態をどう考えるべきなのか?あまりに長くなったのでさっさと結論に向かうが、かえる氏が言うように覚悟をするしかないのだ。わたしとあなたが違う人間であることの覚悟をするしかない。わたしの喜びがあなたの悲しみであるかもしれない覚悟を持って断行するよりない。ただしこれは、あなたにとってもそうなのだ。わたしの解釈とあなたの解釈が(それぞれどんなに歪んでようと)等価であることは約束しよう、だから同じように覚悟をしなければならない。あなたの悲しみがわたしの喜びになることを。他者と生きること、社会をやることとはそういう覚悟の連続だと思っている。わたしとあなたの断絶の悲しみと、共に生きられることの喜びを繰り返しながら私たちは生きていく。この記事の中盤くらいで、俺は、意味や価値を自分の外部の持ち物とするような観察の仕方は良くないと思うように"なった"と書いた。それは言うまでもなく、俺も昔は同じように考えていたからだ。自分の解釈が違うだけだなんて考えたくなかった。他者との相互通行不可能性を確認するようでいやだった。しかしそれでは社会をやっていけない、まずはわたしとあなたが違うことを認めよう、その上でお互いの道を進む痛みを受け入れようと考え直すようになった。別にかえる氏にマウントを取りたいわけではない。「結婚披露宴は傲慢だ」という旨のツイートは何度か見たことがあるし、ある程度の共感をよぶところなのだろう。加えて、多様性が説かれる現代、解釈に対する配慮という視点が強調されるべきという流れも後押しするだろう。「誰かを傷つけてもやるという覚悟をもてるか」という問いもわかる。だが、たぶん、みんなとっくに覚悟していたのだ。こんなに多様性が解かれるようになる前から。きっと冒頭のツイートを見てこんなふうに思った人もいるのではないか?「覚悟って、、、そんな大それたことか?」と。大それたことなのだ。他者と断絶に耐え難い苦痛を感じる人間にとっては。他者とわたしとの間の距離は、いっそ孤独にひきこもるには十分すぎるほど遠い。しかし、その覚悟、わたしと他者とは違うということを理解することでしか進めない道がある。それはまさに、かえる氏自身が言うように「全てを中止する」のではない生き方のことだ。はーーーーーー、長々と書いた結論は、結局のところ、多くの人が当たり前に出来ていることであり、とっくに通過してきた駅の一つであり、既に抜け落ちた乳歯を拾ったきたにすぎないのだ。人生31年も生きてきたのに、このことに思い至ったのはごく最近のこと。わたしとあなたが生きることの摩擦も、少しずついなせるようになってきたような気もするのだが、気を抜くとついつい、あなたとはわたし自身であるかのような振る舞いをしてしまう。かえる氏も俺も、まだまだ孤独の修行が足りな、、、、え?かえる氏は結婚してる?なんだよ!!!!!!!!!!