『あの頃ペニーレインと』

俺はあまり映画に明るくなくて、いつもアメコミの映画とかB級のアクション映画ばかりみてる。
何も考えなくていいし、戦隊ものとか仮面ライダーとか、そういうものの延長として、
ただバキーンドカーンと戦ってくれりゃそれでいい。
いわゆる名作!みたいなものはぜんぜん知らない。『天使にラブソングを』も『スタンド・バイ・ミー』も、『ET』さえもちゃんと見たことがない。

しかし、そんな映画ライフはもう何年も続けてるので、セガールが殴る!シュワルツネッガーが撃つ!みたいなのにもいい加減に飽きてきたのと、『ダークナイト ライジング』とか『ウォッチメン』を見て、単に映像の派手さだけ楽しむのも勿体ないなと思ったのとで、とにかく色々みてみようかと思った(時間は売るほどある)。

そうして、ツイッターのフォロワーに「地味な映画」という前置きで勧めてもらったのが『あの頃ペニーレインと』であった。

この映画、調べてみるにかなり有名っぽいから、いまさら興奮気味に感想書くのもなんだか格好悪い感じがするのだけど、こういう「地味な映画」に触れてこなかった僕としては大変に新鮮であったのでここに書いていく。


70年代アメリカ、「よい子」に育てられた童貞ボーイがロックンロ−ルにどハマリし、のめり込む中でとあるバンドの熱烈な追っかけに惚れちまったんだが、そいつはバンドのギターとしっぽりキメてて・・・いや話の筋なんていうのはどうでもいいんだ。調べれば分かる。


言いたいのは、このペニーレインっていうキャラクターの魅力について。この映画、原題は『Almost famous』ってなってるけど、邦題でペニーレインに焦点を当てたものにガラリと変えたことは正解だと思う。
ペニーレイン、本名も年齢も不確かな彼女は、いったいどこから来て何を考えてるのかさっぱり分からないし、教えてもくれない。ただ彼女はいつも笑っていたし冗談を言っていたしみんなを誘惑した。

ペニーレインを演じるケイト・ハドソンはこの当時21歳だそうだが、その割に童顔で胸もない。ヘソ出しルックやフェイクファーのコートもトゥーマッチ、どうもオトナの女性には見えない。かといって彼女はただのガキじゃない。甘く突き刺さるような視線や鉄壁の微笑は、それらの女性の武器としての有用性を自覚している。この二面性は単に(年齢的に)大人と子供の間の微妙な段階を表現してる、というだけでなく、女性そのものの表現だと思う。

そもそも、グルーピーという文化現象自体(ペニーレインたちはどこまでもバンドエイドだと主張するが)、とても興味深いものだ。彼女たちは親密になるために身体を使う。身体が通路になることを知ってるからだ。もっとも、その通路が開かれても、悲しいかな、彼女たちは道具同然に男たちの中で「流通」してしまうわけだが、そこがまた彼女たち(特にペニーレイン)の女性性を高める。

女性はモノだとか、そういうことを言いたいのでなく、この映画は基本的には男の世界の話だってことだ。

この映画自体、監督の自伝的なものだというではないか。主人公ウィリアムも男、サブ主人公っぽいバンドマン、ラッセルもラングラーのデニムシャツを渋く着こなす男。この二人の男は子供と大人としてある種の対立項になっているのだが、この二人の間でペニーレインは別々の意味付けがなされる。ウィリアムにとっては恋の、しかも極めて「純粋な」恋の相手だ。彼は作中で三匹のグルーピーに楽しく童貞を奪われてしまう(とても羨ましい)のだが、肝心のペニーレインとは一度もセックスしない。キスだって愛の告白だって(勇気を振り絞ったものの)彼女には届いていない。一方でラッセルにとっては、言ってしまえば単なる情婦だった。恐らく彼は一度もペニーレインに愛の言葉など投げかけていないし、ペニーレインもそれをわかって彼に抱かれている(このラッセルという男、イケメンだしなんだか一番スポットあたってるしでいい奴っぽいけど実は普通にゲスくて悲しくなる)。

つまり、ペニーレインをめぐって少年と大人(クズ)の間で、プラトニズムとエロティシズムが対立する。それぞれの価値としてペニーレインが捉えられるのだが、当のペニーレインにおいては、大人も子供も精神も身体も統合されている。だがそれは、つまりペニーレインという女性の「本質」については、誰も何もわからない。なぜって、彼らにとって女性が他者で、ある断面だけを見て、それを捉えたとすることを拒むからだ。ペニーレインは何にでもなれる。彼女はどこまでも女性だったしどこまでも少女だった。探しても探しても底に当たらないし、その内に彼女の笑顔に捕まえられる。そうなったらおしまいだ。もうそこで手を打つしか、「僕にとっての彼女」という言い方で降参するしかない。

つまり、ペニーレインは、彼女のことが「わからない」ということだけが「わかる」女性であったし、それが男性というパースペクティブからみた女性(=他者)性を表現することになる。だってみんな、彼女の笑顔が嘘なことを知ってる。なるほど、「ヤンチャなふりして本当はピュア、優しい子なんだ」って言い方もできる。しかし単に現実逃避のメンヘラビッチでもカタがつく。数少ない「本心」の描写とみえるあの涙でさえ、読み込みの余地は大いに残っている。そりゃ、ラッセルの気持ちが自分になかったことに端を発する涙だろうが、しかし、ラッセルにふられるということの「内容」は?ペニーレインにとってそれはどんな意味をもっただろうか?こんな風にして、恐らく、登場人物は誰もペニーレインのことはわかっていないし、見ている者もわからない。

邦題の『あの頃ペニーレインと』は、その主語が一意に決まるものでない。終盤でグルーピーの一人がラッセルに「いつか彼女のことを思い出す」と言うが、この映画はペニーレインという他者をめぐる男たちの(他者への)冒険であるし、童貞ボーイの夢と挫折と友情を見るものであるし、つまり、ロックンロールってことなんじゃないかなって思う。

もしこれでウィリアムがシャブ漬けになって、バンドは解散、ラッセルは廃人になってペニーレインの首を絞めたりすれば立派なファム=ファタルだろうし、見ていてそうなるんじゃないかとさえ思った(自殺しかけてるし)。



ただ、文学でもなんでも、いい作品っつーのは複数のアプローチを許すようなところが往々にしてあって、例えば俺はバンドマンたちの音楽がどうのみたいな話ぜんぜん頭に入ってこなかったけど、あれを通して音楽ってものは〜とかも言えるだろうし、あるいはあの厳格ママを通じて家族の話をすることもできるだろう。俺はずっとペニーレインのことだけ考えてみてたっていうのでこういうアレがアレでアレなのである。