そろそろ靴にかぶるくらいの丈もはこうかな

晴れのち雨。もうはやく梅雨やって、夏クソ長くやりませんか?こんばんは、里仲菜月です。

ファッショントレンドの潮目が変わっているのを感じる。ノームコアのトレンド以降、特にジーンズを中心としたカジュアルは勢いがなくなった。ライトオンとかマックハウスみたいなジーニングカジュアル的な業態は業績悪化し、ユニクロとかグローバルワーク的な綺麗めすっきりゆるっと無地みたいなスタイルが増えた。そうした無味乾燥さに飽きてきた昨今は、よりデコラティブな方向に振れてきている感じがある。韓国アイドルを見てても、かつてのアムラーを彷彿とさせる、嘘くさい色落ちのジーンズやタイトなシルエット、ラインストーンやアップリケ的な装飾が見られる。ジーンズの再ブームを感じるが、かつてのようなヴィンテージ!色落ち!鬼ヒゲ!みたいなのではなく、もっとチープな雰囲気だ。15〜20年前くらいは水色に色落ちしたリーバイス501が4000〜6000円くらいで古着屋に山積みされていたが、あの時のジーンズっぽい。生地にハリはなく、適当に履いて適当に洗った感じ。シルエットもゆるゆる。バギーとかじゃなく、単なる野暮いストレート。こういうのが流行ってくると、ニューバランスみたいなゴツいスニーカーは合わないから、やっぱりアディダスとかナイキとかが人気になるのもわかる。

おれもローテクのスニーカーがほしい。なにがいいかな〜。コンバースは履きにくいからいや。踵にパットがあるやつがいい。vansのエラがいいなあ。あとはアディダスのキャンパス2。キャンパス80'sは細すぎて違う。キャンパス2のボテっとした感じがいい。そういえばキャンパス2はずいぶん長く廃番だったけど、最近また売っている。買おうかしら。プロップスストアなんかでも扱ってる、special by golden fitもなかなかいい。俺はキャシディで買ったんだけど、コッペパンみたいな愛嬌のある形で、半ズボンとも相性がいい。アディダスはな〜、サンバもスペツィアルもスーパースターも流行りすぎてな〜。なんか、今のトレンドは、自分が中学生の頃に好きだったスタイルの面影を感じて興奮する。でも当時のまんまの格好をしたらまた違うんだろうなあ。

お前のせいではないがお前がやらないといけないこと

晴れ。先日の嵐で、せっかく満開になった桜がもう散ってしまった。こんばんは、桑島海空です。

今週はセンセーショナルなパーソンがタイムラインを駆け抜けた。お笑い芸人ラニーノーズのファンの男の子で、推しがいる人間が抱える様々な葛藤と、ラニーノーズ本人たちも巻き込んだ推し活の珍道中(というにはややヘビーだが)が3つくらいに分かれてnoteに書かれている。ただ、今日の日記ではこの件の本筋については触れない。このブログは徹頭徹尾、俺個人についての語りを重視するからだ。顛末が気になる人は各々ググって欲しい。「ラニーノーズ note」とかでツイッター検索したら出てくると思う。俺が注目したいのは、彼の感情が最も吐露されている記事の中にある以下の部分だ。

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どうやら彼が抱える問題は、推しを応援するファンとしての在り方だけではなく、他人一般との関係性にもあるようだ。画像のくだりは、本筋を全て語り終わってなお吐き出しきれない自分のモヤモヤを語っている、枝葉の部分なのだが、ここが俺にひどく刺さった。まさに俺自身が彼の年齢の頃、どころかさらに進んだ年齢でも囚われていた場所であり、だいぶ抜け出した今もなお頭を掠める思考だからだ。彼のnoteを読めばわかるが、ちょっと独善的な思考が見てとれる。おそらく彼自身としては、他人のことや社会の倫理を踏まえた思考になっているつもりなのだが、人と関わらなさすぎて適切な視野がとれなくなっているように感じる。だから、いまの彼がどんなに考えても独善の視野から脱することができない。きっとかなりの人数からそれを指摘されたのだろう。そうした批判に耐えかねた画像の文章かと思う。しかも本人は「これから自分が頑張ろうというつもりで書いた」のだから始末が悪い。

さて、彼の言葉を借りるならば、これは誰に責任があるのか。俺は幼少期から人見知りで、共感性が低く、人間関係が下手だった。人の気持ちがわからないから、その代わりに"正しさ"を求めた。思春期でいくつかのトラブルを経て、認知が歪み、余計に人と関わらなくなっていった。その後、なんとかリハビリをして今に至るが、それでも人並みになったとは言い難い社会性である。そんな自分の半生を振り返っても、彼と同じ言葉をひとりごつことがある。これは誰が悪いんだ?と。他人とうまくやれなかった個々の事例について、この言い方が悪かった、こういう思考が悪かった、と反省することはできよう。多かれ少なかれ、誰もがそうした試行錯誤の中で社会をやっていくのだろうが、それにしても俺は多くないか?それにしても未熟すぎないか?一人の世界から抜け出せなさすぎでは?そうなってしまったのは・・・・それもまた自業自得なのか?たとえば、走るのが遅い、記憶力が悪い、字が汚い、マルチタスクができないetc...で苦労する人たちもたくさんいるかと思うが、これらは所与の差として受容されている感があるし、努力のハウツーもそれなりに示されている。なにより、それらによって孤立したりすることはあまりない。社会性が低いことについては、所与の差がありそうなことは認識されている気はするが、受容はされていない。普通に遠ざけられる。孤立する。それによりさらに悪化する。

こう書いてみると、「誰しも人よりうまくできないことの一つや二つあるが、各人が必要に応じて努力を重ねて乗り越えるしかない」という、極めて凡庸な着地が見えてくるし、実際この記事の着地はそこへ向かうのだが、それでも、社会ができないことは、走るのが遅いこととは同じではないと思う。ランナーとして生きる場合、走るのが遅いのは致命的だが、何せ多くの人間はランナーとしては生きていかないし、できない選択肢は選ばないことができる。ところが社会をやる(他人に共感する・自他の境界を意識する・お互いの"正しさ"をすり合わせるなど)ことからは逃れられない。人間が社会的な動物であるというのは、2000年以上前から言われていることだ。たとえ、自分一人でコンテンツをつくり、それを発信することで稼ごうと思ったとしても社会からは逃れられないだろう。人の世は社会ゲーであり、社会がうまいやつが幸せになることになっている。社会が下手だと寂しさや悲しさと暮らしていく必要があるのだが、しかし、その寂しさや悲しさは・・・本当に・・・・わたしの"せい"なのだろうか・・・・冒頭の彼は、推しとのトラブルの顛末について「誰も悪くない」と結論づけていた。その後に幾分か訂正されたようではあるが、彼の言葉を大げさに解釈するならば、「誰も悪くない」のは種々のトラブルについてではなく、それを起こしてしまった彼の精神についてだろう。彼が"そう"なってしまった発端は彼のせいではない。だから、彼だけが社会をやれるように努力しないといけないのは、アンフェアな苦労といえる。努力しなくてもできる人もいるからだ。俺は24,5くらいまで女性と付き合ったことがなかったが、それはずっと自分が不細工だからだと思っていた。そりゃ、自分が朗らかで人当たりのいい人物だとは思っていなかったが、自分よりずっとやばいやつでも恋愛はしてるわけだからあまり問題ではないのだろう、と。でもたぶん、その等閑視していた人格、精神の問題がずっと大きかったと思う。なにせ友達がいなかったもんで、他人の恋愛やは"気付くとそうなっているもの"としか認識できず、その機序が理解できなかった。「俺にはかなり難しく思えることなのに、世の中の人たちは普通にやってるな・・・」とずっと思っていた。こうなったのは自分が努力しなかったせいなのだろうか。他の人はやはり同じだけ努力していたのか・・・?と。

既に登場した凡庸な着地へと向かおう。アンフェアだろうとなんだろうと、自分以外では助けられないから、自分でやるしかない。ああなんてありふれた結論。こんなことを言う大人にはなりたくなかった。俺がかつて同じことを言われた時、「知ったような口をきくなよこっちの苦労も知らないで」とブチギレていた。他人との理不尽な差を抱えて他人から避けられるしんどさ分かるのかよあんたに!と。その怒りも甘えとか未熟で片付けられるのも我慢ならなかった。しんどさの量が同じじゃないと思っていたからだ。実際同じじゃないと思う。「普通にしてたら、まあ彼女とかできるでしょ」と大学時代に同期が話しているのを、(こちとら普通にしてたら人に避けられるが?)と思いながら聞いていた。俺は友達が少ないことはあまり苦じゃなかったので恋愛の話に終始しているが、社会をやれない人間の具象は様々かと思う。なにしろ、普通にしていたらなんかうまくやれないな、受け入れてもらえないな、嫌われていくな、というのはしんどい。しかもそれが、まるっきり自分自身に非がある問題があるとしてやってくる。理不尽だ。どうしたらよいか。相手を変えにかかるという手もある。かつて差別されてきた、例えば女性とか障害者とか、そういう集団は、種々社会運動を通して社会を相手を変えることで自分たちの望むありようを模索しているし、未だ不十分といえ、歴史的には多くを手に入れてきた。社会性ないみんなで徒党を組んでデモをしてみるか、無理だろうなあ社会性ないし。だいいち、他人とうまくやれない、なんて他のマイノリティに比べてチンケな悩みすぎて社会が取り合うに値しない。そうするとやっぱり自分が努力するしかない。腹を括るんだ。腹を括るとはどういうことか?理不尽を理不尽のまま受け止めるということだ。確かに君が人より努力しなければいけないのは理不尽かもしれない。だがそれをしないなら孤独を受け入れるしかない。どちらかを選ぶしかない。その選択を受け止めることだ。泣きながらやるしかないんだ。だけど、やってみるといいこともあるから、社会、やっていこう。

はあ、なんだかずいぶんと脂っこい記事になってしまった。自分の思考がハイカロリーすぎて3日に分けて書いた。この記事は冒頭の彼だけでなく、同じ理不尽を掲げた多くの人に向けているつもりだ。腹を括るしかないんだ。きっと君たちは、人生を諦めるだけの胆力もないだろう。いつか自分が輝く場所にいける、自分をそのまま受け入れてくれる人が空から落ちてくると思っている。だがそんな日はこない。永劫に。みんなそんなに暇じゃないし、そもそも俺たちにそんな魅力はないからだ。だから社会をやろう。人と話し、傷つけたり傷つけられたりしよう。するとだんだん、明るいと思っていた部屋が存外暗かったことにも気づくだろう。余計なお世話だろうが、失った時間は取り返せないし、それは呪いとなって追いかけてくるものなので。

発見と相対化、積み立てNISA

雨のち晴れ。あたたか。こんにちは、アイリットのモカです。

NISAの積立金額を月10万に引き上げた。現金で貯金するよりはいいかと思って投資信託をしているが、積立金額の10〜15%くらいは利益出ているから、やはり随分マシである。とすると、俺は月10万貯金をするということになるが、これはなかなかの金額である。本当にできるのだろうか。まあでも、いくら浪費癖のある俺でも、口座に金がなければ買いようもないから、かえっていいかもしれない。

投資信託、まあ色々なご意見があると思う。始める前に色んな人の動画をみたんだが、現時点では「あまり考えたくない場合は、とにかく長期でコツコツと積み立てるのがリスク・リターンの面からみて最もいい」という考えを持っている。個別株に突っ込んで、マジで利益を出しにいく考えもあるが、それはそれを本職にしている人の判断で、NISAみたいな素人向けの少額投資の場合、リスクを取らず、少しずつ、長く長く続けることが大事っぽいのでそうしている。

ところで、このNISAにも陰謀論めいたものが沸き上がっており、興味深い。NISAはアメリカに日本の金を流す策略だとか、金融業界が儲けたくて仕掛けてるとか。陰謀論は面白くて、"そういう結果がある"ことから、理由を接続することで成り立ってたりするから、妙な強度を持ってることがある。NISAが実際どうかはあまり関心がないんだが、陰謀論というのは様々ある。ネットの普及でその論者、というかそれを信じる人々は格段に増え、可視化されるようになった感はある。俺はハローバイバイの都市伝説とかも好きだから、陰謀論に高まる気持ちはわかる。陰謀論的な真実は、常に隠されているものだ。政府の策略とか、ロックフェラー家の陰謀とか、管理社会の到来とか・・・冷静になれば到底納得しえない論理の飛躍を埋め立てているのは、隠されていることがもつ真理らしさだと思う。いや、実際のところ、陰謀論的な真実とはググればすぐに出てくるから、隠されているとは言い難く、違う言い方をする必要がありそうだ。つまり、発見の体験が、真実らしさを補強するのだ。陰謀論好きはよく「自分で調べる」「自分の頭で考える」と宣っている。自分で見つけたものほど真実だと思えるものはない。訳のわからん恋愛経験ばかりしてきたアホな女がしたり顔で説法をかましてくるのはよく見るが、あれもまた「わたしがみつけた真理」を手放せない姿だろう。実際はそれがどれだけ陳腐で凡庸でも、"自分で見つけた"ものは甘く美しくみえてしまう。この甘美を、しかもそれなりの年齢で初めて知ってしまうとなかなか中毒から抜けられない。いま30歳前後の人で、10代でインターネットに触れた人なんかは、大手メディアは嘘!ネットにこそ真実がある!これぞ本当の世界だという感動を通過したことがないだろうか?

正論の先こそ

晴れのち雨。昨日あったかかったらから薄着したら寒かった。こんばんは、堀未央奈です。

25歳くらいまで、この世のことは原理的な問題だけが重要で、その先のグラデーションや現実的な程度問題はあまり重要じゃないと思っていた。たとえば「究極的には他人の気持ちなんかわからないから、人を思いやるとかいう営みはエゴに過ぎない」とか、あとは、うーんなんだろ、しょっちゅう思ってたはずなのにいざ列挙しようとすると思いつかないよね。まあとにかく、極論と原理主義的な言説を振り回し、それを真理だと思って威張っていた。でもなんか、それはちょっと違うなって思い始めてきた。社会に揉まれた結果なのだけど、極論とか正論ってあまり意味がないなって考えるようになってきた。意味がないっていうのは、役に立たないってことで、現実的な問題に対して何の助けにもならないって思う場面が増えた。仕事に限らず、世界のあらゆる場面において、良い選択とはより多くの人が幸せになる選択のことで、それは正しさが指標になるとは限らない。現実的な判断をしなくてよかった身分の時は、真理とか論理的整合性みたいな美しいものだけを追いかけていられたけど、社会とは色んな濃さのグレーで満たされているから、白か黒かだけで判断するとクラッシュすることがわかってきた。

ネットを見てると、割といい歳っぽいのに程度問題を無視して、構造の話だけに囚われて悦に入ってる人とかいるけど、あれはまじで良くなくて、パッと見の正しさとか"べき論"の先で何を考えるかがずっと重要だなあって思うようになってきた。冒頭の例で言えば、「究極的には他人の気持ちはわからない」からといって、じゃあ他人とは常に交通不能な状態になっており、"関係"とは幻想に過ぎないというのか?原理的にそうだとしても、現実的には誰もが誰かを愛したり憎んだりしているわけで、その実生活のレイヤーから外れて何かを論じてもその時に気持ちよくなるだけで自分の進む道は示されない。だから、多くの人は、原理的にはわからないかもしれないけど、そうした可能性を探り合って生きていくことで社会を運営している。だから、もう全然出遅れているのだ、正論なんて。みんなとっくに知った上で社会をやっている。思い返せば、高校くらいではもうみんなそういうフェーズだった気がする。俺だけがそのずっと後ろにいて、反対方向を向いていたから、「みんなが自分の後ろにいる」と思っていたなあと振り返る。思春期と青年期は、散々、白な黒かのことだけを考え続けてきたから、ここから10年くらいは、なるべく実生活のレイヤーを大事にしたいなあと思って生きている。

わあ、すごいぼんやりした記事!疲れてるくせに抽象的なことを書こうとするから。

リスクと保身とマスク

晴れ。割と寒い。こんばんは、原つむぎです。

会社からきもい通達がきた。「自席で作業をする場合はマスクをしない」という指示だ。現状、マスクの着用は個人の判断に任せるとなっているにも関わらず、弊社社員は9割マスク着用のまま日々の業務にあたっている。マスクをつけたまま面接に臨む就活生もいるらしい。そもそも、弊社社長や会長はマスク嫌いで、マスクしたまま挨拶をしたりお客さんと会ったりすることを失礼と捉えている。おそらくこの意を受けた通達と思われるが、その中で「自己判断にも関わらず、皆さんは真面目なので頑なにマスクをつけている。あまりいい状況ではないので、外す場面を設ける」との説明があった。

既に読者諸姉諸兄の心の中には加速する思いがおありかと思う。自己判断だというのに会社が指示していいのか、着用のメリットに対して、非着用のメリットが希薄すぎないか、花粉症等でコロナと関係なくマスク着用を選ぶ人もいるのではないか。そもそも自席だけ外すなんて本当に、外すだけが目的の指示で意味不明だ、と。逆に、未だに9割の社員がマスクをつけている会社なんて古臭い、人と対面する時にマスクをつけないのは当然の礼儀、コロナはもう既に恐るべき対象ではないのだから意識を改めるべき、という向きもあるかと思う。ただ、俺が今回このトンチキな通達を引き合いに出したのは、「自己判断なのに一律に同じ行動をしているのは良くない」という言葉に引っかかったからだ。感染症とマスク、自己のリスク管理とマナーみたいな二項対立の中で異質な観念に思えた。反マスク派の人もよく言っていた気がするし、うちの会社もそういう人たちも、"自ら考えること"を非常に重んじているような。

"自ら考える"というのは詭弁というか、方便みたいなものだと思っている。多くの人間はあまり頭が良くなく、労働と娯楽で時間を消費している。人類の歴史の中で傑出した人々が、科学的、哲学的に、それぞれの到達地点を示しているから、凡庸たる我々がそれらのどれにも似よらない地点に辿り着くのは困難を極める。考えることだけに時間をかけている人たちに、片手間に思考する我々では敵わないのだ。自分一人で考えても、自分の持ち物以上の答えは出てこない。だから思考とは、基本的に他人の言葉で行うものであり、"自分で考える"というのはその練度を示すことになる。文章なら、俺は割とその練度が表れてくると思っているが、単にマスクを着ける/着けない程度のことで、"自分で考えている"かどうかはなかなか測れないのではないか。そもそも、弊社は失敗に厳しいと思う。口ではリスクを恐れずにチャレンジしろと言うが、実際に失敗してみると、そのリカバリーについて、業務的にも精神的にも全然サポートしようとしないし、本人だけが追い詰められていくのをよく見てきたし、俺もそうした経験はある。だから、弊社は社員たちが"自分で考えていない"のを憂いているが、そういう人間だけが弊社に残ったか、弊社にいるうちにそうなっていったと考える方が妥当である。弊社としては、そうした"追い詰められ"も含めなリスクを背負って仕事に挑む気骨のある社員を求めているようだが、いまの給料では割に合わないだろう。だいいち、弊社の規則やシステム、社風自体がそうした自発的な人材にフィットしていない("自分で考えていない"社員にあわせて作られているから当たり前なのだが)から、そういう人はさっさと転職している印象がある。マスクを外さないのだって、仮にコロナに罹って、マスクもせずにほっつき歩いてたと批判されたら困るからという、極めて自主的な判断によるものだろう。

ただ、この、リスクをとって動いて欲しいという要望はわかる。というか、リスクをとった先にしか成果物がないような時代な気もする。どんどん価値観が変容し、今までやってきたことが通じなくなってきた時には、新しい島へ飛び移らなければならなず、それができないと沈むだけだ。だから、弊社としては、リスクをとって自分で進む人材が必要なのはよくわかる、し、そのようなことはいろんな会社の求人に書かれてる。

まあ、それを差し引いても意味わからん通達だったな・・・結局指示してるし・・・

"経営者視点を持って仕事しよう"←サラリーマンは経営者ではない件www みたいな話

晴れ。さむさあり、しっかり防寒。こんばんは、清川果林です。

今日、後輩がとあるミスをした。そのミスは、彼の知識不足から発生したものだったが、上司がそれについて説教をしていて、「俺が新人の頃(15年前くらい?)は、知らないなんて理由でミスするのは許されなかった。賃金をもらっているのだから、業務に関わることで、習ってないとか知らないなんてことで損失を出してはいけない、と教わってたんだが、最近の若い子達は、平気で「でもそれ習ってないので」って返してくる。俺はそれはよくない気がする」と話していた(別にこの後輩がそう返したわけではないが、2年前ほどに俺と仕事をしていた後輩がマジでこの返しをしてきたことはある)。確かに、会社とサラリーマンの間の距離感は、ここ10年くらいでかなり変わっている感じがする。"労働とは指示されたことを実行するものであり、指示や教育から漏れたものは私の責任ではない"という姿勢は、若い子にかなり強く感じるし、俺自身も比較的若い世代なのでそうした思いが無いでもない。俺が年を取って老害化したというよりは、世代的な感覚として強まっているように思える。歴史を紐解くと、"ブラック企業"という言葉が生まれたのは2001年頃、映画にもなった『ブラック企業に勤めているんだが〜』は2008年に発表された。この辺りから、会社というのがひとつの大きな敵対存在として、労働者(自分)と切り分けて認識されるようになってきたのではないか。ニートという言葉が流行り出したのも2000年代初頭で、伝説の「働いたら負けかなと思っている」ニキの登場も2004年だ。奇しくも、労働に積極的にコミットしようとする若者を"意識高い系"と呼び始めたのも2000年代半ばくらいからだ。言うまでもなく"意識高い系"は嘲笑のニュアンスを含んだミームだったから、その辺りから、労働をやりたくないものと前提し、それでも働かないと生きていけないという厭労働観みたいなものが醸成されていった、としたらどうだろう。いま25〜6歳くらいの若者たちは1998年くらいの生まれだから、物心ついた時には既に、労働とはやりたくないもの、企業とは自分の人生を食らう悪き存在だというムードがあったとしたら。

「教わってないことは出来ない」というのは、そういう仕事をやる専門として雇われている場合には正しいかもしれないが、やはり"甘えてる"と認識されても仕方ないとは思う。これは10年ほど社会人をやってようやくうっすら感じてきたことだが、特に企業勤めの場合、エクセルに数字を入力するとかメールを返すとかっていうのは仕事の本質ではなく、その先の先にあるであろう、会社の利益の増大のために行う手段にすぎない。社員に課せられているのは会社の利益の増大であり、それにまつわる多種多様な手段を分掌されているにすぎない。突飛な言い方をすれば、仕事とは本質的ではないことばかりを教わっており、最も重要な点については自身が逐次判断しなければならないことが多々あるような気さえする。しかして、「じゃ、利益の増大頼むよ!」と言われてもできないから、逆説的にそうなっている感じもある。だから、分からないことは分かる人に聞いて、適切な作業を行わなければならない。しかし厭労働観が染みていると、どうしてそんなことを自主的にやらないといけないのか?そっちが教えろよ、と思うので、やらない。わたし(労働者)と企業を切り離しているからだ。ツイッターを見てても、種々の不祥事について「企業がちゃんとマネジメントしてないからだ」的な批判が散見されるのもそうだ。俺は、企業と個人はそんなに切り離されていないと思う。というか、企業は個人の集合なので企業を批判するというのは結局誰か個人を批判するということになる。その誰かもまたあなたと同じ労働者であるのだが。だから、「教わってないことは出来ない」のはそれだけ企業活動に参画する意欲がないからで、社会人のくせに会社側にあんよが上手とやってもらわないと仕事もできないヒヨコちゃんに見える。

ところで、改めて、「教わってないことは出来ない」のはどれだけ会社の責任で、どれだけ個人の責任なのだろうか。言い換えれば、労働者はどれくらい自主的に労働に参画する必要があるのだろうか。どの視点から見るかにもよる。その個人の周囲の人、特に上司とか経営者にとっては、意欲的であればあるほどいい。コストあたりのパフォーマンスがあがるから、非常に効率がいい投資になる。後輩たちにとっては微妙だろう。意欲的な人はしばしば、他の人にもそれを求めるから、そこまでしたくねーわという人にとっては鬱陶しい。個人自身としては、、、元も子もないことを言ってしまうが、当人がどうなりたいかによる。最近は、「この世は、個人のしようと思ったことは何でもでき、相応の結果が発生するだけ」という信念が強くなっており、相応の結果を受け止める覚悟さえあるなら何でもしたら、と思うことが多い。それに、「教わってない〜」と言う子はだいたい「偉くなりたくない」「ずっと下っ端がいい」と言ってる子が多いので、実際首尾一貫してるとも言える。ただ、企業としては成長する気がない人材を正社員としては飼っておけないので、そうした姿勢を続ける限りは苦悩が解決されることはないなあとも思う。だから、俺としては、「教わってない〜」は"甘え"だし、ナメたやつだなとは思うが、それでも誤りだとは思わないし、正しいとも思わないという曖昧な受け止めをしている。時代の変遷の中で、労働への価値観が変わり、学校気分で仕事をする人も多いと思う(俺もそういうところはある)。ただ、学校のようにインプットをアウトプットするだけのことを目指す場ではないので、当然求められる姿勢も変わってくる。学校で通じる理屈も通るわけではない。他方で、自分を労働へ投げ込みたくないという気持ちもめちゃくちゃわかるから、知らねーことはできねーんだよという悪態を切り捨てる気にもならない。オラオラ仕事するのとほどほどにやっていきたいのと、どちらの価値観が正しいのか判断する気にはならないが、仕事はきっちりやらないといけないとは思う。自分の実存と労働との距離を保ちながら、パフォーマンスを上げる方法を模索するというのが現代のダウナービジネスマンに必要なスキルなのかもしれませんな。

書くことないので服の話

雨のち晴。さみ〜〜〜〜!こんばんは、村上璃杏です。

したことがないファッションには憧れがある。俺が憧れているファッション(することはないかもしれないけどしてみたいファッション)の話をする。大きく三つある。

ひとつは、いわゆるノームコア的な、リラックスシルエット×無地のセットアップみたいなやつ。ブランドで言うと、テアトラ、ダイワピア、エンノイ、フラッシュサービスみたいなノリ。靴はニューバランスやサロモンのハイテク系。いい。憧れる。やりたい。やらない理由は、リラックスシルエットだとしてもウエスト周りやヒップ周りは普通に作られており、だいたい痩せてる人がこういう服を着るため、100kg寸前のデブにはサイズがない。エンノイならあるけど単純に抽選が当たらない。でもかっこいい。今どきで、シンプルで、スマートだ。ダイワピアのセットアップなんか7万近くかかるので費用面でもかなりキツい。

二つ目は、これも流行ってるノリだが、90年代〜00年代初頭ストリートスタイル。太いジーンズを腰履き、裾はツークッションくらいするかもしれない。トップスも身幅・着丈たっぷり。よくわからないグラフィックもプリントされてるかもしれない。キャップやバケットハット。足元はスニーカー。先日、電車でそんな感じのお兄ちゃんがいた。青みの強いペインターパンツに、キャメルのナイロンピステ、首元からは同色のパーカーを出していた。確かオレンジのニットキャップ(たぶんアクリル製で厚めのものだった)を被って、足元はアディダスのフォーラム!フォーラムというのがいい。ここでサンバとかエアフォースとかだと少し冷めるが、フォーラムはいい。フォーラムはトゥからシューレスに続くあたりで、シュータンがむにっと出てる景色が唯一無二な感じでいけてる。このお兄ちゃんをみて、俺もフォーラムを履きたい!と思ったが、俺はズボンをどれも短めにあげているので、こういうストリート感の強いスニーカーが合わない。

三つめは、ガリガリの女性に転生して、sacaiとかhykeを着て、いつもわけわかんない服着てると思われたい。ビームスだなベイクルーズだのなんか目もくれず、訳わかんない服ばかり着たい。女の子は、訳わかんないかめちゃくちゃ派手な色の服を着て欲しい。俺が女の子ならそうしたい。ハイセンス(というか、美意識が先行しているようなファッション)はどうしても細身になり、ユニセックスめいてくるような気がする。ユニセックスとはいえ、本当に中立というよりは、細身を前提する分、やはり女性的になってくると感じる。だから、男として着るのでなく女性として着たいと思う。女性のほうがスカートなどの膨らみも表現できて、生地を優雅に使える感じがするし。

以上です。ありがとうございました。