土佐日記の書き出し真似るやつだいたいおもんない

このブログは、専ら、特に長文で書きたいことがあった場合に運用されていたが、年を追うごとに長文を書くモチベーションは減っていき、こころの珠が社会の荒波に削られるにつれ、集中して考えるような物事もさして思いつかなくなってきた。

数年前には規制されるまで投稿していたツイッターも、めっきりツイート数が減り、強化されたツイッターのサーバーに申し訳ない限りである。 人と会うこともずいぶん少なくなった。

コロナ禍にかこつけてはいるが、実際のところ、そもそも友達が少ないうえに、一人でいてもあまり寂しさを感じない性分なものだから、ちょっとしたきっかけであっという間に私的な交流が減ってしまう。

 

それはそれとしても、日々のストレスはたまっていくし、楽しみなイベントもなく、だらりだらりと過ごしていると暇になってくる。

このブログを、本当に日記として運用しようというのは前から考えてはいた。しかし、それは自然とできるようになるというよりは、努めて実行する意識が必要と思っていた。 100文字かそこらのツイートでさえ億劫になるのに、さらに長い文章を書くエネルギーを日々残しておくことが難しく思えたからだ。

それでもやってみようかな、と思っているのは、こうして文章を書いている間、自分のこころを整頓するような、少なくとも観察できる時間をとれるような気がしているからだ。 何かを考えるとき、腕組みして眉間にシワを寄せるよりも、何かアウトプットしてみるほうがゴールに近付く事がままある。 特に出したい答えがあるわけでもないが、余計なことを意識が向かなくなった分、自分のこころをよく観察する時間も減ってしまったから、日記を書く都度、こころを整頓する時間をとってみたら、少しは暮らしやすくなるのではないか。ほとんど禅のような、写経のような心持ちではあるが。

 

ツイッターは、こころを整理するにはあまりに即時的すぎて、点を線にすることぐらいは辛うじてできても、線が画を作り出す前にタイムラインの波がそれを消していってしまう。 それに、単に自分の日記なんてもの、"わざわざ読みにくる"人に見せる程度でいいようにも思えるし。

そんなわけで、随分時間はかかったが、このブログを再スタートし、本当に日記帳的に走らせてみよう。 とはいえ、どれだけ続けられるか怪しいが。ツイッターは10年間ほとんど毎日つぶやいてたけど。