結局はいまを忘れるのなら

晴れ。暑くなってきました。こんばんは、かずへーです。

ぜんぜん書きたいことがない。びっくりするほど書きたいことがない。思うに、日記とは本来、書きたいことを書くことではなく、その日を記述するという営みそれ自体に意味があるような気がするので、読み手の関心を引くような題材や修辞に腐心する必要はないのだが、それにしたって、今日という日を何も覚えていない。なんの目標もなくただ漫然と時間が過ぎていくのを待っているだけだし、仕事のことを書き連ねてもうんざりしてくるし。「これを書いてみたいな」という題材をメモして下書き欄にまとめているのだが、どれもネガティブな話題すぎて、書くためのパワーが足りない。ネガティブな話題を書くとその毒は自分にもまわるわけだが、社会をやりながら日記を書いていては、その毒にまけないパワーが無い。こんなこと書いていたくない!と思ってしまう(なら下書きにも残すなという話だが)。かといって毎日毎日楽しいことがあるわけではないし、そもそも俺は楽しいことや嬉しいこと、言い換えるなら"上向きの波"のようなものを探すのが得意ではないと思う。暗い人間だと思う。他人は自分といても楽しくないんだろうといつも不安だ。だから自分なりにあれこれ手は打ってみるが、だいたいプラマイゼロか、やや赤字くらいで着地している手応えだ。それでも20代前半の頃に比べたらだいぶマシになったような気もする。

前も書いたが、ここ数年は自分がどんどん空っぽな人間になっていると感じる。15年前は書いても書いても尽きなかった思考の果実がいまはずいぶんと萎れて見える。かつて、世界と自分の間には大きな大きな溝があり、そこには自分の歪な思考がなみなみと注がれていた。描き出しても果てなく湧いてくる自己意識、世界に向き合うことの恐怖が俺の周りに巡らされていたと感じるが、いまはその泉もだいぶ枯れてきて、ところどころ名古屋城の鹿よろしく小動物も見られるようだ。それは加齢によって勝手に蒸発したところもあるだろうが、俺自身が努力して社会をやってきた賜物でもあるだろう。それにしてもその仕上がりがこのざまなのだから、頑丈な橋がかかるまではなかなか長い道程だ。かつてここにあった透明度の低い湖は、確かにわたしと世界を隔絶するものであったが、同時に個人のユニークさの担保でもあったと思う。それがなくなることで、自分の発信に社会性フィルターがかかり、当たり障りのない着地を目指すようになるし、偏った思考から脱するようになる。実につまらない。自分のユニークさを生贄にして俺は社会を得る。孤独を燃やして人の暖かさにあたるのだ。それでいいと思う。

 

おっと、、、、、何の話だったっけ、、、、書くことがないという話だったな、、、そういえば高校生の頃も、その日にあったことよりはその日に考えていたことをずっと書いていた。自分の外にある世界より内側の世界への関心のほうが高いようだ。なんというナルシズム。この強烈なナルシズムが他人との融和を阻害しているのかもしれないな。はあ、またネガティブな話を書いてしまった。ネガティブなことしか思い浮かばない割に、それを吐き出すと元気がなくなる。コロッケ3つと唐揚げ4つ、ご飯を1合くらい食べたら少し元気が出たようだ。