イエローイエローハッピー

曇りのち雨。さむい。明日はもっと寒い予報。こんばんは、多部未華子です。

やはり3〜4日は空けないと自分の中にインプットがたまっていかないようだ。全く情けない話である。

 

俺は洋服が好きなのだが、俺自身はそんなにオシャレじゃないな、といつも思う。体型が終わってるのもあるが、なんというか、スタイリングにキレがないというか、キャッチーさがないというか、あまりにも平々凡々としており、特徴がない。若者のファッションをみていると、ここで俺のオシャレ度をあげてるぜ!というポイントがあり、それはトレンドカラーだったりシルエットだったりするわけだが、俺はカラーといったら、デニムの青、靴は黒かベージュ、トップスはオリーブかブラウン、無彩色、たまに赤やグリーンみたいなので決まっており、シルエットも細くも太くもないレギュラーサイズを着ている。もちろん、前にも書いたが、アメリカンダディみたいなその辺のおっさんの格好がしたいという理念があってやってるものではあるが、もはや"敢えて"の域を超えて"まんま"になりつつある。

最近トレンドの90年代リバイバルは好きだ。まさにアメリカの適当極まりないカジュアルが表現されている。一時期は全く注目されてこなかった、アメリカのレギュラー古着の人気が高まっていることも好ましい。古着というと、俺が10代の時はロックTが流行っていたように思う。ヴィンテージのロックTが数万円でどんどん売れており、細身のジーンズに合わせたりしていた。そういうエッジのあるテイストがどんどん退化して、リゾートやリラックスというムードが人気になると古着人気はどんどん落ちていき、原宿の古着屋も次々に閉店していった。すわ古着絶滅か?とおもったが、今度はユーロヴィンテージが台頭してきた。それまで古着といえばアメリカもので、ヨーロッパの古着はかなりニッチな部類だった。両腰と胸に一つポケットがついたカバーオールくらいじゃなかろうか。それが、アナトミカオーベルジュ、シュスなどのユーロヴィンテージをモチーフにしたブランドが増えてきて、認知度も上昇、ユーロヴィンテージを取り扱う古着屋がかなり増えた。アメリカものほどコッテリしておらず、エレガンスさもあり、「デニムとミリタリー」に飽きた人たちの心を掴んだのだろう。並行して、レギュラー古着の中でも少し尖ったものをセレクトする古着屋も当時増えてきていた。90年代リバイバルの萌芽のようなムーブメントで、古くはシノラーと言われたなにかであるとか、青文字系的といった空気を持った、派手かつダサカワなアイテムが女の子たちに人気になってきた。そしていよいよ90年代リバイバル、女子に足並みを揃えるように、ここ1〜2年でメンズのレギュラー古着人気が高まってきた。先日原宿に行った際、シカゴがとても混雑していた。シカゴは原宿にある大型の古着屋で、ヴィンテージも置いてないではないが、ほとんどはレギュラー古着、サイズも様々で、かつてのwegoとかハンジローのような空気を残す老舗だ。10年前ほどは、古着ビギナーの若者か、冷やかしで見にくるヴィンテージおじさんみたいなのがほとんどだったような気がするが、いまは本当にトレンドの服を着たカルチャーの中核を担うような若者が多く、ヴィンテージ好きなら絶対に無視するようなレギュラー古着を漁っている。これはいいことだと思っていて、俺が古着にハマり始めた15年前、古着の楽しみはレギュラー古着だった。現代にはそぐわないトンチキなデザインやイナたい柄が歴史を語るし、好奇心を刺激した。リアルなアメカジを感じられた。知識をつけていくうちに、ヴィンテージとかミリタリーとかばかり見るようになってしまったが、確かにいま、再度レギュラー古着を見直してみると、このダサさが心地いい。それに、いまの若者にしたらこの古臭さが新鮮に感じられるということなのだろう。レギュラー古着を着こなす若者は、アメリカ人のコスプレではなくあくまで日本のトレンドとして落とし込んでる感じがいい。靴がマーチンとかナイキのピカピカじゃなく、汚いコンバースとかレッドウィングとかだともっといいな〜。でもそこが日本らしいんだろう。

思うに、レギュラー古着はいまやファストファッションに近い立ち位置になってるんだろう。安いし、種類もたくさんある。ヴィンテージは単に希少性故に高いだけなので、別にレギュラー古着が洋服として劣っているというわけではないのだし。手軽に、安価にトレンドやこなれ感を足しこめる。最近人気(と俺は思ってるがどうだろう)ショップ、たとえばSIESTAとかprops store、slider store、warming store、color at againstなどの、え、これオシャレなんですか、、、?みたいな、アメリカのスーパーマーケットで売ってるようなものを揃えた品揃えはセレクトショップよりはるかにコスパ良く見えるし、共感するところである。ちなみに俺はcolor at againstの店主とは同郷で、もしかしたら地元ですれ違っていたかもしれないみたいな感じである(?)。この90年代リバイバルにはかなり共感するところで、俺もきもちゆるいシルエットのディッキーズに激ダサネルシャツで街を歩きたい。やろかな。でも俺が着たらゆるくならないんだよな。

まぜまぜ推奨のミートソーススパゲティ専門店最高

晴れ。いよいよという気温になってきた。こんばんは、とみいです。

 

お料理のYouTubeをよく見る。さいきんよく見ているのは、参宮橋のイタリアン『レガーロ』の小倉シェフのYouTubeだ。パスタをメインとしているが、煮込み等のイタリア料理も教えてくれる。家庭用というよりはプロ仕様のレシピで、なんとなくやればできる、みたいな作り方ではない。まぁ、見ているからといって俺がイタリアンを作るわけではない。俺の部屋はコンロが一口しかなく、かつそれはIHなのだ。電子レンジと同時に使うと一撃でブレーカーが落ちるため、パスタを茹でつつソースを作るという作業ができない。おまけに、イタリアンのレシピにはアンチョビとかケイパーとかが必要だが、絶対に使いきれないことがわかっている。トマトソースも作ったところで多分使いきれない。そもそも、イタリアンを食べたい!という欲求自体週に一回くらいしかわいてこない(逆に言うと週に一度はパスタたべたい)。しかしイタリアンを作る過程は展開が早く色も鮮やかで見ていて楽しい。小倉シェフの人柄も魅力だ。ぶっきらぼうそうで適当に喋っているように見えるが、料理はかなり繊細というか"ここしかない!"みたいな着地を目指して作ってる感じがあり、その過程を全て言語化しているので、理屈が好きな自分としては非常におもしろく見ている。その中で小倉シェフがよく言うのが「ムラの美学」という言葉だ。ムラとは村ではなく、まばらであふこと、不均一であることを指している。小倉シェフがパスタを作るとき、お皿全体が一つにまとまっていることは少ない。ソースがかかっているところもあればかかっていないところもある。牡蠣などの副食材もゴロゴロとある感じではなく、一口ごとに異なった食感や風味が得られるように気を配られている。「パスタの上になんか乗ってると、全部混ぜちゃう人いますけど、混ぜちゃだめですよ。食べるごとに味が違うことが大事なんで」とよく言っている。

ところで俺は食べ物混ぜちゃうおじさんである。カレーでもパスタでもとにかく混ぜたい。混ぜたい欲求が止まらない。子供の頃はカレーが出るたびに全てを混ぜた黄色いご飯にしてから食べていた。母親は行儀とかマナーにうるさい女なのでよく咎められた。本当にやるたびに母親から注意されたので、人前ではやらないようにしているが、本当は混ぜたい!と思いながらカレーを食べている。不均一な状態に我慢ならないのかもしれない。黒いコーヒーに白いクリームが流動しているさまを見るのも我慢ならない。即刻かき混ぜて茶色の液体をつくる。この理由について、根本のところは俺自身もわからない。ただそういう衝動が湧き上がってくるとしか言えないのだが、たぶんこんなふうに考えているからじゃないかと思っている(自分のことなのだが)。混ぜられるような食べ物、即ちA(カレー)+B(ライス)となっているような食べ物を前にしたとき、この料理の最大値はA+Bの状態で発揮されるのであり、それぞれ単体の状態ではない。両方がしっかり渾然一体となった状態でこそ最大の美味しさが味わえるという信仰をもっているのだ。カレーライスをカレーだけで食うやつもライスだけで食う奴もいない(否、実はいる。俺の兄貴はカレーライスを食べる時にルーを多めにとってライスを片付けた後にルーだけで食べる。マジで気持ち悪い)。この延長線上で、おかずとご飯(パスタとか)のバランスが崩れるのもすごく嫌だ。カレールーだけ余るとかご飯だけ余るとか許せないし、これは定食でも同じことだ。定食はその性質上、混ぜることが物理的に難しいため、俺はなるべく満遍なく順番に食べるようにしている。トンカツ定食を食べようとした時に、キャベツだけを先に片付けたり、お漬物を最後まで残したりはしない。全ての単品が同じタイミングで無くなってほしいと常に祈りながら食事を摂っている。そんな性分だもんで、小倉シェフのいう「ムラが大事」というのは大人の余裕を感じる。ソースが薄いところのあとに濃ゆいところを食べたら「ああ!もっとまぜたらちょうどよかったのに!」と思うかもしれない。でもなんか、そういう不均等さを愛せるようになるとまたひとつ人間的に成長したりするかもしらん(?)

たとえば、愛とか友とか。

晴れ。ぎりぎり寒い。こんばんは、古川琴音です。

先日の日記しかり、都度、幸福について、「幸せとは平穏」「何も起こらないことが喜び」というようなことを書いているが、こんな不安が俺の中に芽生えた。(こいつ生きてて楽しいことないのかな、、)とか、(そんなに人といるの嫌いなんか、、)とか思われたらどうしよう。俺は別に仙人になりたいわけではない。生きる中で楽しみにしていること、気持ちが高揚することはある。たとえば美味しいご飯を食べる時は、それまでの足取り軽く、食事の間はそれ以外のあるゆる思考は停止し、おいしさがもたらす陶酔にただただ浸っている。新しい洋服を着る時には、思い描いたスタイリングに対していかんせん太りすぎた自分にハニカミつつ、それに近づいたことに喜ぶし、出かけていてもチラチラと自らの新しい服を見つめたりする。ディズニーのショーを見る時は期待と興奮で胸がいっぱいになり、頭の中にある苦いものが溶けていき、淡い暖色に満ちていくのを感じる。ただし、これらの喜びは無償ではない。美味しいものを食べるには辺鄙な駅へでかけたりお金を払ったりするし、服を買うのにもたいへんお金がかかる。ディズニーいくには片道1時間かかるし、体力も消耗する。どんな高揚も感動も、そこへ至るコストと比較衡量してから判断することになる。その結果、差し引き赤字になるようであればそうした行動も実施されることはなく、部屋で肉だまりとして横たわったまま時間が過ぎるのを噛み締めることになる。そこまでの高揚が見込めないのに行動を起こして、徒労に終わってクタクタのまま帰宅する、なんてことは何度もやってきた。何もせず横たわっている限り、人生には何も起こらない。楽しいこともないが苦しいこともない。全てが自分の支配下にあり、不快はない。「幸せとは平穏」というのは本心だが、それは楽しさとか高揚とか感動とかを意味するものではない。幸せとは喜びのことではない。喜びや楽しさは悲しみや怒りと表裏になっているが、俺が思う幸せはそのコインの上にはない。

そうは言っても、生とは空を飛ぶような、海を泳ぐようなもの。動かなければ落ちてゆく。上がるためには努力がいるし、それでもいつかは落ちてゆく。上がっては落ちての波形の軌跡を描きながら前へ前へ進んでゆく。その過程では喜びと悲しみが、愛と憎しみが表裏になったコインを投げ続けていかなければならないんだろう。

もっとも、先に書いた、自分完結できるような行動は、苦しい現実からの逃避効果が薄めなだけに、コストも小さく実行しやすい。こうした小さな幸福を、ヘンゼルとグレーテルのように少しずつ拾い集めて過ごしていくのが個人的には無難な生き方で気に入っている。より大きな高揚にはより大きな落胆がつきまとう。これこそが俺に「幸せとは平穏」と叫ばせるものであるのだが、それはまた違う時に書こう。

世界はするりと片付きもうす

雨。寒すぎる。こんばんは、寺本莉緒です。新年度ということだが、社会人を8年も9年もやっていると新鮮さとかいうものは全くない。いま住んでいる川崎のアパートも、気付けば実家の次に長く住んでしまった。

さて、最近はこのブログは3〜5日間に一度くらいのペースで更新しているが、これはかつての俺(10年以上前)に比べると半分以下のアウトプット量だと思う。高校生の時にやっていたブログは、まいにち1000文字以上の記事を書いていたし、当時流行っていためちゃくちゃ改行するスタイルもやっていたし、好きな女の子の誕生日をパスワードにしてラブレター的な日記を書いたりもしていた(きも)。二十歳くらいのときのTwitterもなかなかの頻度で、API制限で投稿できなくなるまで毎晩ツイートしていた。それだけ吐き出せる蓄えが俺の中にあり、それを蓄えられるだけのインプットがあったということだと思う。街を歩くだけで自分の感受性が(どちらかというと負の方向へ)刺激され、それを言葉に変換し、出力する。大学の講義も良いインプットになっていた。俺はマンモス大学にいながら友達がひとりも出来ず、地元から一緒に上京してきた同級生にくっついてなんとか学生生活の交友を乗り切っていた。とはいえそういう機会は稀で、1週間のうち5日間くらいはひとりで過ごした。そうした俺の孤独を埋めていたのは糖質と脂肪と洋服と哲学だった。食べ物ともかく、大学の講義で得られる学問の知識はキラキラとした宝石のようで、世界を自分に取り込む豊かな補助線のようだった。そのインプットを手がかりに、あるいは随分と卑近な形に希釈して自分の思考に役立てたりしていた。こうしたインプット→アウトプットによって表現される内容はきわめてくだらないが、そのサイクル自体が俺の思考の枠組みとか地盤みたいなものを補強していったし、同じような刺激に対してよりスムーズな思考と消化をもたらしていった。これに比例するように自分の精神はねじれていったような気がするが、、、

卒論をみてもらった教授の言葉でよく覚えているものが二つある。ひとつは、彼女が自分のブログに書いていたことで、「あれだけ好きだったバレエにも少しずつ感動しなくなっていった。こうしてどんどん現世に未練がなくなり、死ぬ準備をしていくんだろうな、と思う」ということ。以前に当ブログでも、童謡を例にとり好きな色のクレヨンから無くなっていき、残るのは興味のないものばかりになるということを書いたが、この精神性はこの教授から影響されている。もう一つは「幸せな人に哲学はいらない」という言葉だ。彼女はロシア文学が専門だが、大学教授というのはえらいので哲学や芸術論なども"教養"として知識を蓄えている。曰く「何かに違和感がある、自分と世界の間で齟齬があるから哲学を必要とする。いまの世界、生活を楽しんでいる人には哲学は必要ない、というか意味がない。だから莉緒ちゃん(俺である)も、何かたぶん、うまくいかないことがあるんでしょ」と。はーなるほどな、と思った。道理で哲学の講義には冴えないメガネばっかりいると思った。だいたい、メディア論とか教育関係、家族の在り方みたいな講義はイケてる空気を持った学生が多かったが、哲学系の講義は一気に教室内の色彩が消え、みんな下を向いてジットリとしていた。湿度も高かったんじゃないか?この「幸せな人には哲学はいらない」というのは、ずっと俺の心にある。哲学がいらなくなるとき、人は幸せになれる。

おっと、何が言いたかったんだっけ?そうそうアウトプットが減っている話だ。もしかしたら俺は少しずつ幸せに近づいているのではないか?哲学からは遠ざかっているし、仕事がしんどいということはある(めちゃくちゃある)が、学生〜20代半ばのような、生そのものに対するしんどさはかなり薄らいだ。当時は「はー死にたい!すごい死にた!未だかつてない死にたさ!」みたいな感じだったが、今は「まぁ死んでもいいけど生きてもいいわ」くらいの前向きさがある。それと引き換えに、俺の中身はどんどん空虚になっていく。外に出したい蓄え、俺の血肉を分けたような言葉は滅多なことでは産まれてこない。日々の多くのことが、自分の中のパターンに当て込まれ、スムーズにしかし極めて味気なく処理されていく。何の栄養もなく、ただ徒労だけを残して通り過ぎていく。生がどんどん作業になり、わたしの手から遠ざかっていく。しかし、それでも幸せに近づいている。わたし自身の豊かさを生贄に捧げて俺は平穏を得る。退屈であることを祈ろう。欠けているものを探さずにいられる日々を、満ちていることとしよう。そうあれかし。

波をジャブジャブジャブジャブ

晴れ。もうちょいなんだよなー。こんばんは、南みゆかです。

別部署の部長の帰りのエレベーターが一緒だったのだが、

「おそいね!やっぱり月曜日は忙しいかね!」

「そっすねーなかなか、、、予算も高くて厳しいです、、、」

「でもな!数字の達成はなによりのエネルギーになるからな!」

「はあ、、、」

みたいな会話をした。ならない、別に。数字の達成はエネルギーにはならない。それはタスクだからだ。やらなければならないことであり、やりたいことではない。数字を達成しても会社が潤うだけで別に誰も幸せにはならない。そりゃ、中・長期的に見れば従業員に還元されることもあるかもしれんが、俺のように明日生きてるかも定かでない気分で過ごしている者にとってはあまり重要ではない。大きな目標を持つものにとっては人生とはまさにそれなのだが、これといった到達地点も考えていない人間にとって、人生は本当に些細な幸せを飛び石のように跳んでゆく営み、苦痛がない状態を求めて自転車操業のようにフラフラと彷徨う道程に過ぎない。そこでは間違っても、仕事で出世するとか、何ごとかを成し遂げるとか、そういった野心や使命は大事にはならない。大切なのは、週末の飲み会とか、来月のディズニーとか、年末の帰省とか、あるいは今夜食べるプリンであるとか、そういう小さな岸だ。少し泳いで岸につく。そこで息を整え、太陽で体を暖め、また冷たい海へ、次なる岸を目指して泳ぎ出す。そうしていつの間にか旅路を終える。できれば早めのうちにサメにかじられるとか、クジラに丸呑みされるみたいな幕引きを望んではいるが、せめて岸に着く前に溺死するのだけは避けておこう、くらいが妥当な線だろう。

何度も書いているが、俺にとって幸せとは高揚ではなく平穏、狂乱ではなく静寂、波瀾ではなく凪を意味するからして、仕事を喜びとするなんてことはない。確かに仕事が楽しかったときはあった。自分に大した責任がなく、毎週、ほとんど同じような作業を行っていればよかった時代だ。あのときは良かった。難しい判断は上司に丸投げし、自分は黙々と作業だけすれば良かった。今はなかなかそういうわけにもいかず、仕事がある日は睡眠時間もいくぶん短くなる。次の岸へ、次の岸へ。

ネズミとゾウとわたし

晴れ。調子乗って春の服着たらめちゃくちゃ寒かった。こんばんは、キム=ダミです。鼻の中にワセリンを塗ると花粉を防いでアレルギー反応を抑えられるときいたので最近はそれをやっている。塗りたては確かに良好だが、徐々にワセリンがとれると鼻水だばだばである。

ちょっとサボったかなと思ったらあっという間に1週間近く更新が滞っていて時間の経過の早さに驚く。光陰矢のごとし。

歳をとると時間が経つのは早く感じる、毎日のように「早いね〜早いね〜」と言い合う日々だ。この、歳をとると時間が経つのが早いというのは気のせいではないという話もある。すっかり市民権を得た話ながら、本当なのか?と訝しみつつそういうことにしている。元ネタは本川達雄著『ゾウの時間 ネズミの時間』という本で、ベストセラーになった有名な本だ。俺は読んでないので聞きかじりの話で恐縮なのだが、概ねこういう話なようだ。ゾウの心臓は一回ドクンと脈を打つのに3秒もかかる。一方でネズミの心臓のそれはわずか0.1秒。これに合わせて、食事→消化→排泄のスピードも、体の大きい(=脈拍が遅い)動物の方が遅い。そして、ここが大事なのだが、寿命に対する脈拍の総数は、ゾウもネズミもおおむね20億回で変わらないのだそう。つまり、ネズミもゾウも、生命活動に関わる身体の営みは同じだけ行っているが、単位時間あたりの回数がちがう、即ち我々が定義するところの1時間の中で、生命活動が行われるスピードはゾウとネズミでは異なっているということだ。これを、感じている時間が違う、と表現しているのだと思う。

心拍数の周期にともなう食事〜排泄のスピードの差、言い換えれば代謝スピードの差が時間の感じ方に差をつくっているということなのだが、著者は生物学者のため、基本的には種族間の差について話している。だが、この「代謝スピード≒時間の感じ方」という説を、同種族内で、やや矮小化した形で適用させたらこんな風に言えるんじゃないか。子供は代謝が高く、冬でも薄着でへっちゃらだが、歳をとり代謝が落ちるにつれ、体も熱を発しなくなる。寒さが身に染みる。つまり、時間の感じ方は速くなる(=生命活動のスピードが落ちる)というわけだ。この、種族間の代謝スピードの違いを同種族内に当てはめることが適切かどうかはよくわからないが、歳をとると時間の流れが早くなるのは確かなことだということで俺の中では固めてある。代謝スピードを時間の流れとして人生を見た場合、体感時間としては20代で折り返しに入るみたいな話もあったような気がする。そうすると俺はとっくに折り返しになっており、もはや死に向かっていくだけである。確かに、飲み会やスペースで過去の失敗談などをよく話すもののよく考えたら5〜6年前、ものによっては10年前のことだったりする。つい先週の話ぐらいの感覚で話しているがあまりに過去すぎて、それ以降の人生の空白っぷりに驚くこともしばしばだ。

 

というようなことを書いていたのだが途中で全部消えてしまった。わざわざ人生が早くも折り返しに入っており、前半で得られなかった多くの歓びを後半で取り返しきれるのか不安なことをわざわざ書き直していると逆に前向きに生きていこうという気になる。マンボーは明けたものの、実勢としては様子見をしようという人が大半だろうし、まだまだマスク生活が続く。花粉もつらいし金もない。もはや大きな希望もない人生だが、それでも死なずに歩く。ゾウもネズミも希望のために生きているのではないのだし。

バットマン

あめ。さむめ。こんばんは、小西真奈美です。

 

俺はヒーロー映画が好きだ。ウルトラマンから始まり、仮面ライダー、ジャンパーソン、ガイファードシャンゼリオンなど特撮ヒーローをたくさん見て育った。マーベルやDCのヒーロー映画もたくさん見たし、今でもこれらを愛している。中でもバットマンは大好きだ。1995年公開の『バットマンリターンズ』が特に好きで、理由は実家に同作のスーファミのゲームがあったからだ。ファイナルファイト的な横スクロールアクションで、けっこう難易度は高かった。よくできたゲームだったと思う。このゲームをずーーーっとやってたので単純に思い入れが深く、以降バットマンの映画はずっと追いかけている。

ティムバートン監督で実写映画第一弾の『バットマン』から始まり、続編の『リターンズ』『フォーエバー』『バットマン&ロビン』の4作も見たし、クリストファーノーラン監督のダークナイト三部作も、ザックスナイダー監督のものも見た。さらには大名作ゲームの『アーカム』シリーズも全てプレイした。そんな俺だから、今回の『ザ・バットマン』を見るのは自然の流れなのである。

さて、当ブログでは基本的にネタバレへの配慮はしない。改めてあらすじを解説するようなことはしないが、見終わらないとわからない話をどんどんしていく可能性があるので気になる人は注意されたい。

 

 

予告編からして今作は期待していた。まずは若きブルースが描かれること。バットマンは伝統的に、人生経験をそれなりに積んできたおじさんとして描かれがちで、『バットマンビギンズ』ではバットマンとして活動したてであっても、社長業に悪人退治にとそつなくこなすスーパーぶりを発揮していた。そうではないバットマン像が見られるという期待があった。さらに楽しみだったのはアクション。予告編の段階で見られた、相手をコテンパンに、本当にコテンパンに叩き潰すという気概あふれた殴打シーンには、ザックスナイダー的な荒々しさがあった。

見てみた感想だが、結論、面白かった。3時間近い上映時間ながらしっかり楽しめたし、現代の、かつひとつの完成されたバットマンを見ることができた。出演者インタビューの中で、「今回のバットマンDCコミックスが、Detective-Comics(探偵漫画)の略であることを再認識できる出来だ」という話がされていた通り、探偵ものとしての毛色が強い。目的不明のまま犯罪を重ねる犯人、手掛かりを探して追うバットマン。ただし普通の探偵と違うのは、主人公がコウモリ男で、ときどき容赦のない暴力が出てくるというところだ。アクションは期待以上だった。格闘シークエンスはそう多くはないものの、一回一回のカロリーがかなり高い。あと、今回のバットマンは敵の攻撃もめちゃくちゃ喰らう。今までのヒーロー映画といえば、敵の攻撃は当たらず自分の攻撃は一撃必中だったが、今作はそういうわけにはいかない。敵に殴られ、鉄パイプで打たれ、弾丸までバチバチに被弾している。それらに1ミリも怯むことなく相手を叩き伏せる姿は狂気そのものである。特にいいのは、少し離れた距離で銃を向けられ、動くな!と脅されているのにも関わらず「は?なんだてめぇ」みたいな顔して手に持っていたバットをぶん投げるところが最高だ。いや少しは怯めよ。

今作のヴィランリドラー。このチョイスもいい。リドラーヴィランになるのは、1995年の『バットマンフォーエバー』以来27年ぶり、ダークナイト三部作では出てこなかったキャラだけに鮮度もある。ペンギンについても同じだ。ペンギンなんてマニアックすぎて誰も知らない気がするが、今作では当たり前みたいに出てくる(ちなみに最初に書いた『バットマンリターンズ』はペンギンがヴィランで、ゲーム版ではラスボスになっておりめちゃくちゃ強い)。リドラーはなぞなぞ好きの猟奇的犯罪者というキャラで、素っ頓狂なスーツを着たヤバいやつなのだが、今作では作品のテーマの一翼を担う重要なキャラクターになっている。

今作のリドラー

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俺の中のリドラー

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詳しいあらすじは割愛するが、リドラーという珍奇なヴィランを選んだことが結果的に今作をより現代的にしている。キャラ設定は完全にオリジナルになっており、上記の通り見た目も刷新されている。『ジョーカー』や『パラサイト』にも通じる、昨今の映画界のトレンドである社会的分断を表現する、なかなかメッセージ性の強いヴィランに仕上がっている。本人に全然戦闘能力がないところがまた不気味である。

さらに今作で印象的だったのは、ヒーローの人間化、言い換えると脱"神"である。ヒーローを人間化する営みはここのところ多くの映画で試みられてきた。直近では007の『ノータイムトゥダイ』がそう。敵にボロボロにされ、弱みを握られ、人間臭い葛藤を見せ、苦悩する。バットマンについても、ダークナイト三部作で似たような取り組みはされたように感じるが、今作はさらにそれを推し進めたように見えた。いくつかそのポイントをあげるが、まずは素顔のブルースのメイクだ。

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予告編でも登場する、この目の周りを黒くするメイクは、バットマンのマスクを被る際に目の周りを目立たなくするために伝統的に行われてきたメイクなのだが、こうして作品の中でメイクしていることを公にするのは初めてである。1992年の『バットマンリターンズ』では、バットマンがマスクを脱ぐシーンがあるが、その際はこの黒いメイクをせずにマスクを被っている。つまり、黒いメイクを目の周りにしているのは演出上の話であり、本来はブルースはメイクなどしていない、素顔にマスクを被っているというテイになっているわけだ。

↓メイクせずにマスクを被る、マイケル・キートン演じるバットマン

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これはダークナイト三部作でも同様で、クリスチャン・ベイル演じるブルースがマスクを砕かれても、彼の目の周りに黒いメイクはない。ところが今作は、積極的に黒いメイクを施したブルースを登場させる。こんなの言ってみればネタバラシというか、メタ的な演出、ヒーローになる裏側を見せる行為、端的に言えばダサいわけだ。ダサいといえば、今作はバットマンが一般人(しかもたくさんの)と同じ画面に映るシーンが多かった。ただでさえリアリティ志向、リドラーも手作りマスクで猟奇犯ぶってみせる中で、ガチガチのスーツに身を包んだバットマンが普通の警官などと同じ画面に映ると我々は「そのスーツださくない・・・?」と思う。どうみても変態だ。警官が訝しむのも無理はない。それに、バットスーツを着ていない時にはホームレスよろしくな小汚い服に身を包み、双眼鏡で女の子の着替えを覗いたりしているし、いつでも着替えられるように目の周りを黒くしながらコソコソ潜入したりしている。バットマンといえばマントを広げて空を滑空するのがお約束だが、今作はYouTubeでよく見るムササビスーツみたいなので、ほとんど自由落下に近い形で空を飛んでいる。そうなるといよいよマントをつけている意味もない。ダサい。胸のバットマークが取り外せるのもめちゃくちゃダサい。それを着るブルースも今作ならではの描かれ方をしている。ロバート・パティンソンakaパティやん演じるブルースは、バットマン史上もっとも鬱屈としており、歪んだ自意識に満ち満ちている。作中でいちども笑うことなく、斎藤一も真っ青なくらいの"悪・即・斬"を徹底している。青臭いまでの正義感と猪突猛進っぷり、髪を振り乱して敵を追いかける。会社の事業が傾いてもお構いなしだ。そもそも今作では、ウェイン社の社長としてのブルースはほぼ姿を見せないし、ウェイン社の中さえ映像はない。この社長ときたら、ロクに仕事もせずに悪人をぶん殴ることに精を出し、「悪が滅びれば金とかどうでもいい」みたいなことを言っている。自分のバットマン活動はすべて金に支えられているのを忘れているらしい。仲間が意識不明の重体から復活したかと思ったら即座に激詰めして必要な情報を吐かせようとするし、正体バレそうになったら露骨に目が泳ぐし、なんなんだこいつは、と思えてくる。しかし、そうでなければならない。バットマンとはそういう人物なのだと、逆説的に納得するのである。バットマンとは、防弾仕様のコウモリコスプレで悪人を殴り倒して社会を変えようと考えているただの金持ちである。慈善事業だって出来るのに、その金は全て武装と車に費やし、あんな変態じみた服装で、警官に白い目で見られながら街を守っている(という自負を抱えている)。そんな人間の頭がまともなわけがない。ここにきてようやくバットマンは、"超人的なヒーロー"から"変態暴力おじさん"として人間化された。悪ふざけみたいなスーツも、情け容赦ない暴力も、あのブルース・ウェインなら納得できる、彼ならそうするかも、という説得力がパティやんにはあった。頭のおかしい金持ちがキモいスーツを着て、棒で殴られても銃で撃たれても死なずに自分を追いかけてきたらめちゃくちゃ怖いと思う。そんなわけで、人間化することでかえってバットマンのキャラクター性を際立たせることができているような気がするのだ。

↓怖すぎる

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それでも、バットマン映画としてのお約束はきちんと果たしてくれる。そもそも、バットマンの世界に登場するお馴染みの人物については一切の説明なく登場するので、バットマン初見の人は果たしてわかっているのか?と不安になるくらいで、明らかにバットマンを知っている人に向けて作られている。上記シーンはお約束その①のバットモービルでのカーチェイスだが、今作のバットモービルはけっこう勿体ぶって登場しており、画面内でなんか作ってるような感じは匂わせつつも全体像は見えない。そしてここぞ!という時に満を持して登場するが、これがまためちゃくちゃ怖い。頭おかしいやつの頭おかしい車が追ってくる。やばい!と思う。また、今作のバットマンは秘密兵器があまりないのだが、必殺技のスモークペレットも意外な形で登場する。

そんなわけで、ティムバートン的なトンチキなバットマンと、リアリティある探偵ものとしてのバットマン、その両方がバランス良くかつこってりと楽しめる濃厚バットマン映画だった。また見たい。