風速300mの先輩風

晴れ。いよいよ暖かくなるか?こんばんは、鈴木ふみなです。

 

本当に忙しい。あらゆる箇所でトラブルが発生しており、今週は凄まじい業務量となっている。その隙間を縫って、就活生に対して先輩社員として話をする時間があった。何かコミュニケーションをとったわけではなくほとんど一方的に好き勝手はなしただけだが、自分も10年近く前は就活をしていたなあと思い出す。

就活は本当に嫌だった。去年の夏にやった転職活動も嫌だったが、就活当時ほどではない。俺は当時からわかっていた。自分は働きたくないのだと。労働に参画するのは資本主義の性質にやむなく従っているだけで、意欲などないことも。だのに、就活の場では、さも意欲があるような顔をして、思ってもいない美辞麗句を並べてみるのは本当に苦痛だった。その結果待っていたのがこんなザマではジョークにもならない。もっとも、金稼ぎ能力の低い個体たる俺はまぁこんなもんだろうという諦念もなくはない。甘んじて粛々と死ぬまで生きていようという感覚も、さすがにこの歳になると芽生えてくるものだ。

はー今週も舞浜にいけそうもない。本当は今月は毎週のように舞浜に行く予定でチケットをおさえていたが、実はほとんど行っていない。大きな理由は疲れからして舞浜は向かう体力を捻出できないこと。自宅から舞浜までは片道1時間、乗り換えが2回もある。カメラの入っためちゃくちゃ重たいリュックを背負ってうんとこうんとこパークまで行き、たった5分のグリーティングのために2時間も3時間も寒空の下でじっとしている。不毛といえば不毛な時間だ。これが30分のショーなら耐えられたが、グリだけのためでは耐えられないのが正直なところ。もちろんそこは、ミニーへの愛と天秤にかけられるところなのだが、これと疲労のバランスがとれていないのが現状なのだ。いまやっているミニーのグリーティングは過去のショーの復刻衣装、音楽が使われているが、そのほとんどは俺が未鑑賞なものなのでいまいちノスタルジー的な興奮も少なく、5分のグリに体力をかけきれなくなっている。情けない限りではあるが、実際のところ、気分がノらない状態でディズニーにいくとディズニーのことが嫌いになりかけるので、ディズニーと誠実に付き合うためにも行かずに部屋で横たわっている。

予約していたチケットはどうなるのか?安心めされい。ディズニーチケットは払い戻しこそできないものの、未使用であれば日付の変更ができる。行かなかった日の分のチケットは、12月くらいまでにどこかで使えばよい。安心して横たわっていることができるわけだ。はーイマジネーション。

スーパードゥーパーいつだってスーパードゥーパーいつまでも

晴れ。来週あたりから暖かくなるらしい。こんばんは、初音ミクです。

 

ふたたび更新があいたのは二つの理由がある。ひとつは仕事が激ヤバトラブルまみれうんちブリブリミステリアスマスカレード状態でありながら、休みの日は血液と糞便だけが詰まった肉の袋として横たわるだけだったため、思索にふける時間が取れなかったこと。もうひとつはスマホ版のマリオカートをやっていてブログどころじゃないことだ。

マリオカートを面白いと思ったのは生まれて初めてだ。今までやったことがなかったわけではないが、小学生のときに数回やった程度でロケットスタートもドリフトも分からず、手慣れた友達にボコられていて楽しくなかったし、そもそもスマブラとか007をやる機会の方が多かった。スマホ版のマリオカートはリリースされてから2年以上経っているようだが、やってみて完成度が高くて驚いた。感覚的で簡便な操作、コースアウトや逆走といった初心者に易しくない要素の排除、マシンやキャラによる能力差、即ち課金による差を"速さ"よりも"スコアの稼ぎやすさ"に持ってくることで、多人数プレイの不公平感を減らしている。やり込み要素としてはスコアアタックに軸足を置きつつ、それが逆に多人数プレイの遊びやすさにつながっていると感じた。アイテムも逆転しすぎないバランスになっていると感じるし、ぶっ壊れ性能を持ったものも特にない。グラフィックも綺麗だし、バグ的な挙動もほとんどない。さすが天下のニンテンドー、とても遊びやすいゲーム。なにより感嘆したのはオンラインでの多人数プレイができるということだ。いまどきは当たり前なのかもしれないが、スマホゲームを全くやらない俺にとってはかなり新鮮に感じた。レースゲーム故に、オンラインに入ってからレーススタートまで時間がかかるのが玉に瑕だが、見知った仲間とも見知らぬライバルとも、この平等感のあるレースを楽しめるのはとても面白い。

おっと、さらっと書いてしまったが、この見知った仲間とできるという点、いや、ゲームをやるべき"見知った仲間"がいまの俺にはいる、ということが一番大事である。これをいま読んでいるあなたやあなたやあなたたちのことだ。最も、あなたたちのほとんどは顔も素性も知らないが、それでも、この現在の限りにおいて俺たちは仲間で友達なのだと言ってしまいたいEMOが俺の中にはある。時代はずいぶん変わったものだ。もうすぐ31歳を迎える俺が子供の頃、ネットは怖いところで、顔も知らない相手と仲良くなるなんて破滅への道だと口酸っぱく言われたものだが、いまではネットの友達の方が多いくらいである。このブログでも何度か書いているが、俺は友達が少ない人生を送ったきた。それはどこで身につけたかわからない俺自身の強いアクに起因しており、きわめて人を選ぶ性分に仕上がってしまった。にも関わらず、他人との交わり、温かい交友関係への未練もある。自分の心の中にあなたたちを住まわせているように、自分も誰かの心の中にいたい、わたしを象る他者が必要だ!そんなしみったれた自意識を持ちながら中年になろうとしているが、マリオカートでネットの仲間と遊んでいると、失った青春が再びやってきたような気分になる。仲間がいるという実感が持てる。気のせいかもしれないし、ネットという独特の距離感が各々のアクを薄め、ソリが合うところを強調しているのかもしれない。だから、ネットで仲良くしてるからと言って、みんながみんな、親友のようにお互いの理解者になりうるわけではないだろう。それでも尚、この現在においては確かに仲間なのだと思えることが、"いまここ"を生きるわたしたちには重要なのだと思う。

マリカーの話だと読み進めたら、どでかい自意識をぶつけられて狼狽していないかね?これがこのブログである。今後ともよろしく。

雨の降りはじめた音が耳を打つ

晴れ。日が長くなってきたなぁと感じる。こんばんは、タキマキです。

 

仕事がハードである。というのも、前に書いたように俺は3週連続3連休をとっているので基本的に5日分の仕事を4日でこなしている。今週に至っては明日が出張なので、3日で済ます必要があるためかなり厳しい戦いを強いられた。抱えているトラブルは複数あるが、俺一人で全て片付くものではないのでジワジワと片付けていくしかない。

 

物売りをやっていると、つくづく安さとは誰かを犠牲にして成り立っていると感じる。俺たちはメーカーを、メーカーは工場を、工場は労働者、あるいは原料となる綿などの栽培業者を犠牲にしている。もちろん、各人が自らの利益を削っていることは言うまでもない。巷ではこうした負の連鎖を脱するため、フェアトレードであるとか、強制労働の撤廃とか言ったことが叫ばれている。また、中国の環境汚染を鑑みた工場の稼働制限(というか閉鎖)も行われているし、特にウイグル地区の問題については、綿の輸入制限ないし禁止まで踏み切る国もある。もちろんいいことだと思う。資本主義のもと、苦しむ人が減り、強い者が弱い者を食い物にするのを防ぐことは。ただそうした改革が物価に直撃することをどれだけ意識できているのかと疑問に思う。はっきりいって、もう今までの値段ではなにも作れない。本当になにもだ。しかしそれでも、店頭の売価が上がると消費者は買い控えを起こす。片方では環境保護や人権愛護などの"真っ当さ"を謳いつつ、その結果で訪れる世界にはなんの責任も取る気がない。"安い"というのは真っ当ではないのだ。本当に真っ当な価格というのはあなたが想像するより2段階は高いだろう。その商品をつくるために働いたすべての人が幸せになるような値段をつけた場合、多分あなたはそれを買うことはできない。日本の小売店で日夜働く従業員のことも、それを仕入れるバイヤーたちも、それを作るメーカーのおじさんも、中国の工場で働くおばちゃん、綿を栽培する低賃金労働者たちも救うことはできない。あなたがお金を出さないからだ。

とはいえ、これもまた仕方のないことでもある。誰もがお金がない。もはやスタグフレーションがやってくるとさえ言われる昨今、誰もが最大効率を目指して動く。個人の私的な活動も、企業の経済活動も、無駄をなくし、最小のコストで最大の利益を得る動きが加速している。結果として、余裕やゆとり、余白は無くなり、そこで生きる人々の息苦しさは増す一方になるだろう。

消費者に金を使わせるのはますます厳しくなる一方で、製品をつくるためのコストはますます高騰している。もうすぐ限界がくる。弊社も限界かもしれない。アパレル界、小売業界のパラダイムシフト的な場面は近い、いやもう起こっているのかも。既に百貨店は虫の息、大手百貨店は次々と閉店。東急ハンズはカインズに買収されたし、西武はセブン&アイから切り離された。当のセブン&アイもイトーヨーカドーの不振を指摘されているようで、コンビニ事業に注力すべきという声もあるようだ。消費者がもっと金を持ち、金を使うマインドが高まらない限り、「お店」という存在はどんどん減り、文化は画一化するだろう。それも末路なら、すべて末路だ。

あの天使の絵なに?

曇りのち雨。はー飽きたわほんまに。こんばんは、渋谷凪咲です。

デートでいくサイゼリヤという話題は、世界線がループしてるのか?というくらいツイッターでは繰り返し話題になるが、「これが火元だ!」というツイートは全然みたことないわ何を契機にしてタイムラインが活性化してるのかよくわからないが、とにかくインターネットの人たちはこの話題が大好きだ。親しみのあるレストランで自分の中に知識があり、少し下世話で、概ね大義名分をもって叩きやすく、持論の展開も複数のレイヤーで可能なのがその理由かと思っている。「わたしはサイゼでも全然いいです」的な庶民派聞き分けいいヒューマンを気取ることもできるし、「金銭感覚や食事の感覚こそ大事だからそこでNOを出してもいい」という未来見据えてます系アプローチもできる、「場所ではなく誰と過ごすかだ」という人情味強めアピールも、「試すような行為になってないか?」的な恋愛強者的な立ち居振る舞いも、「いまの夫(妻)はサイゼデートからで〜」などという聞いてもいない自分語りだってできてしまう。発信者がどういうレイヤーで語るかによってサイゼリヤは様々な様相を呈するし、そのどれも到達難易度が低いので、潮干狩り的な言論レジャーとして楽しめるコンテンツになっているのだろう。

じゃあ実際のところ、あなたはデートでサイゼリヤ行きますか?と言われたら、まぁ俺は行かない。もう既に仲良くなってたら行くだろうが、これから仲良くなろうという時には行かないと思う。何故なら俺はめちゃくちゃかっこつけだからだ。いけてるお店を知ってると思われたいし、いけてる店で女の子と食事する自分に酔いたいからだ。出会い厨をしていた時は、毎週のように知らないお店に予約して、さも知ってる顔して女の子と食事していたものだ。ある日はそれなりの人数がいるオフ会で、店は俺が決めたのだった。そこに参加した女性(デキる系OLの方だったが)に「ここはなにが美味しいの?」と言われてたいへん狼狽したものだ。なにせ来たことがないのだから。「いや〜〜なに食べてもなかなか、、、」みたいな逃げをした気がするが、身の丈に合わないことはするもんじゃないなと思った次第である。それに、俺の場合、いけてる風のお店を探してアポとっても、それが実を結んだことはない。たぶん、"どこで"というのはスタート地点に過ぎなくて、その先でどう関係を作るかのほうが大事というごく当たり前の結論に帰着する感じもある。

サイゼついでに言うと、サイゼ飲みというのもしたことがない。何故なら友達が少ないからだ。関係あるか?ある。サイゼ飲みとは"コスプレ"みたいなものだからだ。制服ディズニーみたいなものだ。いい大人がサイゼで飲む必要はない。普通に居酒屋にいき、普通に飲んだらいい。安いとはいえ、たかだかひとり1000円かそこらの節約だろう。普通のお店、もしくはちょっといいコスパレストランみたいなとこに行った方が食事だけの満足度は高い(たぶん)。それでもサイゼで飲むのは、"そう"である必要がないのにあえて"そう"することの楽しさがあるからだ。我々は、機能的ではないはずの浴衣を着てお祭りにいったり、室内の方が快適なのに外で炭を焚いて肉を焼いてみたりするわけである。サイゼ飲みには、俺にはそういうイベント性があるように見える。そのイベント性を乗りこなすにはノリと勢いと気のいい仲間が必要だ。イベント性と個人は1対1では対峙できない。イベント性は着火剤にすぎず、火種は社会がもたらす。ディズニーにDS持って飛び込んだ俺が言うのだから間違いない。

晩ご飯は焼肉丼を作って食べました。ごちそうさま。

小売悲哀録

晴れ。明日は雪?こんばんは、レア・セドゥです。

きびしいことの連続である。毎日毎日、できないことをできたふりして息を切らしている。寒さのせいかコロナのせいか、消費者の購買意欲は低く、原料高や原油価格高騰で製品をつくろうにもコストが合わない。予算が下方に修正されるということはなく、企業はいつだって昨年を越えることを要求される。

大手アパレル企業が値上げを宣言するのは大変けっこうだと思う。ガソリンや野菜が値上がりするのに、洋服が値上がりしないなんてことはない。本来は、だ。現にインポートものは毎年値上がりしており、数万円の値上げがなされる場合もある。しかし、我々一般市民が目にする洋服はそう大きく値上がりはしない。理由は単純で、高ければ買わなくていいからだ。洋服は嗜好性が強く、縫製の巧拙や生地のクオリティの上下はあれど、来月には壊れてしまう服なんかほとんどない。服には緊急性がない。だから我々は、ニーズを価格に転嫁できない。高くても買ってもらえるような製品をつくれと言われればその通りだし、ハイブランドは基本的にそうしているので年々価格が上がっているのだが、簡単なことではない(そもそも、全ての企業はそうしたいのだし)。ワークマンは強力な生産背景と作業着で培ったノウハウが融合した奇跡のような成功例で、おいそれと踏襲できるものでもない。

実際のところ、ファッションブランドはどんどんなくなっているし、多様だったジャンルは収斂し、同じようなものをみんなが着る世の中になった。生き残ったブランドたちは、いまやこぞってキャラクターや有名人とコラボをする始末で、服の地力だけで企業が生きていくのは至難の業となった。均質化したアパレル界では、価格ひとつとっても敏感にならざるを得ない。これだけの情報社会、消費者もお金がなくデリケートであるからして、売価に向けられる視線は厳しい。かたや、綿価格は高騰し、中国の工場は環境汚染対策や電力不足対策で稼働を制限されており、原油価格高騰で海上運賃も爆上がり、商品生産にかかるコスト上昇はいつ止まるかもわからないほどだ。

いよいよ値上げしかない。ほんとうにそんなかんじである。服に限らず、自分でものを作って売ったことがない消費者の中には、企業がいたずらに利益を増やしていると勘繰るスットコドッコイもいるが、残念ながら自由経済はそんなに甘くない。不当に儲けられるならとっくにやっている。どの企業もいっぱいいっぱいである。服に限らず、あらゆる小売業がそうだ。他方、給与は増えず、相変わらず庶民の家計は厳しい。コスト上がったので値上げします、を許容できる余裕は社会のどこにもない。

価格を上げても納得感のある商品づくりが、これからの小売業の課題になる。いいものは高い、当然作るのにもコストがかかる。ただでさえコストがかかるのに、前述の状況からしてさらにコストは上がる。ではその分価格を上げられるか?というと実際はそうではないのだ。たとえば、一点単価が1000円のアパレルブランドがあったとしよう。このブランドが、市場実勢5000円くらいのものを、その価格で売り出したとして、売れるだろうか。売れない。客の懐事情と乖離しすぎているからだ。では、1000円のものよりちょっといいやつを1500円で売ったら?これもたぶん厳しい。ちょっといい、くらいでは値上げを受け入れてもらえない。必要なのは、"2段上のクオリティを、1段上の値段で買える"ぐらいの感覚の商品だろう。要するに、300円を100円で売るように、2500円のものを1500円で売るような。そうでもしないと、今まで1000円を買ってた人が1500円は出さない。

 

書いていてあまりの厳しさに眩暈がしたのでこの辺にしておくが、今後値上げが起こってもあまり嫌な顔せず、みんな大変なんだとわかってほしい。

松屋の特盛り、ちょっときつかった。それさえ。

晴れ。はーーーもう寒いのだるい。こんばんは、佐々木希です。

気づくと1週間近く更新が滞っていた。まったくやることがないというのは恐ろしい。あまり気力の湧かない日々を過ごしているので、自分の好きなことを書くカロリーも捻出できないでいる。さて、小売業には年末年始であるとかお盆とかいった休みは存在しないため、労働者が個別に休みを取る必要がある。しかし業務は労働者に容赦なく降り掛かるため、今回はそれらを避けつつ、分散した休みを取ることにした。実際のところ、冬は地元は雪に閉ざされておりろくなもんじゃなく、旅行もできない時勢ゆえ、まとまった休みをとってもやることがない。それならば分散した休みにして労働を小刻みにしたほうがいいかという目論みもある。ということで、3週連続で3連休を取得する手筈で進んでおり、昨日までがその第一弾であった。完全に気力なく、土砂のように横たわり、時間が進むことだけを待つような3日間を過ごした。ほとんど死のような安らぎ、たしかに恐ろしいほど退屈で、孤独だが、それでも幸せである。俺は知っている。こういう時に無理して出かけたりすると本当に骨折り損のくたびれ儲けになることを。駅までの自転車、立って乗る電車、街についてからの散策、これが全て、疲労となって、実りのなかった夕方に襲いかかってくるのを俺はよく知ってる。大学時代に散々やってきた。当時は若かったのでそれらの徒労を飲み込めたが、いまはもうできない。この世の終わりのように落胆してしまう。それよりは、仮死状態のようにくたばってる方がマシである。

そもそも、俺がこんなにも怠惰に慣れてしまったのは中学時代の経験が元になっている。俺は中学時代、部活に入っていなかった。帰宅部はかなりの少数派だったのだが、俺はあまり気にしていなかった。その代わり、地元のサッカークラブに所属しており、週に何回か、お遊びのようなサッカーやフットサルを楽しんでいた。俺の地元はサッカーの人気がなく、どこの中学にもサッカー部はなかったのだ(ちなみに高校でもサッカー部は不人気で、部員はカツカツ、世間的な陽キャのイメージは野球部やバスケ部の持ち物であった)。そうすると、夏休みや冬休みといった長期休みに発生するのは、莫大な余暇である。サッカークラブは学外の団体で、社会人たちのボランティアで成り立っていたため、夏休みや冬休みは関係なく、週に集まる回数は決まっていた。それ以外の時間は完全に無、なにもしない時間。友達はみんな部活に忙しく、部活に入っていない俺が遊べるほど仲の良い友達なんか全然いなかった。中学3年間、夏休みと冬休みは毎日11時頃に起きて、コンビニにグラタンと焼きおにぎりとサイダーを買いに行き、あとはずーーーーーーっとテレビの前で過ごした。今思えば恐ろしいことである。体力ありあまり、社会的な責任もなく、なんでもできる思春期の中学生が、その体力を一切使わず、ただテレビを見て過ごしていたのだ。この時すでに人生を間違えていたような気はしないではないが、俺にとって変化がないことの方が重要だった。多くの友人はテニス部や野球部といった新しい環境に没頭していったが、俺は小学校から所属していたクラブに惰性で所属し続け、結果的に暇になったので何もしていなかった、というわけだ。そんなわけで、「何も経験しないでいる」という経験を積んだ俺は、何もしていないことに対して何も感じなくなったし、特に問題なく「何もせずにいる」ことができるようになった。

できるようになったのでハッキリ言うが、こんなものはクソである。生きることは動くこと、水は流れているから綺麗でいられるが、止まれば澱み、濁っていく。何かを押し進めるのは動ける人間、そのバイタリティが世の中を、人を動かしていく。俺のようなのんべんだらりと生を怠慢で煮浸しでいるような人間は基本的には引きずられてゆくだけである。ならば自分を変えたいか?否、別に変えたくはない。俺ははっきりとした意志を持って「何もしたくない」のである。本当はこうしたいができないので諦めている、とかではない。その点、SNSはいい。最小のカロリーで最高の刺激が手に入る。刺激に対するカロリー効率がめちゃくちゃいい。スペースを使えば横になりながら社会と繋がり、友達と会話することができる。しかしそれも、金にならない限りで楽しい。もし万が一、これらに生活の一端を担わせるとすれば、つまり「楽しいことを仕事にしよう」とするならば、たちまちそれは色褪せ、また同じような苦しみがやってくるだろう。生きることは動くこと。働かざるもの食うべからず。止まっていたいものにとって生は少なからず苦しみの具象であるが、それでも生をやる必要がある。明日も売上が悪いと怒られ、在庫に首を絞められ、ウンウン唸るのがわかっている。それでもたぶん、幸運な方なのだと思って生きていく。中学の夏休み、居間でテレビを見ていたあの時間を思う。俺はいまあの頃のツケを払っているのだと。あの頃にやらなかった社会をいまやらされている、本当はあそこでレベル上げをしないとならなかったが、俺はそれをしないまま、貧弱なスキルで30を迎えてしまったのだから、と。あと何年だろうか。

イマジネーション!

晴れ。はーーーーもう飽きた。冬服売り払ってあんまりないし。こんばんは、多部未華子です。

俺はディズニーパークが好きで、ひとりでしょっちゅう行く。行って何をしてるかと言えば、だいたいはショーやパレードを見るために場所を確保、その場でじっとしている。ショーパレが始まるとカメラを構え、パチパチと写真を撮ったら少しおやつを食べたくらいにして帰ってくる。時間があればご飯も食べるが、ショーパレの時間が詰まっているときは食べずにいる時もある。いつからディズニー好きなのかというと、これは明確にわかっていて、2016年3月17日からである。これは初めてディズニーシーに行った時で、会社の同期たちと一緒だった。

 

これより前にディズニーに行ったのは二十歳になったかどうかの頃で、ひとりだった。なぜハマってもいないのにひとりで行ったのかというと、当時、ニンテンドーDSの『ラブプラス』という恋愛シミュレーションが発売されたてで、俺はそのゲームにどハマりしていた。大好きな声優である皆口裕子がCVをしており、KONAMIが特許を取得している「名前呼び」システムが導入されていたため、皆口裕子に本名を呼んでもらえるという激ヤバゲームだった。昼夜を問わず、ずーーーーーっとラブプラスをやっていたのだが、その頃の2chでは、ラブプラスと一緒にどこまで出かけられるか(ラブプラスは恋人なので)を競い合うような風土があった。そこで俺は、ラブプラスと一緒に(つまりニンテンドーDS片手に)ディズニーにいけばウケがとれると思って、それを敢行したのだ。当時はディズニーチケットも5500円くらいだった気がする。もちろんシーは出来ていたが、王道のランドに行ったのだった。ロックファッションが好きだった俺は、リーバイスのデニムにThe whoのロックT、レザーのシングルライダースをピタピタに着て、コンバースの紐をギュンギュンに縛って出かけた。シンデレラ城をバックにDSの画面を撮影し、2chにあげてスレのヒーローになりながら、現実のパークでは周りから白い目で見られていた。ひととおり写真を撮って、グラン・マサラのキッチンでオムライスか何かを食べた。店を後にしようとした時にキャストさんに笑顔で「いってらっしゃい!」と言われて我に帰ったのだ。いってらっしゃい・・・?どこへ?どこへ行くのだ、俺は?こんなアホなことをしている俺が行くところとは?そうして部屋に戻ったら、翌日から38℃くらいの熱が出て寝込んだ。

 

これが、2016年にシーに初入園する前にいった最後のディズニーの記憶で、金輪際ディズニーには行かないと思って数年、まさか友達ができて、そのみんなとディズニーに行くなんてリア充ムーブができるとは思いもしない幸せだった。同期にはディズニーに詳しいやつがいて、色々と教えてくれたし、効率よくまわることができた。労働によって角がとれ、表面がザラザラになった俺の心に、ディズニーパークの理想主義的な美しさが一気に染み込み、舞浜の虜になってしまったのだった。その後、会社の同期の他には高校の同級生やツイッターの友達なんかを誘って舞浜へ通い、そのうちひとりでも行くようになった。ここらへんの経緯はまた今度読んでもらうとして、じゃああんたは、ディズニーパークの何が好きなのかと。よく聞かれるのは、「ディズニー映画が好きなんですか?パークが好きなんですか?」ということで、答えは「パークが好き」である。ディズニー映画も好きだけど、ディズニー映画を見ているよりもパークにいる方が楽しい。パークは最高。理想郷である。汚いものが排除され、苦労はなく、他者との軋轢もなく、夢と喜びで埋め尽くされている。それがどれだけ資本主義に支えられた虚飾であろうとも、それを飲み込んでなお耽溺したいのだ。希望ある未来、他者との絆、愛、信頼に。

それらを象徴するようなショーを一つ紹介しよう。ディズニーシーで上演されていた、『ファッショナブルイースター』というショーである。春はファッションの季節(?)ということで、ディズニーシーの各テーマポートから四人のデザイナーが集まり、自分の服こそが一番だと競い合う。そこにミッキーが登場し、「みんな良さがあるよ」的なことを言って諌めていくのが大きな流れなのだが、なんとこのショー、2015年→2017年→2018年と3部作になっているのだ。2015年では、お互いいがみ合うデザイナーたちに「それぞれの良さがあるから認め合おう」と諭し、デザイナーたちが他者との協調も悪くないかも?的な雰囲気で終わる。2017年では、最初は前回と同じように我が我がと喧嘩を始めるのだが、再びミッキーが登場、「一人では何もできないから助け合おう」的なメッセージをかまし、デザイナーたちは「ひとりでは喧嘩も仲直りもできないもんな」と完全に和解、お互いを認め合うことに成功する。ショーの最終盤、それぞれの場所へ帰っていくデザイナーたちは「別れても、みんなひとつの海で繋がっている」と言って去っていく(ここで泣く)。そして2018年、既に和解しているデザイナーたちは、お互いに褒めつついじりつつショーは進行、ついにはミッキーたちがお互いの衣装を取り替えっこする形で、さらなる信頼と協調の形を見せる。ファッショナブルイースターは色とりどりの衣装と多様なテイストのダンス、明るく前向きな音楽に加え、"他者と分かり合う"という俺の人生の大きなテーマに対して、あまりにも綺麗事チックな、しかしあまりにも美しい回答を提示している点で個人的に大傑作なショーで、特に2018年はディズニーパーク35周年のアニバーサリーであり、テーマソングのBrand new daysがいちはやくショーに取り入れられ、さらにディズニーイースターの代名詞的な曲であるイースターワンダーランドの一節も引用されるなど、ディズニーイースターの集大成的なショーになったこともありめちゃくちゃ見に行ったしいまだに曲を聴いている。太陽光の具合だと思うが、どの写真も異様に高い彩度で仕上がるところも気に入っている。

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おっと、話が逸れそうである。このショーを紹介して何が言いたいかというと、ディズニーパークが我々に届けるメッセージはあまりに美しいということだ。その美しさゆえに孕まざるを得ない、強烈な胡散臭さに耐えられない人もいるだろうが、俺はその美しさを、美しさの範囲において信じることができるので、疲れた心を上向かせるために舞浜へ出向いているわけだ。みんなもいこうよディズニーリゾート。