毎年恒例春服の話

晴れ。暑さ寒さのジェットコースター。花粉の嵐。こんばんは、きゃりーぱみゅぱみゅ・・・です!

気温が高すぎて、地元秋田では雪が少なく、雪祭りもかなり貧しい景色になっている。ただ、雪国の民は雪を憎んでいるため、きっと楽な冬で喜んでいると思う。スキー場とかはきついかもしれないけど。今日は暑かったから、急激に春服が欲しくなってきた。

春服の話は春になるたびに書いている。去年も一昨年も書いている。春服という概念には特別な意味があるように思う。これまでのネイビーやグレーなどの暗い色目、重たいシルエットから一気に軽快になり、足元もローファーとか、履いてなかった靴を履いたりする。あんなに楽しかった重ね着もだんだん飽きてきて、薄手のニットやシャツ一枚のシンプルさに憧れてくる。季節を先取りするのでも、寒い時期を先取りするより暖かい時期を先取りする方がおしゃれな感じもする。寒くないのがかっこいいみたいな?色が華やかになるからかな?毎年、春アウターが欲しい、春のオシャレな格好がしたいとこのブログに書いては、何もせずに夏になっていく。ここ数年、太りに太ってから、カットソーだけで過ごすことが減り、努めてシャツを着るようにしているが、プルオーバーのニットとか、オーバーサイズのカットソーで過ごすのもいけてるから、今年はそんな風な格好もしたい。ズボンとトップスだけでつくるワンツーコーデをする場合、サイズバランスが超大事になる気がするが、俺は上も下もレギュラーフィット、ごく普通を信条にしているし、冬の間に重ね着とか、強い色を使ったりして誤魔化してたのが使えないため、本当に普通のおじさんになってしまう。なんかカーディガンを羽織ってみたり、軽いアウターを羽織ったりすると解決するのだが、春とはいえ暑いからあんまり厚手のものは着れない。この、"軽いアウター"というのは難しい。春アウターといえばスプリングコートだが、メンズのコート、コットンギャバジンなどで作られたコートはぶっちゃけかなり暑く感じる。だから素材はコットンよりも化繊メインのものがいい。薄く、シャラシャラと風をはらむ感じがいい。でもウィンドブレーカーとかマウンテンパーカーみたいなのはちょっと違う。そう思って探すとなかなかちょうどいいのが見つからず、なんか古着で買ったボロボロのスイングトップを毎年着ている。ジャングルファティーグとかユーティリティシャツみたいなミリタリーアウターなんかもいいけど、ジーパンに合わせるのはコッテリすぎる感じもする。足元はスニーカーとかモカシンシューズがいい。特にスニーカーはローテクなやつが履きたくなる。そんなことを考えながら今年もなんとなく春をやり過ごし、半袖短パンの夏に向かっていく、のかしら。

美味しさいろいろ

晴れ。寒かったり暖かかったり。こんばんは、古川琴音です。

俺は美味しいものを食べるのが好きで、人生の悦びを構成する大きな要素になっている。美味しいものを食べるのは誰でも好きだと思うが、俺は特に好き、つとめて美味しいものを食べに行動する。ただ、何をもって美味しいとするかは趣味により、育ってきた環境により、体調により様々だ。土井善晴先生は「現代では、美味しいものというのは味が濃いもの、強いものというイメージもあるが、本当は"軽い"。体にスッと入ってくるものが美味しいものだ」と言っていた。代官山のパティスリー、イル・プルー・シュル・ラセーヌの故弓田亨氏は、美味しさとは栄養素を多く含んでいること、嘘がなく自然なものだと語っていたような気がする。サシの入った和牛よりも噛みごたえのある赤身の方が美味しい、野菜も昔の野菜に近いものの方が美味しく、人間の手でデザインされた美味しさを否定していたような気がする(気がする、というのは、氏の著作を読んだわけではなく、10年以上に氏の講義を聞いた記憶に依るからだ)。焼肉は塩の方がうまいとか、高級イタリアンを食べるとサイゼは食べられないとか、まあいろんな言説があるわけだが、いち消費者としては、色んなレイヤーの美味しさがあり、シーンに応じて適切な美味しさを選択することが最も効率的に人生を楽しめる気がする(なんて穏当なテーゼ・・・)。先日、かなり高級な部類のイタリアンを食べる機会があったが、複雑な味の層とそのバランスに感動した。素材も料理も一流、大変美味しかったのだが、コンビニのミートソースとかグラタン(イタリアンではない)も食べたらやっぱり美味しい。一貫400円くらいのちょっとお高い回転寿司も、スシローもそれぞれの良さがある。高級な料理は、やっぱり旨みの濃度が高いとか、味の要素が多く、複雑な層が波のように立ち上がるとか、色々と説明のしようがあるのだが、安価な日常のご飯には高級食にはない嬉しさがある。なんというか、しょーもなさが体に染みるというか。甘い!とかしょっぱい!グルタミン酸!みたいなシンプルな味の要素がダッシュで飛び込んでくる。ありがたい、おいしい〜とため息をつく。高級な料理は複雑すぎて美味しさに辿り着くまでに数秒かかる時がある。日常的なご飯は0.02秒、舌についた瞬間に美味しい。経験値の差もあるだろう。俺が常に高級料理を食べていれば、安価なご飯は単純すぎかつ味が濃すぎで食べられないかもしれないし、複雑な料理を理解するスピードも上がるのかもしれないが、そんなにいい暮らしもしていないので、分相応と分不相応を行き来して楽しんでいる。

ところで、普段食べるものはなるべく味の要素が少ない方が嬉しい。これは好みの問題なのだが、例えばチョコでも、ベリーのソースが詰まってるとか、オレンジピールがどうの、みたいなものよりチョコを固めました!って感じのものが好きだ。クレープも、最近はバターシュガーばかり食べているし、お肉を炒める時などもなるべく調味料は減らしたい。牛丼とかラーメンとか、やっぱりいい。あましょっぱい!お肉!みたいな。だから、たまに高級な料理を食べると、あれも乗せましたこれも乗せました的な料理が出てきて一瞬怯むのだが、食べてみると、乗っけているそれぞれの食べ物が自分の役割を全うしており、そのバランスになるほどと思ってしまって、これはいいなと思うのである。

というようなことを、ファミチキバーガー(専用バンズのやつ)を食べながら考えていた。ファミチキバーガーは最高だ。いつも思っていた、レタスもソースもピクルスもいらんな〜、パンと肉でいいな〜、肉がもっとジュワジュワだといいな〜・・・全てをファミチキバーガーが解決した。柔らかなパンからほとばしる脂、申し訳程度のタルタルソース。これ以上引けない、バーガーの最小単位。ハンバーガーを食べる時、(ハンバーグとご飯のほうがいいな〜)と思うこともあったが、ファミチキバーガーはちがう。ファミチキとご飯も悪くないが、ファミチキバーガーはファミチキだけで食べるよりずっと美味しい。ありがとうファミリーマート

2月への想い

晴れ。寒いと思ったのも束の間。こんばんは、Twiceナヨンです。

2月は好きだ。寒いし、雪が降るから特別感があるし、なにより俺の誕生月でもある。誕生日は最高。俺は誕生日をガンガンアピールする。なぜなら絶対勝てる手札だから。大富豪で言えば2を越えてジョーカー。全てを無に帰す一手である。しかしこのカード、申告しないことには使えない。他人の誕生日ほど興味がないものはないから、いちいち覚えない。でも言われれば、おおそうか、祝おうという気になるから、これはもう言ったもの勝ちだ。他人の誕生日もガンガン言って欲しい。でもTwitterでは、基本的に誰かが誕生日でもおめでとうメッセージは言わないことにしている。見過ごしたりして、全員に祝電を渡せるわけではないから、「え、あの人には言って私には言わないの?」的な誤解を招きたくないからだ。あと、こっちが仲良しと思っていても向こうがそこまででもなかったりしたら、祝電をもらっても気まずいかもしれないみたいな不安もある。だから一律で言わないことにしている(本当にどうでもいい)のだが、だからこそ自分の場合はガンガンアピールする。どうぞ祝ってください、と。

で、いつなんですか?誕生日は。→2/26です。月末・・・!恐ろしいことに・・・!月初からもう月末の誕生日を思っているっ・・・!

いちねんせいになったら

晴れ。寒くないな〜〜〜冬終わったくせ〜〜〜こんばんは、ソルユナです。

飲み会はいい。月に一回くらいはやりたい。俺は家ではほとんど酒を飲まないので、飲み会がないと酒を飲むことはないわけだが、外で酒を飲むというのは、美味しいとか美味しくないとかじゃなくエネルギーが湧く部分がある。それに、仕事と関係ない人間関係で社会性エンジンを吹かすのもエネルギーが湧いてくる。旅行とかディズニーみたいなものだな。明日への活力と引き換えに、いまの精神力を削るあたりも似ている。月に一回くらいはやりたいが、毎週はやりたくない。俺は実家では喋らない子供だった。静かに一人で積み木を組んでは崩している子供だったし、いまは積み木がスマホとかプレイステーションに変わったけど同じような時間を大事にしている。コミュニケーションの時間はあっという間、止まることなく後戻りもできず、ゲレンデを滑降するようだ。10代、20代を適切に生きてきた人間はスキーやボードを履いてスムーズに滑り降りることができるのだが、俺はそうした下地がないから、竹スキーを履いてみたり、ゴミ袋のソリに乗ってみたり、たまにただ全力で駆け降りることでみんなについていったりする。配られた手札で勝負するというのはそういうことで、上手にできないことは工夫するしかない。だから場に対して集中してないと流れに乗れないし、それが終わるとけっこう疲れる。それでも友達と過ごすのは好きだ。俺にも好意を受けたり与えたりできる相手がいると感じられるのは幸せだ。やはり人と繋がることが人生だなあと思っちゃったりもする。本当に友達のいない人生だったと感じる。社会人になってからの方が友達ができたと思うし、いまは人生でいちばん多い。社会を頑張ってよかった。後悔は多く、取り返せないものもたくさんあり、古傷は風が吹くたびに痛むが、それでも今が悪いよりは良いので。

もしもピアノが弾けたなら

晴れ。今日は冷えるね。こんばんは、twiceのモモです。

仕事は閑散期だが、業績が非常に悪いため空気が悪い。この冬は圧倒的暖冬により、どの企業も冬物商材の売れ行きが悪かった。ユニクロでさえ、今季の品揃えを反省し、マーチャンダイジングを見直しすると宣言している。今年の冬は寒くなる!とはとても思えないので、暖冬に向けた品揃えをすることになる、が、暖冬になるということは、ダウンやウールコートといった重衣料が売れないということだ。じゃあもっと軽い羽織とかニットとかを売ればいいかというと、そういうの10月ぐらいにはゲットしているから買う必要がない。消費者にしても、暖冬になるともう年末年始には、セールだろうが買うものがなくなっているわけだ。百貨店の売上は好調のようだが、これは嗜好品が売れているわけで、それでもコート類は不調だと聞く。ユニクロ曰く「気候に関係ない"ニュース性"のある商品を売りたい」そうだ。ニュース性というのは要するに、どこそことコラボしたとか、形が面白いとか、そういう飛び道具的な商品のことだと思う。こういう飛び道具的な商品というのは水物で、基本的に今年やったものは来年はできないから、自転車操業的に次のなにか、次のなにかと探し続けないといけないため、頼りすぎには禁物なのだが、何せ売るものがないから飛び道具でもカブトボーグでも使わないといけないわけだ。天下のユニクロでさえこうなのだから、小売業の吹きだまりにいる我々はなかなか大変である。数字が悪いからみんな忙しそうだが、俺は閑散期くらい早く帰りたいのでさっさと帰っている。いまの担当部署がやや特殊な性質を持っているからだが、異動になったら地獄である。

こうした仕事の悩みというのは、本当に矮小なものだと感じる。弊社の粗利が1%落ちるとか上がるとか、世界にとっては極めてどうでもいいことだし、会社が潰れるほどのことでもないし、別に潰れたところで誰も死にはしない。それよりも日々の幸せについて考えた方がいいのだが、いかんせん、1週間のうちに仕事をしている時間の方が長いせいで、極めて瑣末な問題に脳やメンタルのコストをかけてしまっていると感じる。仕事で悩んでいる時、本当にこんな人生はいやだとおもう。だから、逆に仕事に情熱を燃やしている人や、自分よりも労働に責任を積みたがる人を見るとびっくりしてしまう。「仕事なんか基本したくないよね、めんどいこと嫌だよね」みたいなスタンスで話してたら、向こうから「もっとこういうふうな仕事をしたい!」的なワークポジティブな反応が返ってくると、おっとっと、ごめんごめん・・・という気分になる。どうして労働にそんなに気持ちを入れられるのか共感し難いが、労働時間の幸福度が高い方が人生の充実度が高いのは間違いないと思う。仕事でもなんでも、行き詰まった時にいつもする思考として、「全ての障害が取り除かれた場合にどうしたいか?」というのを考えている。ベストオブベストの到達地点からスタートして、少しずつ現実的な障害を加え、最高の妥協点に着地するためだ。仕事が楽しくないという現状にこの思考を当てはめると・・・年収は十分にもらえて・・・休みもまあいまくらい取れるとして・・・どんな仕事ならしたいか・・・・・うーーーん、服屋はあんまりやりたくない。個人の洋服屋で生活が潤っていそうな人を見たことがなく、金持ちの服屋はだいたい大手セレクトショップのお偉いさんだからだ(早速現実的なハードルが邪魔している)。なんだろ、ディズニーキャストかな!あれだけ役に入り込んでいい仕事は楽しそう。ずっとディズニーパークにいられるし、お客さんの笑顔のために働ける。ただなあ、そもそも人見知りだし、対人スキル下手くそだからクレーム起こしそ〜〜〜〜〜〜。とまあ、だいたいこんなふうに考えて、転職サイトとか見てみるんだけど、募集されている職種の年収が低すぎて応募する気にならなかったりして、惰性で続けているうちに32歳になってしまった。手に職があるとまた違うだろうな、絵が描けるとか、ピアノが弾けるとか。あと20年以上もこんなこと続けるのかと思うと気が滅入る。ぽぴーのことを必要な会社、声かけてください!

クレームとわたし、他人、思いやりの演繹と帰納

晴れ。さむすぎないな〜〜〜こんばんは、本郷柚巴です。

年明けからいろんなことが起こっている。ことの大小は様々だが、身につまされる話としてふたつ挙げたい。

ひとつはレゴランドの炎上。中身を掘りたいわけではないから引用とかはしないけど、どうやら年間パスポートに関わるシステム的な問題で、あるゲストの入園に時間がかかった。それはレゴランド側のミスだったことがわかった。40分ほど待ちぼうけをくらったのに、スタッフたちからの謝罪は一切なし。この件を当事者のゲストがTwitterへ投稿。それをうけてレゴランドの社長もTwitterで反応&このゲストへDM送信&そのDMの内容も公開。既にやばそうな雰囲気が出ているが、このDMというのも内容がよくなかった。ゲストのクレームを"問題提起"と表現、"コールセンターから話をさせてほしい"、"レゴランドのスタッフの99%はいい人だからチャンスが欲しい"と謎の釈明で絶賛大炎上。おまけにこれをツイ消ししたために余計な火種も生んでいる。詳しいことはTwitter見ればすぐ出てくるからあとは自分で調べて。

もうひとつは、つい先日に発生したしまむらの問題。プチプラコーデインフルエンサーみたいな女の子としまむらがコラボしたタイツや靴下の福袋?的な商品が、12月中旬に発売予定だったのだが、延期に延期を重ねてようやく発売となった。ところが届いた商品は様々な不良がみられた。デニールが表記とちがうというのが主な内容なようだが、ディテールが少しちがう、セットの靴下の色が違うなども報告されているようで、全容の把握には至っていない。結果、この福袋は途中で販売中止になったらしく、予約していた人?にも届かなかった。本件について、しまむらの公式サイトに文書がアップされたようだが、これを書いている1/19の時点では見つけられなかった。当事者のインフルエンサーは(俺から見ると)それなりに対応していたと思うが、当のしまむらの対応を含めてあまり好意的には受け止められていないようだ。

両事例とも、発端となったトラブルもまあまあでかいが、その後の対応でさらに大きく燃え広がってしまった感がある。クレームは起こさないに越したことはないが、起きる時は起きる。とにかく初動の対応が命だとよく語られる。まるで災害のようだ。とにかく「相手が何に怒っており、何を求めているのか」を迅速に察知、どのように対応するかを説明、その先の不安要素を全て潰しにかかり、逐次の報告と謝罪。これに尽きる、と俺は習った。小売業の最下層で沈殿物を食べて生きている深海のカニのような俺でさえ知っていることを、天下のレゴランドしまむらが知らないわけがない。当然"そうした"はずだ。なのにこうなってしまう。それだけクレーム対応っていうのは難しいんだなあと感じる。レゴランドの件については「日本式の謝罪ではない。外資とかベンチャーにありがちな思考と文章だ。」という指摘がみられた。とにかく日本は平身低頭で謝り続けるスタイルが好まれる。ほとんどの場合、謝っても何も解決しないが、謝ること以外は何もできない場合もあるし、多くの場合、客は損害に怒っている以上に、不快にさせられたことに怒っている。損害は補填できるにしても、不快な過去は補填できないから、謝り続けるしかない、みたいな対応になる。俺は海外で暮らしたことないからわからないが、確かに欧米人がアイムソーリーって謝り続けてるのはイメージがわかない。さらっと「これから頑張るわ!」的なメッセージ流して終わりみたいなイメージがある。しまむらの件については、会社の規模やことの大きさの割にこぢんまりとした対応だったなという印象がある。有名人を巻き込んだ大規模な不良が起こると、SNS上や公式サイトのわかりやすいところに声明を固定しておくイメージがあるが、それをやっているのはインフルエンサーのほうで、しまむらの方は沈黙に近い対応にみえる(繰り返すが、ネットニュースとかには公式サイトに謝罪文が掲載されたと記載があるからいちどは掲げたのだろうけど、俺は見つけられなかった。見つけたら教えてください)。販売中止になったから無断で予約をキャンセル、もう買ってしまって返金希望ならお店に来てね、みたいな対応が身勝手だという意見もあったが、実務的にはそうするしかないだろうという気もする。インフルエンサーの子は「生産・販売には関わっていない」とコメントしてやや批判を浴びているが、いちインフルエンサーが、日本全国に展開する企業の商品生産や販売にまで口を出せるわけがないので、このコメントは責任逃れというか全くの事実で、本件についてインフルエンサー側の責任はほぼない気がする。ただ、もしかしたら、彼女のファンに対しては一抹の責任は生まれてしまうかもしれない。どんな経緯だろうと、客は彼女の名前に金を払ったのだから、彼女に説明を求めるだろうし、そこへのフォローはしないといけないのかもしれない。名前を貸すってこわいね。

かく言う俺も年末年始はクレーム対応に追われていた。販売した商品が不良だったのだが、年末年始の休みを差し引いても俺の対応が杜撰で延焼してしまい、年明けからかなり厳しいメンタルで過ごしていた。弊社からは、「不良品を100%防ぐというのは難しいかもしれないが、その後の対応は誤ってはいけない」と強く叱られた。ついでに「お前には他人を慮る意識がない」とも言われたのだが、まあそれは32年間言われてるのでそうかもしれない。この他人を慮るというのは大変だ。クレームをあげた客も、結局自分がどうして欲しいのかわからないままクレームをあげていることが多い気がする。こうして欲しいというのが明確だったらそれを伝えるが、"ただ怒っている"相手とか、"言っていることとやってほしいことが異なっている"相手に対応するのはすごく難しく感じる。これは俺の共感性の低さ故なのだが、「自分はあまり気にならないことなのに、この人は何で怒ってるんだろう」と思う時がかなりある。待ち合わせに遅刻する人は、だいたい他人の遅刻にも寛容だ。思いやりがある人ほど他人のそれにも厳しいというのはいつも感じるところで、そのポイントは様々だが、俺の中の"気になるツボ"は、世の多くの人と異なるのかもしれない。良いことか悪いことかわからないが、思い返す限り、俺はクレームをつけた事はいちどもない。スマホを機種変した時に初期不良があり、どうしても対応してほしくてゴネたことは一度だけある。それは俺としてはちっとも怒ってなくて、ただスマホが使えないと非常にまずかったので申し訳ないながらゴネさせてもらった、というだけで、対応してもらったら逆に謝って帰ってきた。買った商品がボンクラだったこともあるが、まあちゃんと高いものを買わなかった自分もミスだな、と思うようにしている。翻すと、金に対するリテラシーみたいなものが低いのかもしれないが、それ以上に他人と衝突することがストレスだからだ。同じ小売業・サービス業として、向こうも向こうの事情があるのはよくわかるし。クレームは、発するのも体力がいるし、対応する方もかなりのコストがかかる。その結果として手に入るのは"元通り"なのだから、双方にとって全く生産性がない仕事だ。だから、不良品とかそういうので怒る、という感覚がイマイチ掴めず、謝らせたい!という気持ちもわからない。時間とエネルギーの無駄だと思ってしまう。だから対応を間違えてしまうのだろう。社会が上手な人はこうした共感のチューニングが上手だと感じる。相手が気になることを察知できる。弊社の人間は「意識の問題だ」と俺に指導する。根本的な意識があれば適切な結果に辿り着けるはずだ、と。ただそれはこれまでの半生を上手にやってきた人の話で、俺にとっては、こういうのは意識ではなく反復によるパターン学習を経ないと習得できない。"誠意の型"を習得する必要がある。ただ他人と話すことでさえかなり訓練した。記憶を振り返ると、保育園にいた4〜5才の頃、他の子供にバカと言って泣かせてしまい、先生から「自分が言われたら嫌でしょう!」と怒られたが、(自分はバカではないから言われないだけで、バカがバカと言われるのは当たり前だろ)と思っていた。そういう問題ではないのに気付いたのもここ10年くらいだと思う。俺の社会性は演繹法ではなく帰納法で成り立っており、「こういうルート取りはまずいっぽい」と「この場合はこういう"型"をとると良いっぽい」を繰り返して培ってきた。そんな俺からすると、クレームの当事者の気持ちをわかることは至難の業だから、彼らと一緒に石を投げる気にはならなくて、むしろしまむらレゴランドの担当者の気持ちを思うと苦しい気持ちになる(これらの文章からも、俺は自分のことばかり考えているのがわかる)。クレーム対応はモノの補填のみならず、相手の気持ちに寄り添うこと、わかってはいるが上手にやるのはなかなか難しいよなあ。

そんなわけで、俺が抱えていたトラブルはなんとか片付いたのだが、さきの2件のニュースは全く他人事に思えず、何が良くなかったかを考え直したり、自分が抱える問題とか人生での失敗を振り返ったり。そんな頭の中だった昨日、昼食に、とあるうどん屋さんに入り、うどんとミニかき揚げ丼のセットを頼んだ。かき揚げにかじりつくと、中からどろりと液体が。衣が中まで揚がっておらず、食べられない状態だった。悩んだ。ミニかき揚げ丼はたかだか200円、文句をつけて返してもらいたい額ではない。かき揚げは揚げるのが難しく、中が半生になるのはあるあるだから強く攻める気もない。ただ、このかき揚げは食べられない、残さないといけない。残したら気付いてしまうだろうか。失敗作を提供してしまった、返さなければならないお金をもらってしまった、と。であればここで申告し、お互いスッキリとした方がいいのだろうか、でも、申告したらどうなる?現物を確認する、厨房に持って帰る、謝りにくる、注文キャンセルか作り直しを迫られ、会計時に再度謝られるだろう。たかが200円のために現場をかき乱したくない。俺もこんなことでペコペコ謝られたくない。そこまで食べたくもないのに作り直すなんて言われたらどうしよう・・・・・・・うどんを平らげ、かきあげの下のタレがついたご飯(これがうまい)だけをたべ、半生のかき揚げをわざと割っておいて、何事もないように会計、足早に立ち去った。(他人に寄り添う・・・他人に寄り添う・・・)とひとりごちながら、久しぶりにtwiceを聴いてみたら、彼女たちの活力が、乾いた心に満たされていき、急速に励まされ、空が青かったことを思い出したのであった。

あとは仲良くするだけ

晴れ。寒いは寒いけど、全然乗り越えられるレベル。こんばんは、野田樹潤です。

年は明けたが、おめでとうと祝うには痛みの強い年始となっている。できることなど何もなくただ祈るのみではあるが。

今年はとにかく、そうした悲運も含めて何もないといいなあと切に思う(手遅れの感はあるが・・・)。楽しみなことと言えば、今年は福岡に行ってみたい、ひとりでは行きにくい高級店に行ってみたい、自炊のレパートリーも増やしたい、みたいなぐらいで、何もなく過ごす日々の方が断然多いわけだから、そうした何もない日が何もないまま過ぎてくれることを心から祈る。年末の飲み会は楽しかった。かなり自由に振る舞ってしまったので嫌なところもあったかもしれないが、ああして自分が楽しく振る舞える時間を増やしたい。仕事を、自己実現とか自己充足に活用しない場合、それ以外の時間をよっぽど楽しく過ごさないと割に合わない。家で過ごす時間は現状ですでに満足しているので、あとは外で他人と過ごす時間がもっと楽しくなれば随分と変わってくる。そうすればいよいよ我が人生も終盤、この世の春である。どうぞよろしく。